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2016.01.16 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(32)

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     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。今日は、科学と信仰の問題である。この問題は、特にファンダメンタリストと呼ばれる人々、日本では福音派と呼ばれる人々が好んで話題にする問題に深い疑問を投げかけているように思われる。

    科学と信仰の対立の問題
     科学と信仰の対立の問題にかんして、ヤンシー先輩は次のようにお書きであるが、個人的には、この部分、ご専門でないだけにかなり議論が荒っぽいなぁ、と思ったことがあるので、今日はそのあたりを突っ込んで書いてみようか、と。
     科学と信仰の間には、今や大きな隔たりがある。科学がこの世界を支配している理由の一つに、人間を苦しめてきた問題を解決してきたことがある。科学のおかげで私たちは多くの病気を治したり、天候の影響を軽減したり、遠く離れたところにいても連絡を取り合うことができたりする。一方で多くの現代人が信仰者は科学に反感を持っていると考えているが、科学と信仰者間で繰り広げられてきた数々の争いを考えれば、それも無理からぬことだ。(『隠された恵み』p.272)
     個人的に思うのは、「私たちは多くの病気を治したり、天候の影響を軽減したり、遠く離れたところにいても連絡を取り合うことができたりする」というのは、科学というよりは、どちらかというと科学技術の分野の話、いやむしろ、技術の領域の話であるように思う。つまり、現在の科学的知見に基づいたかのようなふりをしてこの世界を支配して居る魔術(小山晃佑先輩風に言えば)であるかもしれない。情報圧縮に関する情報技術屋は、基本的になぜ電子が銅線という電線の中で移動して情報伝達が可能であるのか、ということを研究しているわけではないし、天候の影響を軽減するための方法を研究している農学者(個人的に気候高温化の農作物被害の影響軽減のための対策プロジェクトで用いるシステム化のお手伝いをしているが)とて、微気象(100m司法単位くらいの微気象)の予測精度を得ることはできていないし、そもそも論として、都道府県を3分割した範囲の明日の降水予報ですら、時に外れることがあるレベルの予測水準でしかないが、それでもないよりはましである。

     まぁ、ヤンシー先輩が例に挙げられたことは純粋科学ではないが、科学の応用であり、その意味で技術にまつわるの事のような気がするのである。

     前から何度かお話しているように、科学は、認識可能なことのみを研究対象にしているし、技術は、倫理を含まない。その結果、科学には、一種の限界があるのであるし、科学者は一般にそのことを認識している(はずな)のであるが、そうでない人がいるかもしれない。あるいは、一般的な理解としては、科学はすべての事に対応していると思われているかもしれない。本当はそうではないのだが。

     技術にしても、基本的に技術は価値中立性を主張するし、技術者の悪い癖は「技術的に可能ですが・・・」と実施するかどうかの判断を他者にゆだねてしまうところである。技術は独自の論理をもって可能なところまでやってみたくなるという悪い癖を持っているのだ。典型的には生命科学と呼ばれる生命科学技術やクローンの問題、あるいは、遺伝子組み換え食品の問題、延命技術の問題、あるいは人工妊娠中絶の問題など、完全に技術としては、価値判断を避け、技術の完成度の向上を目指していく傾向にある。まぁ、これは、工学的なアプローチでよく見られる傾向ではないか、と思う。

     科学にしても、哲学にしても、認識可能性、あるいは、相互の参照可能性、あるいは、間主観性の存在を前提とする。何らかの対話を行うための共有部分の存在が前提となっていることが多いのであるが、現実にはそうでないことが多い。なぜなら、人間の新式は、立場によって、また置かれた環境にあって違うし、置かれた環境を当然の前提とすることに慣れきっていて、それ以外の環境の下で考えることが難しいからである。その環境要件というか、初期条件の違いは案外大きく、そしてそれが認識を非常に歪めることになりかねない。その認識が歪んでいて、あるいは、その認識観に共通部分が存在しなければ、そもそも対話が不可能になるし、共通認識の形成はもはや不可能とならざるを得ない。

     例えば、緑という概念は、そもそも日本にはなかったという説がある。あるいは、古い日本語話者にとっては、緑と青は区別が付かなかったのではないかという説がある。また、計算機の色の定義法には、いくつもあるが、それは現在の可視光を前提とした議論であり、もし、現在の可視光の成分が違っていれば、認識も違うはずである。

