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2016.01.20 Wednesday

上智大学大阪キャンパスでの月本さんの公開講座に行ってきた(2)

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     今回も前回に引き続き、上智大学大阪サテライトキャンパスで実施された月本先生の公開講座に参加した時に記録したノートをもとに再現してみたい。


    一神教と多神教 休憩中の参加者のご質問にお答えして
    1980年代後半から、旧約聖書の研究者の中でも古代イスラエルは多神教なのか、一神教といえるのか問題が聖書学者の間で話題になったことがあった。全体としてみると一神教批判的論調が多く見られた。一種の西洋のキリスト教の自己批判として、という意味であったであろう。神は唯一である、として掲げてきたがそれでよかったかという問いであった。

    同じ時期に日本では、伝統的には多神教だから・・・という論調が表れた。それはおそらく梅原武のしそうからであろう。西洋型一神教は、人間を特別なところにおく。その結果地球環境問題が発生したように見える。なぜそうなったのかを考えてみると、環境を人間のために利用し尽くしていい、という人間中心主義であったのではないか。その背景にはキリスト教の存在があることを新聞などに書いた。比較思想学会などで、自然観の対比等がなされ、ある場面では、アニミズム的な世界観の方が環境保護の側面で、優れているとするような論調があった。

    別の一神教批判として、一神教は白黒で判断する二元論的指向性を持っているという批判もあり、その対比として、多神教は、多元的であるという論調も見られた。これらはかなりずさんな議論だという感想を持った。戦争するのは一神教も多神教も同じではないか。そもそもどっちが優れているのかはそもそも多元的な発想ではない。

    こういう主張がなされる背景はある程度類推可能である。日本社会がアメリカに追いつき追い越せでやってきた結果、日本の伝統を忘れてきた。経済的に豊かになった中で、大事なものを忘れたのではないか、という詩的であればわかるが、それがキリスト教をはじめとする一神教がおかしいから、というのは一神教が批判される構造と、構造としては同じにならないか、という疑問が残るのではないだろうか。

    アブラハムのパラレルな物語群

    アブラハムの物語は、同じテーマが繰り返される。たとえば、エジプト寄留である創世記12章とゲラル寄留の20章は同じテーマが繰り返されている。

    新共同訳 創世記12章
    ◆エジプト滞在
     12:10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。
     12:11 エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。
     12:12 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。
     12:13 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
     12:14 アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。
     12:15 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
     12:16 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。
     12:17 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。
     12:18 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。
     12:19 なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」
     12:20 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。

    ゲラル寄留

    新共同訳 創世記
     ◆ゲラル滞在
     20:1 アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、
     20:2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。
     20:3 その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
     20:4 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。
     20:5 彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
     20:6 神は夢の中でアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。
     20:7 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
     20:8 次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。
     20:9 アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」
     20:10 アビメレクは更に、アブラハムに言った。「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」
     20:11 アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。
     20:12 事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。
     20:13 かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」
     20:14 アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、
     20:15 言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」
     20:16 また、サラに言った。「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。これであなたの名誉は取り戻されるでしょう。」
     20:17 アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。
     20:18 主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。


    アブラハムに用いられている向けられている預言者(創  20:7 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから)というのは、旧約聖書での最初の預言者という表現である。父祖たちを指して預言者と言われるのはこの1カ所だけである。

    ここでゲラルでもエジプトの場合でも主張されていることは、サラは妻であると同時に、妹だということになる。つまり、アブラハムがウソを言ったのはどうかという話になる。ある人々は、異母兄弟だと理解する人もいる。しかしながら、聖書でそれを支持するための根拠はない。旧約聖書の中の記述の中には、全てを表現せず、分かりにくい部分がある。旧約聖書は細かなところまで説明しないし、想像力で補わないといけない。恐らくアブラハムはウソを言った可能性が高い殿ではないかと思われる。

