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2016.01.27 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(36)

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    本日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』の中から、考えてみたい。

    敗者の居場所は社会にあるか
    社会に余裕というのか、一種の能天気さというのか、鷹揚さというのか、白黒つけられない領域というのか、管理しようと思っても管理ができない領域の存在は少ないような気がする。カンバンシステムとか、統合企業パッケージとか、企業とかにあった余剰というのか余裕部分を排除していったように思うのである。その意味で、効率的なシステムであるが、余裕を持つことができなくなっており、ある意味、社会的敗者という人々が生存できる領域が極めて限られているということとつながっているのではないか、と思うのである。
    最後に、現代文化には敗者の居場所がない、ということについて考えてみたい。敗者は、現代文化の掲げる理想と一致しない人々だ。(『隠された恵み』p.334)
    ある面、米国社会においては社会に適合的であり、その社会に適合的な人々だけが生き延びるのであるという適者生存的な社会といった部分があり、非常に競争的な社会構造をしている。非常にハイテンションな社会なのである。行ってすぐの最初の半年くらいはある面、刺激的で面白いのであるが、このハイテンションな社会の中で、生きていると、とりあえず半年くらいで休みたくなる。だからこそ、彼らは夏に1と月とか2か月位とかの休みが必要になって、Getawayとも呼ばれる夏休みとか、長期休みをとりたくなるのではないだろうか。



    米国では長期休暇以外にも、適当に休む技術を身に着けてないと、持たないような側面があると思う。まぁ、それだけに、そういう終末ちょっと離れて静かな場所で過ごしやすい環境が整っているようにも思う。ちょっと行けば、あまり開発されてない自然が残り、キャンピングサイトがあり、講演なんかでもピクニックをするための設備が整っている。また、このテンションの高さで同じ場所で長期居住していたら、人間同士がもめて持たなくなるだろうなぁ、ということは個人的には思う。だからこそ流動的な社会を構築しているような気もする。

    カリフォルニアのState Park

    実は、こういう競争社会であることにつかれてしまった人が日本でも人気の高いヘンリ・J.M.ナウエンという人物である。オランダからアメリカにわたり、いわゆる競争の激しいアイビーリーグで人気が高かった教員であったようだが、そこでの競争環境にガチで向かい合って消耗して、グアテマラに行ってみたり、その後、ジャン・ヴァニエが運営を開始したラルシュという障碍者コミュニティの施設付き司祭をしながら、講演や著作活動をつづけた人物である。

    ところで、社会によって敗者とされてしまった人々がいる場所を作ろうとしたのが、ジャン・ヴァニエであり、それがラルシュなのかなぁ、ということを思わせる書籍に『小さき者からの光』という書籍である。そして、その競争環境にいる社会の側がどう敗者にされてしまった人々に対するのかの一部も、同書に記されている。


    ジャン ヴァニエ (2015年テンプルトン賞受賞者)

    神の国に入る人々とイエス殺害にかかわった人々
    その社会的評価

    神の国に入る人々であるとイエスが語った人々や、イエスのたとえ話に出てくる人々、イエスが出会った人々が、社会的評価の高い人々ではなく、社会的には社会の周辺であった人々であり、当時のセレブリティではなかったこと、さらに、当時のセレブリティと呼ばれる人々が返って、イエス殺害にかなり積極的に関与していたことに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    この点でも、イエスが神の国に入る資格としてものは、この社会の資格とは異なっている。一貫してイエス物語はふさわしくない人物を英雄にした。責任感ある兄ではなく、放蕩する弟を、良き祭司ではなく良きサマリア人を、裕福な男ではなく卑しい物乞いを。イエスに魅了された人々の中には、望ましくない人々もいた。複雑な過去を持つ異邦人の女、目の見えない物乞い、重い皮膚病を患う十人の国外追放者、堕落した酒税人、売春婦、ローマ兵。まっとうなユダヤ人社会の基準からすれば、みな見捨てられたものだった。宗教指導者、律法学者、王や総督。イエスの死のお膳立てをしたのは、こうした人々だった。(同書 p.335)
    言われてみれば当たり前なのだが、案外こういう側面は見逃されている教会が日本では案外多いかもしれない。特に、18世紀から19世紀のヨーロッパで道徳化したキリスト教として日本に西洋道徳として受け取られたキリスト教や、繁栄の神学という誰しもが目に見える形での”繁栄”といわれるものととらえかねないものを神に願い求めていくかのような教会、社会で評価される勝者であることを求めるキリスト者の人々もおられる。それはそれで個人的確信の結果でもおありではあるので、それは「それですか、よかったですね」と申し上げたいと思っているが、そっちばっかり求めていくのもなんだか違うんじゃないかなぁ、と思っている。人間は、どっちかになりがちなのは、誠にそのとおりなので、その辺が神ならぬ神のかたちとしての人間なのかなぁ、と思う。何、社会的評価や反映を求めるのがおかしいといっているのではない。それがあることは、良いことであるが、それだけになってしまうのはどんなもんだろう、とは思う。