     あるいは、異なる言語間で共通認識が生じえるのか問題というのは、翻訳可能性の問題として常に付きまとう。それは、ただ、共通認識が生じている気になっているかもしれないという実は恐ろしい可能性が生じているのだ。

     同じ語を使いながら、完全に別の事を意味していることが起きて、時々混乱が生じる。例えば、福音主義者等が典型的だと思う。日本語の言う福音主義は、基本的には、1900年以降に米国で生じた福音主義であって、宗教改革者の意味ではない。それは、聖書根本主義、ないし聖書原理主義を言いかえた語として用いられることが多い。しかし、マクグラス先輩がおっしゃる時の福音主義は、非ローマ・カトリックである西方教会という意味で、即ち宗教改革者の系譜につながるキリスト教という意味でつかわれるようである。日本語では、宗教改革者の系譜につながるキリスト教、米国でメインライン、あるいはリベラル派に対する原理主義的なキリスト教を指す語として、福音主義が、これらの区別なく使われることが多いので、同じ語を使いながら混乱が生じることになる。事実、マクグラス先輩の翻訳本を読んでいるうえでの福音主義に関する誤読というのは、実は案外多いのではないか、と思うのである。

     以前、このブログの記事にご登場いただいたマーレーの亡霊さんは、「日本の翻訳宗教としてのキリスト教」ということをお話くださったが、日本において仏教も翻訳宗教であるし、もちろん、キリスト教も翻訳宗教である。それは、米国であれ、英国であれ、所詮聖書原文自体が英語ではないので、翻訳宗教とならざるを得ない可能性がある。つまり、同じ言葉を使っているつもりでありながら、全く根本的に違うところをずれたところで使っている可能性があるように思うのだ。聖書、聖書といいながら、翻訳者のバイアスの入った(そのバイアスはできるだけ最小化するようにご尽力されているとはいえ)ものにならざるを得ない。翻訳しておられる側では、「翻訳ですからねぇ」という御理解があるものの、受け取り手の一般信徒の側では「完全に誤謬のない、誤りなき神のことば」に変化してしまうのだ。

     さらに、それに解説者である人々の解釈のバイアスが混入しうる。そうなると聖書からであるとしながら、そもそもの主張からすれば、大幅にずれた主張が聖書の主要な主張であると主張されることになりかねない可能性を持つ。その意味で、ずれたこととずれたこととの間での無意味な議論としかいえないようなことが世界中で起きているのではないか、と考えると極めて残念な状況が生まれているようなか気がするなぁ。

     信仰と科学が対立してきたような構図には、20世紀における信仰と科学の間の優位論争ということがあるような気がする。それが焦点化したのが、進化論を公教育の中で教えるべきでないとするのか、教えてもよいとするのかということを争ったスコープス裁判である。

     ある面、科学という外套を装い、すべてのことがあたかも科学で説明つく(そんなことは実際にはあり得ないのだが)と理解しているかのようにふるまい、その一部の人は、信仰者を迷信を信じる人々と嘲笑った部分はあろう。ところが、信仰者の側は信仰者の側で、科学の関係者、学術の関係者を聖書の権威性を疑うふらちな不信仰者という色眼鏡で見、それらの人々が神のかたちであるにもかかわらず、教会や聖書から遠ざけたり、自分たちの聖書理解こそ真実だとし、それ以外の考えを捨てるよう強要はしなかっただろうか。

     まさに下の漫画のようであったであろう。お互いに「ウソツキ」と非難し合い、本当の真実に向き合わないようなことをしていなかったろうか。本来向き合うべきは相手の理論ではなく、真実と呼ばれるものであったべきではなかっただろうか。