    仮に異母兄弟説が正当であるとしても近親相姦にはあたる。旧約聖書中のタマル事案などでは、大きな問題が生まれている。ある面、策略を使って安全確保するのは誉められた話ではないように思われる。敢えて、アブラハムを理想化するうえで、障害となるような同じような話を二つも伝えるのは旧約の特徴の一つではないだろうか。人間を完璧な人物として描かないという特徴である。類例としては数多くあり、ダビデのバテシバ事案、モーセ先輩の激怒事案等が典型的であろう。敢えて、人間を理想化せず、完全なものとして描かないで、その醜さ、弱さを描く。このあたりに旧約聖書の描くリアリズム、現実感覚があるのではないだろうか。神の目から見て非の打ちどころのなかったノアであっても、洪水後は泥酔事案を起こしている。敢えて、完璧でない人を描くことに、弱小の民の強さの一つがあるのではないだろうか。このような自分自身を笑い飛ばす強さみたいなものは、日本の伝統にはないように思う。

    (まぁ、あるとしたらお笑いの世界だけでしょう。お笑いの世界は所詮捨て身芸ですし、仮想人物を語ることで捨て身を登場人物に落語は仮託しますよね。その辺、マンザイや漫談は下手をすると自らの身を捨て身とすることがもとめられることがあるようですが)

    アブラハム、ハガル追い出し事案
    さて、アブラハムの不完全さといえば、アブラムのハガルの件もそれに近い。日本語訳では、そばめとしたと訳されているが、妻としたと原文ではなっている。新共同訳のそばめを訳語として用いた背景には関根正雄訳が原因であるように思われる。楔形文字のヌジ文書に同じ習慣 があると読んで、ハガル事件の背景にこれがあるのでは、と考えて翻訳をしたのではないか。その背景にあると思われる、英語の論文が楔形文字文書の誤読をしていたようである。ここはむしろ、妻として与えた、と読むべきであろう。

    ハガルの追い出しに関しては、やはり2回出てきて、1回目が16章、それと類似する形で21章に出てくる。21章のハガルとイシュマエルを追い出す記述を見ていると、ハガルとイシュマエルに同情する方向にこころが動く。追い出したアブラハムも情けない。

    名古屋付近の常滑にあるINAXのタイル博物館に、楔形文書があり、紀元前300年前の結婚文書である。ここには、イスラムタイルなどもあるのだが、ベルギーか゚オランダでできた、ハガルとイシュマエルが追放される陶板画がある。この陶板画の作者は、ハガルとイシュマエルに同情した表現となっている。


    多分これ(オリジナルはアムステルダム、アールミス工房1770年製だそうで。 リンクはこちら

    なお、初期のアラブのイスラームの人々は自分たちはイシュマエルの子孫だと理解している。イシュマエルがアラビア語ではイシュマイールになる(息子君に確認したら、そうだといっていた)が、彼らには、旧約伝承が伝わっている。

    割礼について、ユダヤ的律法では、生まれてから8日目にすることになっているが、なぜ包皮を切り取るのかの理由は書いていない。神の命令であるとしている。割礼に関しては壁画などの調査から、エジプト人、カナン人もしていたことがわかっている。8日目の実施は旧約の特徴であるといえる。ムスリムは13歳までに割礼を受ければよいが、それはイシュマエルの受けた年齢が基準となっている。ユダヤ教、キリスト教、イスラームはアブラハム宗教と呼ばれるが、まぁ、それが中東で血を流すようなことをしあっているのは実に残念に思う。

    旧約聖書の複眼性
    旧約聖書には、ユダヤ民族中心主義もあるが、それらは、エズラ、ネヘミヤ記に典型的に見られ、異教徒と結婚してはならない、とは書いてある。しかし、ユダヤ民族中心主義でない例は、ダビデの王朝関係者にもみられ、王妃たちは、イスラエル純血主義ではない。ヨナ書などにユダヤを超えてすべての民族にという事例もあり、普遍主義と民族主義的な側面が両立しているのが旧約聖書の世界である。