    だれからの評価を求めるのか 
    人間は弱い。他の人からの評価に弱い。それと無縁でいられる人はほとんどいない。そして、自分自身の手をじっと見つめて、そこに何もないことに失望する。自分が何者でもないかのように感じると、そこにそこはかとない寂寥感を感じるようにも思う。そしてそれは、渇きの自覚へとつながっていく可能性があることをヤンシー先輩は、次のように書いておられる。

    セックスアピール、生まれながらの才能、名声、地位によって評価をはかる繁栄した社会でも、大多数の人々は自分が決してそうなれないことを分かっている。ときどき、私たちはみな、「背後で足を引っ張ってきただけの愚かな人々」のように感じる。そして、そう感じるとき、消えることのない充実感、生けるいのちの水への渇きがこみ上げるのだ。(同書 p.336)

    この部分を読みながら思ったのは、これらすべてが希少性の問題と関係していると思われる。希少である、あるいは賞味期限が限られるからこそ、その希少性が担保されているように思うのだ。みんなが名声を持ち、みんなが地位を持ってしまえば、それは希少なものではないので、過去いくら価値があるとされたことでも、それは全く無意味なものになってしまいかねない側面を持っているように思うのだ。その昔、和文タイプライターの技術者や、ラジオの修理工は非常に希少であったので、その能力は高く評価された。それは時間給という形で反映された。それが技術進歩によりワードプロセッサというものができ、和文タイプの技術があるからといって評価されないし、ラジオがトランジスタ化され、真空管という電球みたいなものが故障しなくなってしまえば、ラジオの修理工という一種の技術は社会から必要されなくなってしまっている。その意味で、まぁ、才能と思っているものでも、社会的な関係性の中で、定義されるという側面があるように思うのである。その意味で社会の花形とされる地位や職業は時代や環境とは無縁な定常的なものではなく、社会の環境という与件に社会の側の一方的な状況よってきまってしまうのである。

    まぁ、その現実に直面した時、人は一種絶望に近いものを感じるのではないかと思う。つまり満たされているという感覚が、実は非常に脆弱なものであることを認識した時に初めて、N.T.ライト先輩が言う神の呼び声のようなもの、あるいは、大成功の絶頂から、落ち込みのどん底に落ちたエリヤ先輩のように、神の声なき声が聞こえる、あるいはそれに意識を向けるのではないだろうか。もし、こころが満ちている(たとえそれが他人から見てどんながらくたであろうとも)というその認識がなくなれば、そこを満たすべきものを見つけようとする心の動きは、神のかたちであるからこそ、生まれ出づるものなのかもしれない。

    人間は神のかたちなのか、原子の塊なのか
    唯物論では、物質的な側面のみを考えるため、すべて物質の世界で議論を考える。もちろん世界において物質というのは重要であるし、重要な役割を果たす。しかし、世の中はそれだけではないと思うのだ。意味の世界、あるいは認識の世界という世界もあるように思うのだ。新聞は物質であるが、それは何らかの意味を伝える世界である。テレビ放送は物質の世界を介して搬送(伝送)されるが何らかの意味を運ぶのである。野々村元議員の号泣は物質的な世界で起きた事象であるが、また、物質的な事象でもあるが、それが録画して世界中に流され、それが拡散されるとき、その拡散に意味が含まれていると思う。その意味というのは、ネガティブなものだと思うが。彼は、世界で一躍有名人(悪い意味で)になったが、ある面、現代社会の犠牲者であろうと思う。

