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2016.01.30 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(37)

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    今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』の中から紹介し、思ったことを書いてみたいと思う。今日は悪の問題について考えてみたいと思っている。

    相対化される悪
     個人的には、かなり左巻きな人なので、リベラルな考え方にかなり親和性がある。ただ、人間主体のガチの唯物論的な理解に成り立ったリベラルではない。ところが、リベラルというラベルがはられてしまうと、教会文化の中では無神論者といわれてしまうが、こういうナンセンスなラベル張りは早く辞めてもらった方がありがたいなぁ、と思う。
     現代社会の中で、相対主義に立つ社会の中で悪をどう考えるのか、という根拠があいまいになることに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。

    今日、善悪の基準には一貫性がない。人々は道徳の専門用語ー奴隷の所有、児童虐待、環境汚染、貧しい人々からの搾取、女性や同性愛者の差別は「不当である」−を使い続けているが、おそらくその理由を説明することは困難だろう。テキサス大学のある教授によると、スーダンにおける現代の奴隷制やナチスのホロコーストを、どのような根拠に基づいて非難するのかと問われると、学生たちは答えに窮すると言う。しかし、その学生たちの何人かは、有名なフットボールチームの監督による幼児虐待を非難したり、一握りの富裕層が搾取しているのはおかしいとして、「ウォール街を占拠せよ」運動(Occupay Wall Street Movement)に参加したりしていた。(『隠された恵み』 p.342)

     ヤンシー先輩は、善悪の基準のその一貫性についてい触れておられる。テレビを見れば、社員の長時間労働をさせるブラック企業と呼ばれる企業群を追及するニュースキャスターが声高に叫ぶ。しかし、そのニュースキャスターが叫ぶその番組では、その番組を作るために下請け孫請け企業では長時間労働がはびこっている。現代社会は、一貫性を人間に求めるが、そもそもそんなものは人間には無理だと思っている。というのは、認知そのものが限界があるものであるし、人間は限りあるものだからだと思っている。環境破壊を非難しながら、その環境保護を訴える会場に道具を運ぶためにディーゼルトラックで行かなければならないとか、環境破壊のデモや集会参加者の大半が自動車でやってくるという現実がアメリカではある。西部劇よろしく、馬や馬車に乗ってくる人は見たことがない。あるいは、普段の生活が安価な商品を選ぶという傾向のためにあまり環境に優しいとは言えない商品が購買される。まぁ、アーミッシュみたいな生き方をする以外に、ある面首尾一貫した生活をすることは困難なのかもしれない。

    ところで、アーミッシュといえば、伝統的な生活をする人々として有名であるが、最近聞いた話によると、アーミッシュの商品は農作物を中心として、農薬や化学肥料も使わないような伝統的な方法で製造されているために、ニューヨークなどの東部沿岸部のいわゆる高所得者層がかなり購買されているという。まぁ、これもまた、矛盾であるが。しかし、では、こういう人々がどうやってこのアーミッシュの商品を買っているかというと、インターネット通販であるという。この話を聞いた時、「はぁ?」となってしまったのだ。アーミッシュの人々とインターネットということがつながらなかったのだ。電話ですら公衆電話でする人々であり、電話すら自宅にひかないとされる人々と、ミーちゃんはーちゃんの出身教会群の近所では悪魔の手先とされるインターネットが似ても似つかなかったのだ。日本版アーミッシュ見たい、と呼ばれるような教会群の中で、情報技術を教えている世俗の職にいる人間の肩身の狭さっちゃありゃしない。

    そこで、アーミッシュの人々がどうインターネットを使っているかというと、現地調査に行かれた牧師先生のお話をお聞きした限りの話であるが、販売組織の建屋の中ではインターネットを使うけれども、家庭の中には絶対持ち込ませないようにしているとのお話であった。まぁ、インターネット中毒という言葉があるくらい、問題を起こしかねない側面があるので、まぁ、これくらいでいいのかもしれない。つながりすぎる社会、という言葉もあるらしいし。