    ある一点からは同じ方向だけで記述せず、あるいは、同じものを描くにしても単色で構成されているわけではない。ポリフォニーとなっている。矛盾しているものもそのまま置いていることが多い。論理的に考える人は旧約聖書に耐えがたいものを感じるかもしれないが、旧約聖書は、多角的、複眼的視点を持ったものであり、このような記述は、アブラハムの旧約聖書記述にも散見される。

    ソドム滅亡とイサク
    ソドム滅亡とイサク誕生が絡んでいる。
    イサクは、ヘブライ語読みでイツアークであるが、この名前は笑うと関係している形での語呂合わせになっている。ところで、アブラハム物語の課題は後継ぎがいない問題でもあった。アブラハムへの約束 I は創世記 15:1-20であるが、アブラハムには、天の星のような子孫の約束がなされているが、この時アブラハムにいたとされるのは、イシュマエルのみである。

    創世記13章にソドムにロトが定着した記述があるが、これは果たして司会だといえるだろうか。ちょうどこの奇術に合致するポイントは、実は、ガリラヤ湖の東側の丘の途上で出会った。ヨルダンを見渡すと一面緑の地域としてきれいに見えるのはガリラヤ湖のみであり、ガリラヤの高原地帯からガリラヤ湖畔に降りていく、海抜ゼロメートルポイントの休憩所から見たその地帯はものすごく美しく、特に、3月のはじめごろがきれいである。


    こんな感じなのかな
    (ナザレ方面から降りてきたところでガリラヤ湖方面を望む3月ごろの写真)

    旧約聖書の多元性 再び
    ところで、何人の正しいものがいれば、ソドムとゴモラを滅ぼすかを思いとどまるかに関する神との対話は、少数の正しいものがいれば、その社会は滅びないとする立場を反映している。ヨシュア記の最初は、逆に少数の悪い者がいれば、社会そのものが立ち行かなくなるとしている記述がある。いずれも、旧約聖書にある概念である。

    正しいものが一人だけが祝福される、罪の責任はその人だけである、という立場で記述されている例としては、エゼキエルの18章である。

    正しいものが幸いを受けるといおう発想もある。ある面、因果応報の思想、東アジア風にいえば輪廻の思想となり、先祖の悪の類が及ぶという発想でもある。

    その一つの例として出エジプト記20章の記述があり、

     20:5 わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
     20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
     20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

    罪人の存在で社会が崩壊するという概念も、義人がいれば社会が存続するという概念のどちらも大切であり、バランスさせ、併存させているところが非常に旧約聖書的ではないだろうか。

    正しい人がいると助けられるという発想は、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ」とイザヤ書の最初にあるが。大げさな表現であるが、義人が周囲に影響を及ぼす立場をとっている。

    逆に、エゼキエルの表現は、因果応報を個人化したという人もいるが、それは、論理だけでとらえていく旧約学の理解のけっかではないだろうか。エゼキエルが突き付けたのはバビロニア捕囚にしても、神の裁きであること、そして、エルサレムの滅びを語ったのは、神の裁きであり、そのおうえで、イスラエルの回復を語ろうとしたように思う。エゼキエルの表現の奥にあるものはイスラエルの回復であり、だれが回復を担うのか。主体は誰かと問うている。その中で、新しい心、新しい霊の必要性を語り、責任ある主体性の回復が必要だ、とエゼキエルは言おうとしたのではないか。

    イサクの人身御供事件
    イサクをささげよといわれる神のシーンが黙示録22章にあるが、この部分に関して、様々な解釈が述べられたものを、関根清三さんという東大の倫理学の教授の方の本が出ている。

    この中に、キルケゴールという人の文章も収録されている。特に、キルケゴールの「恐れとおののき」は、この物語をどう読むのかを考えたものである。なお、このタイトルは、ピリピ書2:12から採ったものである。また、このキルケゴールの祈りに関する本は一読をおすすめする。

