<< いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(33) | main | いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(35) >>
2016.01.23 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(34)

0



     
    Pocket

     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本『隠された恵み』からご紹介していきたい。

    セレブ文化にまみれたキリスト教文化
     前回もご紹介したが、キリスト教系の出版社でも、セレブ文化に浸っており、朝の連弩らの主人公や、大河ドラマの登場人物に関するセレブ本を出しまくるということは、世間の出版社と変わらないということはお話しした。個人的には、おかしなことだと思っているが。また、それらの本を1,2冊読んだ巡回説教者たちが、勝手な自分に都合の良いイメージを語る形で、伝道をする人々が入らっしゃるらしい。
    クリスチャンも同様に、名声と娯楽に基づくキリスト教文化を作り出している。社会学者、アラン・ヴォルフはこう述べている。「文化はキリストを変質させた。そして、この地上にあるすべての宗教にも変化をもたらした。米国人の信仰は、宗教生活のあらゆる面で米国文化と出会った。そして、米国文化が勝利したのだ。」私たちは、はびこっている文化をただまねるのではなく、むしろ別のものを示すべきではないだろうか。この有名人をもてはやす文化に逆らい、騒がしいメディアから離れ、静かな空間を作り出す教会だったら、消費する文化に抵抗するような教会だったら、どんな風に見えるだろう。自分自身の楽しみよりも、神に目を向けさせる礼拝だったら、人々の目にどう映るだろう。(『隠された恵み』 p.321)

     世俗のにぎやかな文化と無縁の空間を割と提供しておられるところが多いのが、正教会系の教会や、カトリック系の教会、あるいはアングリカン・コミュニオンに属する教会群に多いこともあり、アメリカでは、こういうセレブ文化というのか、より良くなろうとする文化や、にぎやかなものを求めていく教会文化に疲れた若いキリスト者たちが、これらの教会群にある程度は流れているといったブログ記事を友人から昔紹介してもらったことがある。

     確立されたリタジーや祈祷文、讃美歌には、現代社会にこびる要素はほとんどなく、ある面神と向き合う空間に人間が詰め込んだ余分なものなど、立ちはだかるものが割となく、神と向かい合う時間を提供しておられるように思う。そういうところの礼拝に参加すると、それを感じる。

     ところで、アメリカにおいて、この種の宗教と社会の問題は、切っても切り離せないものであり、かなり昔から研究がなされている。それだけ、キリスト教的な概念の上にのっとって構成された社会がキリスト教により変容され、また、キリスト教自身の変容により、社会での人間の行動が変容することで、さらに、変容させられてきたという経緯があったからであろうと思う。

     ただ、すべての人がこういうセレブ文化から離れたものを求めているわけではない。そもそも繁栄の神学という言葉自体、セレブ文化を追っている一部のキリスト教を表象してはいないだろうか。あるいは、キリスト教書業界がセレブ文化を追っていることが、なによりそれを如実に示しているのではないか。

     個人的に思うのは、こういうセレブ文化を通して、ナザレのイエスに出会った人たちがいてもいいと思う。そして、確かにそれは、ナザレのイエスに出会う一つのきっかけとなっているようにも思う。だから、それを全否定はしない。しかし、セレブ文化的なものに限界を感じたときに、別の表現方法や、静かな神と向き合う時間と空間をも提供しているキリスト教、あるいは、ソリチュードの霊性につなげていくことができる教会群が増えればよい、と思っている。どうせ、人間は一人ですべてのことをできないし、一つの教会は、すべてのことをこなせないという現実は、真摯に受け止めるべきではないか、と思っている。

    メディアの限界
     現代人が振り回されていることの多いメディアの限界を次のようにヤンシー先輩は書いておられる。
     広き道が人々に満足を与えられない理由が3つあるように思えた。第1に、メディア文化は幻影の上に創られている。第2に、メディア文化の提供する気晴らしは一時的なものである。第3にメディア文化には敗者の居場所がない。
     皮肉にも、一握りの幸運な人々をまつりあげるそのメディアこそ、その後の彼らのスキャンダルを詳細に取り上げ、人々の幻影を打ち砕いている。(同書 p.322)
     まぁ、この部分に関しては、スポーツ新聞や女性雑誌上で話題になっている騒動に典型的に表れているように思う。



     このことに絡んで、藤掛先輩がFacebookで書いておられたので、先輩におねだりしたら記事 川谷絵音的生き方と、ベッキー的生き方  にしてくださった。藤掛先輩らしい兄弟関係からみる視点がおもしろかったが、個人的には、ベッキ―にせよ、ほかの芸能人や文化人にせよ社会の要請を受けてその要請に沿って発言していることの痛々しさをちらっとこういうものを見るともなく見せられているときに感じてしまう。本来、神が個別に造られた人間という神のかたちとしての人間としての発言ではなく、人や社会が造り上げ、本来の神のかたちを歪められた姿での人間の発言を聞くたびに、なんかヤラセみたいな痛々しさを感じてしまうのだ。最近のスマップ騒動もそうかもしれない。