    Internet Addictionを揶揄したマンガ

    ところで、テキサス大学の某教授の「スーダンにおける現代の奴隷制やナチスのホロコーストを、どのような根拠に基づいて非難するのかと問われると、学生たちは答えに窮する」と言うことには、非常に重要な印象を受けたのである。個人的には、東大の安田講堂事件の終焉とともに急速に幕がひかれた60年代から70年代の学園紛争あたりから、こういう自身の身体的記憶に基づかない、あるいは身体的怒りに直結していない行動原理からの運動体がみられたのではないか、ある面お祭り騒ぎの学園紛争ではなかったか、そして、それが現代もなお続いている、ということではないか、と思うからである。

    無論1960年代初頭は、社会のあちこちにまだ残っていた一種絶望的な貧しさと劣悪な労働環境、鬼畜米英として戦った敵との実質上の同盟関係を結ぶことや、共産主義国のプロパガンダが聞いていたこともあり、それが安全保障条約ということに焦点化してこういう運動になったのだと思う。同時代人として経験してないのであるので、なんとなくの話でしかない。恐らく、今の30歳代以下は、「え、以下の写真のような、こんなことがあったのか?」という感じをお持ちになるのではなかろうか、と思う。一部特殊な人を除いて。


    東大の安田講堂事件の写真


    安保反対運動と労働組合

     とはいえ、先日、ある牧師さんたちの会合というか研究会に混ぜてもらったときに、この時代の直後の時代を学生として過ごされた方が、安田講堂事件の時に、事件を起こした学生たちのママさんたちが、お菓子などの差し入れをして、子供たちに元気かと呼びかけをしたことをお話になられ、当時の安田講堂事件そのものが、そういう意味で「決死の覚悟」性の極めて薄い、あるいはもう捨てるものが何もない人々の決死の叫びではなかった、一種文化というかファッションとしてのプチブルのボンボン(小金持ちのお坊ちゃまたち)のインテリゲンちゃん的運動体であるととらえた方がよいのではないか、というお話をしてくださったが(むろんこれは趣旨であり、表現そのものは極めて真面目なものであった)、それはそうだったんだろうと思う。大体、2010年代の大学の進学率は、50%ほどであるが、1960年代当時は15%くらいでしかない。当時のベビーブーム世代の人口の大きさを考えると、いかに競争が激しく、それに勝ち残るためには一種の社会的余裕が必要だったのではないか、そういう層が大学生になったように思う。とはいえ、その生活はそんなに楽なものではなかったらしいが。

     現在のSEALDsのみなさんをくさす気はない。社会に対する怒りがあれば、それはそれで、声をあげ、主張する権利は、日本国憲法で言論の自由が認められている以上、法律に従い法的な枠組みの中で、自由に発言する権利はあるし、それは自由にやってよろしいのではないか、とは思うが、そこに、必死さは感じる者の悲壮さを漂わせたものでないのは、60年代の安保闘争やベトナム戦争反対運動と構造的には同じだと思う。まぁ、SEALDsの皆さんは、擦り切れた人民服まがいの服を着ているわけでもないし、貧しさのゆえにみすぼらしい服を着ているお兄ちゃんやおねぇさんたちは以下の写真には、どうも見当たらないのである。その意味で、この人たちは捨て身にはなれないだろうなぁ、とは思ってしまうのである。捨て身の人間ほど、失うものが何もない人ほど、怖いものはない。


    最近話題の学生運動SEALDsの皆さん

    また、以下の動画で紹介するThe Simpsonsのオープニング画面でも示されるように、社会批判のツールであるとある程度自己認識し、社会正義を主張する傾向の強いアニメーションのThe Simpsonsというアニメーションですら、その実際は自分たちがブラックであることを認めざるを得ない環境下にあるのである。