    不幸な罵り合い

    信仰と科学の対立 
    正しさを巡る争い?共存しうる理解

     信仰のことも理性的あるいは科学的に説明しなければ気が済まない人々がおられる。それはそれでお考えとしては一つの見識であるので、そのお考えとしては尊重するが、正しいことが証明されたら、人はそれに従うか、というとそういう風に人間はできていないと思われる。経済学は、合理的な経済人を想定してモデルを立てるが、実際にすべて合理的に説明できるのか、と言われればそうではない。もし、合理的に説明できるのであれば、バブル経済なんて起きるはずもないが、世界中のあちこちで、バブル経済は発生してきた。
     信仰と科学は、それぞれ違う分野での対立するかに関して、科学と信仰をまつわるパネルディスカッションに出たときの経験をもとにヤンシー先輩は次のようにお書きである。
     発言する番になった時、私はX線結晶構造解析のパイオニア、ウィリアム・ブラッグ博士のことばを引用した。科学と神学は対立するかと尋ねられたブラッグはこう答えた。「はい、対立します。でもそれは、親指が他の四本と違う一にあるのと同じ意味においてです。それらを使うことによって、何でもつかむことができるのです」(同書 p.273-274)
    ここで、対立という語がつかわれているが、これは実に意味深長な言葉である。原著を読んでいないので何とも言えないが、おそらくConfrontationという言葉であると思われる。Confrontationは下の漫画のような顔と顔をぶつけるかのような対立の意味もあれば、きちんと話し合うために向かい合う、という意味もあるのだ。


    顔と顔を突き合わせるような対立

     本来、対話するということは、異なる人人を迎え入れて話し合うことであるとは思う。相手の存在や理解を頭ごなしに否定して見せることではなく。そのためには、相手の主張を受け入れつつ、対話するための技術が求められるが、そういう教育は日本では初等教育から高等教育までしていないように思う。米国でも、自分の主張をする教育はするが、相手の意見を受け止めながら、きちんと対話していく教育は十分ではない。大体、普通のアメリカ人は人の話を聞いていない。これは生活実感として思う。アメリカ人は、言いっぱなしでも、議論で相手をねじ伏せてしまえばそれが正しいとされる土壌がある。

     対話をするためには、自分の中で相手の意図を翻訳して、それを自己のものとして理解し直したうえで、それと向き合う必要があるのだが、それは一朝一夕ではできない。いくつかの立場の異なる人々と向き合いながら、先験的に到着地点を定めず、予定調和でなく対話をして努力が求められるのだから、楽な話ではない。

     2者間でも、多者間でも、実はこの対話の技術というのはそう簡単ではない。対話者間であくまで水平的な立ち位置を確保しつつ、相互の考えを尊重しつつ、結論を出すことを目的とせずに議論する場の事を、以前に紹介したユルゲン・ハーバーマスは公共圏と呼んだが、それは参加者にOpen Mindedであることと、意図的に相手を誘導しないコミュニケイション的行為を要請するが、そのための対話者としての成熟と相手に対する相互信頼が求められているように思うが、これまでの過去のキリスト者と科学者を含め、多くの人々の対話自体が非常に貧困であり、相手をぶち任すことだけを目標にした議論の形式だけが走っていたように思うが、もうそれでは遺憾のではないか、とは思うのだ。


    公共圏を示した図

     相手の主張と自分の主張を大切にしつつ、妥協するのではなく成熟した大人としての対話ができる日は、日本のキリスト教関係者に果たして来る日があるのか、と思ってしまう。そもそも、どちらが正しいと証明できたところで、その証明の与件が変わってしまえば、無効な社会に我々が生きているということの認識を持つ人がもう少し増えればいいなぁ、と思うのである。

    まだまだ続く




    評価:
    A.E.マクグラス
    教文館
    ¥ 2,808
    (2005-05)
    コメント:大変よい お勧めします。

    評価:
    アリスター・E. マクグラス
    教文館
    ---
    (2003-04)
    コメント:お勧めします。

    コメント
     相も変わらず、読むのが間に合っていませんが・・・反応しやすい部分なのでお先に茶々を入れておきます・・・

     >明日の降水予報ですら、時に外れることがあるレベルの予測水準でしかないが、それでもないよりはましである。
     そもそも予測とは定義されているのでしょうか?気象庁ご自慢の数値予測と申す物など、初期設定に次第でトンデモなことになります。ですから、場合によってですが、明日の天気は外れるのに、三か月先の予測が当たったり平気でします。別の表現をすれば、予測モデルの考え方が現実と乖離していること、入出力ポイント数が荒いことなど考えれば、下駄を投げているのとそれほど異ならないような気がいたします。

     >認識可能なことのみを研究対象
     これはいわゆる科学、人文科学を含め、宗教哲学、神学丸抱えで当たり前のお話しで・・・認識=言語化 が可能な場合のみ、初めて大将になり得るのです。言語化できない内容は、実のところ認識すら出来ませんから、宗教としても対象にはナリ得ません。

     >倫理を含まない・・・そのことを認識している(はずな)のであるが
     いいえ決して倫理がないわけではありません。ご自身の理論に拘泥したり、逆に気に入らないことに対して攻撃したりするってことは、それなりの倫理観は必ず有していると考えるべきです。ただしその問題は、倫理観(尺度及正義の問題)の基準(内容)が各人の思い込みに過ぎず、共通でないことです。

     >技術の完成度の向上を目指していく傾向
     これは特に極東の辺境の住人にとってお得意の手段ですが、コスパの問題や予算取り時の申請理由の書きやすさから当然なお話では?