    そのあたりのことについて、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。

    福音という良き知らせは、だれでも神秘的な力を感じながら生きることができるということ、つまり誰にも神の大いなる物語の中に役割があることを教えている。私たち人間は神経の集合体以上のものであり、利己的遺伝子に従って行動する有機体以上のものである。受付係も、トラックの運転手も、幼稚園教諭も、銀行家も、専業主婦(主夫)も皆、富と名声というこの社会の基準に合わせるのではなく、神と隣人を愛することで、自分の人生を悟ることができる。それが、ただ生きることと、神のために生きることとの違いである。(同書 p.336)


    個人的には、ちょうど未来少年コナンがルパンのカリオストロの城にちょろっと出てくるように、神の描く世界という絵画の中で、大きな世界の物語にほとんど影響しない形でありながら、出てくるようなものではないか、と思っている。

    カリオストロの城に登場しているといわれる未来少年コナンの図

    地球で繰り広げられている神の大きな群像劇の中で、我々の占める役割は小さい。アブラハムやヤコブのようなものではなく、イサクよりもはるかに小さい役割であり、大したことのない人物なのである。しかし、人間はどうも自分を中心にしかものを見ないという認識のひずみが誰しもある(これはミーちゃんはーちゃんもその問題があることはお認めしたい)ため、どうしても認識がひずむし、自分中心で物語を構成しようとする傾向はあるし、自分の役割を過大評価したいのである。どんな偉大な人物であっても、例えば、最大の預言者とイエスをして呼ばしめた洗礼者ヨハネであっても、イエスの靴の紐を解く(奴隷)にも満たないと発言した如く、我々は、イエスのサンダルの裏のごみに付着している雑菌の中の遺伝子を構成するアミノ酸の中の原子一つに満たない存在であることくらいは認識してもよさそうなものなのに、めったにそうはなっていないのが人間ではないか、と思うのだ。

    しかし、そういうもののためにイエスは死するためのこの地上に来たのであり、そのことを通して、我々を神のもとに取り返そうとされたというのが、聖書の奇跡だと思うし、だからこそ、我々は神に愛されたものであるといえるし、神がわれらとともにいようとしている(たとえ神が見えないにしても)ことではないかなぁ、と思うのである。

    ごみに付着する雑菌の中の遺伝子内の原子一つに満たないかもしれない存在でありながら、それを神のかたち呼ばわりして、ご丁寧にも”わが愛する者よ。わが許に来たり共に過ごそうぞ”との給うておられるのが神のような気がするのだが。それに応えるのが、神と共に生きるということであり、職業などを我々は評価対象にするが、それはそもそも評価軸が神と人間とでは違うということのような気がするが、そのあたりのことをわれらはいったいいかほど理解しているのだろうか、と思い、我が身を振り返れば、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

    人間の価値はどこから出てくるのか
    人間の価値は科学や哲学で定義するのは案外難しい。人間は人間だから尊いのだ、人間は理解力があるから尊いのだ、とか言ってしまうと、クジラやイルカは会話するので尊いのだ、ということになって、シーシェパードの皆さんのようなことになる。