    テレビを見る批判的な人々とその作品作る側の関係を揶揄した非常に複雑な構造になっているシンプソンズのオープニング

    我々にとって、実に正義や悪とは扱いにくいものなのである。

    また、スーダンでのイスラム教徒の奴隷の問題などの現在進行中の出来事やナチスのホロコーストといった過去の人権蹂躙を我々がさばけるのか、そこにある凡庸さのはらむ悪を我々も尚持ちつつも、それを批判できるのか、さらに言えば、多元的な社会であることを認めるときに、神のかたちへの冒涜に当たると思うので、自分はしない、ということまでは言えても、価値が相対化し、多元的な価値概念が支配する現代社会において、自分がしないから、ということをを根拠に他者批判あるいは他者の行動の制限ができるのか、あるいは、他者にその行動をやめよと言えるのか、ということに関しては、案外難しいのである。
     
    スーダンの奴隷となった少女たちの画像


    ホロコースト解放時の画像

    奴隷という存在
     奴隷の問題一つにしても単純ではない。我々は奴隷という言葉を聞くと、あるいはその文字を目にすると、アメリカのアフリカ系アメリカ人の祖先となった人々のことを思い出す。しかし、日本人も、移民としてではあったが、奴隷同然でアメリカで生活を過ごした人々、中国人の鉄道建設労働者として奴隷状態におかれた人々がいたのである。このような不当な拘束を受け、安価な労働力として働かされた人々の事を奴隷と思うであろう。しかし、時代によって奴隷ということの意味は変わる。


    アメリカ社会の奴隷貿易、苦力(クーリー)と呼ばれるアジア系奴隷に関する歴史の紹介動画

    例えば、地中海世界、ないし中東及びアフリカ世界の奴隷は、労働力であると同時に戦利品として個人が受け取るべき報奨金としての意味合いがある様である。つまり、他人の身体を確保することで、戦争に参加した際得られるはずの戦利品の一種としての奴隷である。ある人を身体的に拘束し、身代金支払いのための借金の生きた担保(コラテラル)にしておき、最終的には戦利品としての対価を得る、という側面があるのではないか、と思う。戦争に負けたり、あるいは海賊行為の際に、人身が拘束されて借金が設定され、人身が借金の担保となってしまった状態のことが古代的(また現代の中東やアフリカの一部)における奴隷ということがさすことなのではないか、と思うのである。つまり、聖書で言う奴隷とは、自分の意思や行為が身代金が未払いのため、制限されていることを奴隷と総称する部分があるように思う。ここが理解できないと、恐らく、罪の奴隷、あるいは、贖いの代(身代金)といった新約聖書の表現を、イエスやパウロ時代の当時の人が理解したあるいは意図した意味で、理解したことにはならないのではないか、と思う。

    ところで、塩野七生のローマ人の物語の中にユリウス・カエサルが海賊行為の結果、奴隷にされた時の話あるが、ユリウス・カエサルは海賊があまりに安い奴隷解放のための身代金を自分につけ、家族に請求しようとしたものだから、「俺を見くびるな。おれの身代金はこれくらいだ」と膨大な金額をつけて、その挙句の果てにその身代金とするには、待遇が悪いと居直ったという記載がある(本当かどうかはわからないが)。

    その時代からの行為が他人を奴隷にするという行為である。たとえば、ナアマン将軍にイスラエルに行くように勧めたのも、奴隷の少女であった。この少女は、戦争の際に略奪品の一つとして、彼女自身が戦利品として略奪された少女で身代金が未払い状態だったのかもしれない。また、ロトはおそらく軍勢にさらわれて奴隷状態になり、身体的拘束を受けているはずである。その状況に対して、身代金という解決策をとらずにアブラハムはラクダに乗って相手を武力闘争でつぶすことで、ロトを奴隷状態から解放し、その帰着時に氏素性のよくわからない、義の王とも翻訳可能なメルキツェデクから聖餐式の原型のようなことを実施してもらっている。