     >同じ語を使いながら、完全に別の事を意味していることが起きて
     これもあまりにも当たり前のお話しで、使っている当人達の思い込みが他人と同じと考えるほうが実は危険きわまりないお話しで・・・知らないことに自ら気付くことは不可能で、他人に指摘されて初めて気づける事柄です。

     >信仰と科学の間の優位論争
     これは、それこそ認識と現実の優位論争と同根になります。全ての現実が認識可能とは言い切れません。また認識が必ず現実を伴うと断言は出来ません。
    • ひかる
    • 2016.01.17 Sunday 02:25
    ひかる様

    コメントありがとうございました。

    > そもそも予測とは定義されているのでしょうか?気象庁ご自慢の数値予測と申す物など、初期設定に次第でトンデモなことになります。ですから、場合によってですが、明日の天気は外れるのに、三か月先の予測が当たったり平気でします。別の表現をすれば、予測モデルの考え方が現実と乖離していること、入出力ポイント数が荒いことなど考えれば、下駄を投げているのとそれほど異ならないような気がいたします。

    そうですよね。今、細密気象データといっても50mメッシュのスケールでしかありませんが、観測点も現実にはものすごく少ないですから。予報に至っては、数年前から1Kmメッシュで出始めましたが、まぁ、このレベルだと、パラメータ少なすぎなんですが。とはいえ、鉛筆舐めて、下駄投げてでもいいので、こういう参照値を欲しい方が農家さんには多いようです。

    >言語化できない内容は、実のところ認識すら出来ませんから、宗教としても対象にはナリ得ません。

    それはそうですね。表現できない、ということになりますしね。ただ、認識をどういう意味でつかうかにもよるような気がしますけれども。

    >ご自身の理論に拘泥したり、逆に気に入らないことに対して攻撃したりするってことは、それなりの倫理観は必ず有していると考えるべきです。ただしその問題は、倫理観(尺度及正義の問題)の基準(内容)が各人の思い込みに過ぎず、共通でないことです。

    これ、倫理って呼んでいいんでしょうか。倫理ってことの定義はあまり明白にして使っていないのは、私も同様なのですが、ひかる様と私との間に倫理と呼ぶものがどうも違うものを指し示しているような気がいたしますが。このあたり、文屋の違いですかねぇ。

    >コスパの問題や予算取り時の申請理由の書きやすさから当然なお話では?
    まぁ、研究分野でもかなり時代の先を言ってしまっている理解しにくい、変な研究は評価されにくいですしね。まぁ、伝え方がまずいのがあるという要因があるかもですが。

    >使っている当人達の思い込みが他人と同じと考えるほうが実は危険きわまりないお話しで・・・知らないことに自ら気付くことは不可能で、他人に指摘されて初めて気づける事柄です。

    気が付きたくない人、言われても認めたく人も時に追われるので、そんなときは心がおれてしまいそうになります。


    >全ての現実が認識可能とは言い切れません。また認識が必ず現実を伴うと断言は出来ません。
    これはご指摘の通りです。ただ、それを言い募る人が身近に要るので。お察しください。

    コメントありがとうございました。良い一日を。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.01.17 Sunday 08:55
    >倫理って呼んでいいんでしょうか

     今後のためにもお話ししておきます。標準的と思いますが「人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道(の立て方)」。
     全ての行動基準の基本指針で、私個人の認識とすれば、大きく三つに仕分けられていると思います。1.公共(ただし所属している集団により集団数分、異なる場合もあり)の標準的規範。2.個人の規範3.存在そのものに気づいていない規範。実際の行動認識はは1と2の認識により、A.守る必要があるB.守る必要があるが守りにくいC.守る必要がないD.関係ない。と認知されて行動基準になります。結果はそれぞれに対し伊.守れる、呂.意識に拘わらず守れたり守れなかったりする。波.守れない。となります。


    >認識をどういう意味
     脳が関知することことのうちで、意識される部分と思っています。阿頼耶識、阿摩羅識、乾栗陀耶識やイドも言語化されると同時に認識可能になります。
     ただし、認識≠言語が必然なので・・・