    約束によって与えられた一人後をささげよといわれて、アブラハムはそれに従っている。聖書の中にも出てくるエフタの物語 (士師記の中に出てくる)であり、エフタとその娘の話でもある。あるいは、ギリシア神話では、イフィゲニアである。(ギリシア神話)


    イフィゲニアの犠牲(大英博物館造)

    今日的な意味から言うとイサクの人身御供事案は、不条理であるが、アブラハムは理由がない。何のために、というその理由がない。約束を放棄せよ、という命令となっている。神の試みだとしか書いていない。より高尚なもののために子供をささげよ、でもない、例えば、平和、自由、民族、他の人のいのちのための犠牲の物語ではない。不合理で非条理なものを読み取ることが求められことになる。

    普遍的な真理とか正義などがない物語であり、恐れとおののきを持って受け止めることしかない。それが信仰の逆説である。信仰とはそういうことである。全く不条理で非合理なものをそのまま受け止めるものがたりであり、それが信仰であるかもしれない。イサクを殺そうとしたアブラハムの物語は、そのことを語っている。この物語は信仰の神髄を語っているとキルケゴールは言っている。

    旧約聖書を読み説くことの意味
    モリヤはエルサレムと比定されている。歴代誌II3章で、ソロモンが神殿を立てたその場所とされているが、これは、後の後代の比定想定ではないか。

    古代イスラエルには、神を礼拝する場所が、エルサレム以外がいくつかあった。その意味で、これらの場所に関してなぜそこが用いられるのかの縁起物語となっている。ここでの守屋さんでの出来事として示されていることは、神殿で捧げることの原型としてのイサク物語がメタファーになっているようである。

    まとめ
    アブラハムの生涯の最初の家出で父と母を見捨てている。

    イシュマエルとハガルを追放していることを考えると、イサクは抱え込んだらおかしい。その意味で、イサクも捨ててさせられかけている。このイサク物語があることで、物語としてバランスが取れている。結果として物語としての構造が取れている。その意味で、アブラハムに構造があるのではないか。

    聖書の解釈は、どれが唯一正しい解釈であるのかを必ず決める必要がないのではないか。神が提示された物語と対話者との間で対話することで、隠れた意味が浮かび上がってくるのではないか、と思う。ある決まった正解が必ずある、というわけではない。対話の中で考えることの中に、重要な意味がある。その意味で聖書学にあまりに依拠した聖書の読みは、抜けがあるのではないか。そして、旧約聖書の歴史物語はまだまだ続いている。

    といった感じでした。K学院長、以上報告終わりです。

    個人的感想
    個人的感想としては、聖書の複眼的な記述、相矛盾する記述に関して、解釈の自由さを教えてくださったのは、当時茨城キリスト教大学におられた池田裕先生であった。かなり、自由な解釈の可能性があること、意味が分からないところがたくさんあること、それでも、聖書本文のテキストと格闘することの大切さを古代オリエント学概説という授業でご提示してくださった。その時の聖書の箇所が忘れられない。

    前にも書いたが、ここで再掲しておく。

    【口語訳聖書】イザヤ書
     1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

    この部分はこういう意味だ、こういうことだ、と決められた解釈でなぞるのではなく、聖書のことばと格闘するということの大切さを今回もまた味わった気がする。

    聖書の複眼性、イスラエル人が民族として生存するときに、常に複眼的な思考で生きていることや、自分の事を笑うようなユダヤ的ジョークの話は、山森みか先生から常々ご教示いただいているところではあるが、今回もまた、図らずもそれを別の方からお聞かせいただくことになった。

    今回もまた、聖書を読みと居ていただいて、その構造をご提示いただきながら、ある程度パターンということに意識を巡らせていくと、聖書の構造の重層性というか、一種の入れ子構造というのか、再帰構造になっているのが、やはり、見えるのだなぁ、ということを素朴に思った。

    大変、楽しかったです。


     
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