    その意味で、未だに中東では、このような4000年くらい前からの文化が連綿として生きており、金で解決するか武力で奪い返すのか、どっちかにしろ、って結構血なまぐさい闘争がおこなわれていて、近代文明としてはなんたらだから、テロリストとは近代国家の政府としては交渉しない、とかいう近代風の議論は、誘拐して奴隷にする文化を持っている側には意味を持たない。結果として、こういう合意が成り立たず、金を払うか、武力で奪い返しに来い、という話になっているのだと思う。ISIS団の精神構造も、この遊牧民の文化で見れば、あぁ、4000年前のアブラハムの時代と使う乗り物が、ラクダがトヨタのランドクルーザに変わり、武器としての矢がAK47とかに変わっているけど、基本的にほとんど変わらないのだなぁ、ということがなんとなくわかる。

    ということは、現代社会から、テロリストと呼ばれ、蛇蝎の如き扱いを受ける人たちから、「我々は旧約聖書にある父祖アブラハムの時代の伝統に従って、それをそのままやっているんだけれども、それが何か問題があるか」と言われた時にそれを否定するモーセ5書的根拠があるか、と言われたら、案外難しいことはお分かりいただけるのではないか、とは思う。キリスト教ではこうだから、近代文明社会はこうだから、といっても、「わしらは、モーセ先輩がお書きになったモーセ5書時代の非文明社会のアブラハムの時代と同じことをしているが何か?」と言われてしまって終わりとなるのではないだろうか。

    ウォール街占拠問題
    「ウォール街を占拠せよ」を叫んだウォールストリートの元労働者や学生たちはおそらくいただろう。今、学生や失業者はウォールストリートを占拠しているか、と言われれば、占拠してない。まぁ、今年は大雪が降って、通行止めになっているほどだから、さすがに、雪で占拠されているから、元労働者や学生たちはいないだろうけど。結局、雰囲気に動かされて騒いでいることは60年代の学生運動の皆さんも、SEALDsの皆さんもあんまり変わらないと思う。その程度の事である、ということではないか、と思う。


    ウォールストリートを選挙せよ活動華やかなりしころの写真

     そもそも、他人が怒ってデモするような筋合いの事ではなく、自分たちの不満について怒った方がいいと思うのだが。

    『悪』が定義できない現代社会
    価値観が多様であり、それが等しい価値を持つ、あるいは等しく評価されなければならないといった瞬間に、ある社会の価値観から見た『悪』が、『悪』といいきれるのか、というややこしい問題は我々は抱え込んでいるし、その多元的な価値観の中で悪は容易に定義できないものになってしまう。
    ポストクリスチャンたちは、もはや宗教を指針と見ていない読書会で、ある弁護士の男性が言った。「『悪』という概念は、役に立たないと思うんだ。私は誤った行為ではなく、不適切な行為という言葉で考える。」善と悪の違いと言う根本的な問い、あるいは善悪という区分が適用できるかどうかすら分からないまま、宙ぶらりんになっている。世俗を生きる現代人は、どこに指針を求めればよいのだろう。(同書 p.343)
    個人的見解であるが(というか、個人的見解しか当ブログでも、ほかのところでも言ったり書いたりしていないのだが)、悪は、絶対に存在すると思う。しかし、一方で他者を悪く言うために「悪」という語を野放図に濫用するのは避けるべきだと思う。その区別が付いてないだけではないか、と思う。不適切な関係程度のものを時代の風に乗って「悪だ」と主張しているだけのことが、どれだけ多いことか。ビル・クリントンが、モニカ・ルインスキー嬢と不適切な関係にあったことは、本人が認めちゃったんで、そういうのはあったんだろうとは思う。まぁ、暴露本も出ちゃったしね。しかし、フランクリン・ルーズベルト夫人のエレノアも公然の不倫関係にあったはずなので、そんなことは、当時もそうだし今でも話題にもされない。まぁ、現在では、物故者リスト入りしているから相手にされないのかもしれないが。

     その意味で、現代社会における悪とは時代のパラメータに依存する、時代の産物のような気がする。
     

    不適切な関係を伝えるTimeの特集号 

    米国人の親切さの背景
    …要するに「心の習慣」か?

     米国人は基本親切な人が多い。特に、911事件が起きるまでは、底抜けの親切心を持った人々がいた社会でもあった。無論、全員が親切だったわけではないし、全員が全員底抜けの親切さを持った人たちだったわけではないが、トラブっている外国人にそっと手を差し伸べるくらいのことはしてくれた社会であった。

     東部はどうか知らないが、西部のワシントン州の田舎ではそんな感じがまだ残っている社会であった。これがキリスト教社会からからか、というと、キリスト教がなんであるか理解していない人たちでも、それをしていることがフィールド調査で明らかになっていることについて、ヤンシー先輩は次のように書いている。
    世論調査によると、現代の米国人は無私無欲の行動をとっているが、調査に協力した人々の中で、その理由を明言できた人はほとんどいない。ロバート・ベラーによると、その人たちは、キリスト教の伝統に根ざした「心の習慣」によって行動している。そうした心の習慣を除いた時、ポスト・クリスチャン文化の真の混乱が明らかになる。(同書 p.348)
    911以降、アメリカ社会は異様に冷たい社会になった。北欧系のためか、発音が怪しげに見えたのであろう、その青い目をしたプラチナブロンドの北欧からの短期留学の女子学生をテロリストあるいはテロリストをかくまった国からの留学生だと主張され、テロリスト扱い、って事件があった。このどやさといいたくなる事件を知った時、あぁ、アメリカ合衆国は余裕を失ったのだ、ということを強く感じた。

     まさに、こころの習慣を除いた、ポスト・クリスチャン社会としてのむき出しのアメリカ社会がちらっと顔を覗かした瞬間でもあった。まぁ、2年もすれば、大体元通りに戻った感じはしたが、それでも、アラブ系や中東系市民への迫害というほどの迫害ではないが、ハラスメントは続いた。

     まぁ、それは、1941年頃に日本人社会に対してアメリカ合衆国が向けた刃とパラレルの関係にあったと思う。本来米国市民権を持つ米国民に対しても、日系人だというだけで、むき出しの刃を向けたことがあった。まぁ、それと同じような刃は、日米通商摩擦のころ、日本車が大量に米国市場に流入したことが話題となった時にも起きた。そして、あの事件を通して、アメリカ合衆国の国民性が変わってないことを示したと思う。おかげで、バカ高いSun Microsystemのワークステーションが研究上必要で、これを購入して研究に使います、と書いたら科学研究費の助成の申請書が通りやすかったという噂(あくまで噂、恐らく冗談)が流れたことがあったとか、なかったとか。

     最近ではトランプおじさんが、大統領選挙の演説で、心の習慣を覆い去った、移民に対する非常に冷淡なポスト・クリスチャン時代における、現在のむき出しのアメリカ人の心情それをしゃべり、その候補をかなりの人が支持していることからも、またぞろ、ポスト・クリスチャン社会の混乱というか、心の余裕を失いかけているアメリカ人の姿がトランプおじさんの演説に投影されている感じがある。第二コリントを ツー・コリンシアンと発音したかどうかより、よほどその方が米国社会の変化を見るうえで役に立つと思うのだが。

    移民政策を語るトランプおじさん


    ツー・コリンシアン(本来はセカンド・コリンシアンというのの言いまつがい)と
    発音した記録 C-SPANでもお取り上げ(0分27秒付近)
     
    アメリカ人の底抜けの親切さは、「心の習慣」であったかもしれないとはいえ、それはアメリカ合衆国の人々が心に余裕がある時の心の習慣だったのだなぁ、と最近は思う。米国人のキリスト教精神の発露、というよりは。まぁ、それはそれくらいに思っている方が、めんどくさくなくていいと思うけど。

    まだまだ続く


     
    評価:
    ロバート・N.ベラー,ウィリアム・M.サリヴァン,スティーヴン・M.ティプトン,リチャード・マドセン,アン・スウィドラー
    みすず書房
    ¥ 6,048
    (1991-05-08)
    コメント:アメリカの文化的な背景に関するフィールド調査の結果をまとめた本。図書館で読むでいいんではないでしょうか。

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