    The Simpsonsに出てくる「いるかころし丸」
    神のかたちであるからこそ、どんな人でも尊いとされるということに関してヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    私たちはなぜここにいるのかという問いに対するキリスト教の答えと、科学や文化が提供する答えには瞭然たる違いがある。(中略)奴隷にも、自由人にも、ユダヤ人にも異教徒にも、男にも女にも、どんな人でも絶対的な価値があることを。それはキリスト教以前には存在しなかった過激な考えだった。プラトンは、人間の価値をその行為によってはかった。アリストテレスは、生まれつきの奴隷もいると考えた。だがクリスチャンによると神は私たちすべてを、ご自身のイメージが刻まれている永遠の存在として想像された。(同書 p.337)
    確かにローマ時代、平気で嬰児殺しがされていたようである。そのあたりに関してロドニー・スタークという人は、「キリスト教とローマ帝国」という本の中で書いておられる。病気になった人々は、どんどん捨てられていったが、キリスト教会がそれらの人々のケアをしたため、その結果人行動学的な観点からもキリスト教が生存しえたのではないか、とご指摘である。こういう社会人口動学的な議論の妥当性は別にしておいて、ローマ帝国支配下のキリスト者は、こういう弱者ケアをすることで、人口動学的な均衡が変わって、ローマ帝国をキリスト教化できるなどとは一切思ったり、計画することなく、ただ、イエスの言葉に従って、病人、貧者、社会から見捨てられた神のかたちのケアをしただけではないか、と思うのである。

    小さくされた人々に出会う
    ミーちゃんはーちゃんもそうであるが、何が起きるかわからないと思う時に、未知のものと接するときに、人は恐怖を感じる。そして、恐怖は人間の行動を制約してしまう。それから逃げ出してしまう。ある面恐怖で人間は縛られているかのようだ。それはミーちゃんはーちゃんとて同じだ。何が出るかわからないとき、あるいは、そこに恐怖経験やとてつもなく面倒が待っているときに、自己保身に走る自分がいるのは知っている。アブラハムもそうであったろう。そして、愛する妻を妹だといって新しく侵入した地域の支配者に差し出しているのがアブラハムなのである。それも二度も。それが人間の姿だと思う。ミーちゃんはーちゃんもアブラハム同様の人間であるから、その行為を批判することはできない。旅人が傷ついて倒れていれば、それを避けて通る、祭司や律法学者のような人間である。不必要なもめごとはご勘弁ということは変わらない。

    このあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    先週は教会で、ホームレスの人々に食べ物や毛布を配っていた家族から話を聞いたが、六歳の男の子の言葉が一番こたえた。「ホームレスの人たちが一番したいのは、誰かと話をすることじゃないかな。」その子はそういった。私は、ホームレスの人々に出会うと目をそらして足早に立ち去ってしまう自分を反省した。
    私たちが「信じている」と言っているメッセージ。だれであっても尊厳と尊敬の思いを持って接し、この世の基準でなく、イエスの基準で結果を判断すること。どこまで、そのような生き方が出てきているか。渇いている世界にどれだけ良き知らせを伝えることができるかどうかは、そこにかかっている。(同書 p.338)
    本ブログでは、本田司祭や、かつて、大阪のホームレスと共に過ごされていた枚方のカトリック司祭のお話を時々記載しているが、実は本田司祭がもともとの修道会の責任者をやめて大阪で奉仕し始めたきっかけは、毛布をホームレスの人たちに配っていた時であったということを思い出した。以下で紹介しているジャン・ヴァニエの「小さき者からの光」の中で、小さくされた人たちとなった、刑務所の受刑者の人々と出会っていったヴァニエの経験が出てくる。あるいは、障害を持つ人々が小さくされていった結果、誰からも相手にされていなかった人々とヴァニエが出会っていったあたりのお話が出てくる。ある面、こういう乾いている世界にいる人々にどのように出会っていくのか、向き合っていくには根性がいる。そのような根性を持ったキリスト者でありたいと思いつつもできないでいるミーちゃんはーちゃんがいる。

    そもそも論として、そういうようにできていないミーちゃんはーちゃんは、ではどう生きるべきか、神が示そうとしておられるメッセージを、聖餐式に参加させてもらいながら、自分のところに来られた神を覚えつつ、こうやって、計算機の画面に向かいながら、書くことしかないのかなぁ、と思いながら、日々を過ごしている。


    まだまだ続く。




     
    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ---
    (2010-08-20)
    コメント:是非お勧めしたい。

    評価:
    ロドニー・スターク
    新教出版社
    ¥ 3,456
    (2014-09-19)
    コメント:めちゃ面白い。ちょっと方法論的に問題があるような気がするが。

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