    >それを言い募る人が・・・お察しください
     それはまだ可愛いです。
     何時の頃からか、人の能力及び行動結果が同じであることが平等とされるようになってしまったのか。説明を受ける側の能力の無さを棚に上げて、説明する側の問題にすり替えてしまうようになってしまったのか。そのようなことが可能なら、全ての人が100m走を9秒台でクリアできてしまいます。彼らは基礎能力すら持たない無知には説明するだけ時間の無駄だってことすら理解できませんから。
     俺様に理解できるように説明しろって発言するってことは、実は俺様は神の様に全知全能で全てのことが理解できるって傲慢な発言をしていることにすら気付いていませんから・・・
    • ひかる
    • 2016.01.17 Sunday 13:17
    ひかる様 
    再度のコメントありがとうございました。

    >ご自身の理論に拘泥したり、逆に気に入らないことに対して攻撃したりするってことは、それなりの倫理観

    であるとするならば、最初のコメントは倫理意識というよりは、むしろ、正義漢意識という方が適切か、と思ったまででございます。後のコメントで、倫理観のコメントで了解いたしました。

    なお、技術そのものの教育においては、一応価値判断中立、ということで進んでいるこれまでの経緯があるように思います。最近はそれではダメだ、ということで、技術倫理も触れざるを得ませんが。ただし、ごくまれに、倫理的な問いをする方が技術の分野でもあるのですが、案外それは黙殺されるか、冷や飯を御献呈いただくかのどちらかのことが多いような気がいたします。

    >説明を受ける側の能力の無さを棚に上げて・・・
    まぁ、基礎能力を持たないから、相手にする必要がない、ということは、高等教育においては、本来高等教育のためのご準備が十分できていない方々でもあるという意味で致し方がある面もあるか、とは存じます。
    しかし、まぁ、キリスト教を標榜する教会という組織でのことを考えますと、個人的には、そのような考え方には完全にご同意いたしかねるようにも存じます。
    まぁ、そういう方には、とりあえず、座って、考えようか、こんな本読もうか、っていうところからお話するようにしております。無理だったら、こればかりすることが人生じゃないんだよ、って別の進路をご提示することも最近はございます。

    >俺様に理解できるように説明しろって発言する・・・

    最近そういう方で疑似正義感をお持ちの方も増えてまいりましたね。

    そういう方には、まず、お勉強されてはいかがですかねぇ、とやんわりお勧めするしかないのかなぁ、と最近は存じております。

    コメントありがとうございました。
    よい一週間を。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.01.17 Sunday 22:39
    >倫理的な問いをする方が技術の分野でもあるのですが、案外それは黙殺されるか、冷や飯を御献呈いただくかのどちらかのことが多いような気がいたします

     これは用語の取り扱いの違いなのかも知れませんが、小生は倫理観は必ず必要かと思います。ただし、それには善悪や正義の概念は一切含まれません。

     例えばアソシエートフットボールをするには特定の選手以外、手を使用してはいけないのと同様な意味でです。
     ラグビードフットボールでは、手を使えますが前には投げられません。アメリカンフットボールでは前に一度投げられます。単に規則ともいいますが、これらを守ることは重要な要件です。たしかにペレの「神の手」や王ボールなどもありますが、ソレはそれで人のすることですから・・・

     所詮、人が定めた一時的なお約束に過ぎませんから・・・それでも少しはマシに過ごせることは確かだと思います・・・
    • ひかる
    • 2016.01.18 Monday 22:32
    ひかる様

    コメントありがとうございました。
    倫理は必要ないといっているわけではなくて、倫理が無視されることや、技術追求の中からは、倫理が出てこないことを懸念しておりますし、そのことから技術教育の中で、倫理を示すことは極めて重要であると存じております。

    ただ、先にも書きましたように、他者の存在を否定するような言辞を弄することはミーちゃんはーちゃんにとっては、倫理的であるとは思えませんし、倫理にこだわる人々を利益が出ないから、あるいは利益を出すうえで障害となるから、という観点のみから冷遇することも極めて倫理的であるとは思えないのですが。

    まぁ、人間が考えたルールというのは、社会一般の人のごく一部あるいはそのかなりの部分が過度に不幸な目に合わない為に過す上で需要である、というのはそのとおりかと存じます。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.01.19 Tuesday 18:17
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