    メディアと教会と人間の関係
     現代のメディアと普通の社会を構成する人々の関係を、ヤンシー先輩は、次のように書いておられる。
    スタディアムの6万人の観客がフィールド上の少人数に目を向けているかのように、私たちは”見る人々”と”見られる人々”の2層式社会を発明した。(p.323)
    この2層式の構造は、天皇家と国民との関係にも現れており、そして、みられる人々である人々に異常なストレスをかけることになる。そして、見られる人々は、時に神聖なものとして祭り上げられることにもなりかねない。本来、人間はそれほど神聖なものではないかもしれないのに。

     何年か前に『福音と世界』という雑誌で劇場と教会の関係に関して平田オリザという方が非常に印象的なことを書いておられたのを思い出す。その号で、教会と劇場のかかわりで書いておられたように記憶している。ある面、教会の説教の構造は、劇場での演劇と構造としては似ているのである。中身は大分違うだろうけれども。教会の説教では、聖書では神と人とのかかわりの関係が語られ、それは見られる存在である。そして、それを語る牧師は見られる人々というものになり、信徒は、それを見る人々となった。そう考えると、西洋社会においての見る人と見られる人の関係は、オペラやギリシア演劇だけを原因とすることも可能であるが、それ以前の背景として教会が生み出したものともいえるのかもしれない。そのあたりを平田オリザ氏は指摘しておられたと記憶している。

     この見られるものの関係に関しては、Jim Carryが割とこのあたりのことに関心あるらしく、いくつかこれに関するいくつかの映画作品がある。その一つが、Truman Showである。この中では、自分のすべての挙動が映像として流され、彼がすべて彼中心に回るような生活が設定されたような仮想現実の中におかれる主人公とその主人公が、設定された仮想現実世界から自主的に退出するお話である。



    Jim Carry主演 Truman Show

     つぎにテレビでの人気者になり、セレブになって見られることに疲れ、本当に自分が面白いと思うパフォーマンスが理解されなくなってしまった舞台アーティストである、アンディ・カウフマンの自伝をもとにつくられた作品のMan On the Moonという映画がある。これなども、他者からの期待と自分の理解との間に齟齬が出てしまった悲劇の物語である。


    Jim CarryのMan on the Moonという映画のTrailer


    失うことによる豊かさ、という逆説
     豊かになる方法としては、握りしめることである、と現在の社会の人々は言う。現在あるものをしっかりと握ることが、自分をよりよくする方法であるといわれることが多い。しっかりせよ、努力せよ、石にしがみつけ。成功とはそういうものだ。
     ある面の資本主義世界における支配的概念であり、一見真理ではある。しかし、それで本当に神のかたちが回復されるのか、というとどうもそうではないようである。そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。 

    私たちはなぜ、ここにいるのか。神は私たちが豊かな人生を歩むことを望んでおられる。しかし逆説的に、私たちは反逆するよりも従うことによって、受けるよりも与えることによって、仕えられるより仕えることによって、豊かな人生を生きるのだ。より多くのものを手に入れることによってではなく、神と他者に仕え、いのちを失うことによって、成功者となるのだ。この深い真理を、イエスは福音書の中で6回繰り返していった。(同書 p.327)

     これと同じメタファーがナウエンの祈りに関する随想の中で出てきている。ついこの間のナウエンの研究会で、読んだばかりであるが、そこでは、このように書かれていた。
    The wisdom of this world is that says:"It is best to stand firm, to get a good grip on what's yours here and now, and to hold your own against the rest who want to take it away from you; you've got to be on your guard against ambush. If you don't carry a weapon, if you don't make a fist, and if you don't scramble to get what little you need -food and sshelter - then you're just asking to be threadbare and destitute, and you'll end up trying to find a mediocre satisfaction in a generosity which no one appreciates. You open your hands and they pound in nails!"
    (Nouwen, With Open Hands , p.49)

     そう、我々は、手を離して、神に向いあうとき、本来の人間の姿、つまり、神が人一人一人に対してオリジナルにつくられし「神のかたち」を自らのものとしてとり返すことになるからこそ、神の前に手を開いて、神の前に手を開き、自分で大事であると思い込んでいる命のようなものを失うことで、神が与えようとするものを受け取るように繰り返し示されているのではないかなぁ、と思う。

     もう少し続く














     
    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 972
    (2004-09-01)
    コメント:非常によろしいと思います。

    評価:
    H.リチャード・ニーバー
    日本キリスト教団出版局
    ¥ 5,508
    (2006-02)

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM