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2016.01.13 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(31)

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     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。

    外れ者の権利とキリストと正義

     ミーちゃんはーちゃんは割と外れ者の位置が好きなので、それでいいと思っているのだが、まぁ、その背景には、キリスト教が本来、外れ者に優しい、ということを知っているからかもしれない。
     ヤンシー先輩は、このことに関して次のようにお書きである。
     ギル・ベイリーはクリスチャンは当たり前の事と思っているが、歴史上では前例がなかった現代の潮流に言及している。それは、主流から外れたところにいる人々への共感だ。「今日、西洋ではどこでも犠牲者(被害者)の地位が高い」とベイリーは言う。(隠された恵み p.266)
     まぁ、今では、被害者の位置が高いのは当たり前だといわれているが、日本やアメリカでは、加害者の法的保護が進みすぎていて、ともすれば被害者の保護がやや軽んじられる傾向があるようにも思う。ただ、その場合の論理構成のさいにも、加害者が社会の周辺におかれ、その権利が軽んじてはならないという概念から始められたのであるが、行き過ぎがどの社会にもあるように、その行き過ぎが時に行き過ぎたりすることはあるのかもしれない。

     その昔、勤務先で組合の委員長にこの辺のミーちゃんはーちゃんのキリスト教的精神構造を見込まれたのか、ご指名でリクルートされ、組織票が動いたのか、組合の書記長をやらされたことがある。2年間お役目やって、上部団体があまりにアホなこと(未加盟組合に温かく、金を払っているミーちゃんはーちゃんの加盟組合に冷たい対応)をするので、「あのような対応をする上位団体と継続してお付き合いされる以上は組合にいる理由が見つかりません」と、書記長やめた瞬間に組合を抜けてしまった。最初「親睦団体です」とだけ聞かされていたのだが、それだけでなかったのを書記長になって初めて知ったのである。

     まぁ、組合運動といえば、過去に賀川豊彦先輩も関係しておられたりはするので、悩ましいところであるが、まぁ、上位団体は上位団体のお考えがあるのあるのなら、末端にも、ちゃんとお伝えしてほしかったと思っている。まぁ、それは、ミーちゃんはーちゃんの団体の問題ではある。

     弱い人をお助けするのはミーちゃんはーちゃんは大賛成なのだが、それを勝手に自分たちの政治的闘争のレバレッジというか道具には使ってほしくないだけである。それは弱い人を利用するだけの行為であるから。

     ところで、一般社会にとって、どのような正義論を考えるか、つまり、何がよいと考えるかは、様々な考え方がある。結果としての平等を図る方向で社会全体を改善する方向に向かうのか(ロールズ流の機会均等による正義の実現)、最も条件の悪い人を最も改善する方向で改善する方向に向かうのか(フランク・ナイト流の最悪条件の改善による正義の実現)を考えるのかによって、具体的にとられる政策は変わってくるが、個人的には、もっとフランク・ナイト流の最も恵まれない人々の改善というのはもう少し顧みられてもいいのではないか、と思うのだ。

     正義論というのは、非常に大事なのだが、なかなか現実にどういう改善をするのか、ということはある政策が狙った対応がもたらす状況の変化が、また別のかたちでの反応(時に予想外の効果)をもたらし、それが厄介な反応をもたらすことがあるので、案外難しいのである。

    福音の原則で互いに言い争う人々
     先ほども書いたが、組合運動の背景にある考え方の一つである共産主義(もちろん、社会民主主義を背景にする組合運動もあるが、ミーちゃんはーちゃんのところは、共産党別動隊であった)では、キリスト教も仏教も基本NGとされているが、その人たちが教会を批判するときの原則が、実はキリスト教的な概念になっているとヤンシー先輩は次のようにご指摘である。
    さらに見落としがちだが、教会を批判する人々も福音の原則に立って非難している。もともと福音によって世界に解き放たれた、まさにその価値観に賛成しながら教会を批判しているのだ。人権、市民権、女性の権利、少数者の権利、同性愛者への権利、身体障碍者への権利、動物の権利。これらの現代の運動の成功が意味するのは、抑圧されている人たちへの共感が広まったことであり、それは古代社会にはなかったものだ。(同書 p.267)
     ここで、ヤンシー先輩が言う福音の原則とは、恐らく、本来の人が本来の創造の姿を取り戻すこと、あるいは、神の創造の業として生きることであり、ある面、束縛からの開放であろう。確かに、ナザレのイエスは、当時のイスラエルに住む人々に様々な差別からの開放を告げられたことは間違いない。律法からの開放、女性を大事にすること、外国人もユダヤ人も差がないこと、人間を神のかたちに戻すこと、人間が神のかたちであろうとすることを否定するものからの開放を言われたはずである。

     しかし、キリスト教は、ヨーダー先輩のごを用いれば、コンスタンティヌス型のキリスト教になって以来、政府や政権、王権と結託し、支配のツールとして機能したことは否定しえない。ある時は政府や王の支配の道具になり、ある時は自分たちの支配の道具として政府や王を利用した。その批判は避けられない。また、ある時は、奴隷が聖書にあるからということで、奴隷制を積極的に支持し、それに根拠を与えたキリスト教もあった。それも今から50年くらいまでまでかもしれないが、一部にはそれを今でもいう人々もいることは認めねばなるまい。あるいは、イエスを軽視させた黒幕はユダヤ人であるといい、ユダヤ人を排斥しようとする人々もいる。パウロ先輩ですら、ユダヤ人とギリシア人との間に差別はない、とご主張なのに。

     そして、ある人々の一部は公然ということはないかもしれないが、聖書の福音に反する、といって女性の権利を圧迫したり、LGBTの人々を社会から追放しようとする。LGBTの人々を石打にしたいなら、まず自分たちの内で不倫をする人々を二人そろって現場で捕まえて、石打にすべきではないだろうか、と思う。そもそも、イエスは、姦淫の場でとらえられた女を囲む人々に対して「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったような気がするのだが。一部の自分に都合の良い聖句だけを取り出して、それを根拠に人を排除しようとするのは、個人的にはいかがか、と思う。

     そして、双方で、本来全ての人間にとっての福音であるべき「すべての人間のあるべき神のかたちの回復」を巡って罵り合っているというのは、もはや悲喜劇であるとしか言えない。片方の人権論者は神のないかたちで「人間の回復」を一方的に語り、他方の教会を仮想敵かのように取り扱い、また別の一方である教会は神を前提に「神のかたちとしての人間の回復」をもう一方である人権論者を仮想敵かのように取り扱い、一方的に語っているように思えてならない。

     近いもの同士は自分自身の正当性や正統性をより強く主張しようとするので、案外対話がうまくいかない、という側面もこの論争というか罵り合いに油を注いでいるのかもしれないが。ラベルを張って相手の多様性を無視して議論するのではなく、もうちょっと冷静にやればいいのに、と思っている。

    時代とその文化に制約される思考や聖書理解
     どの哲学者やどのような分野の研究を見ても、ある時代とその文化に制約される思考や研究テーマがあるように思うのである。それは、その時代がその前の時代の文化に制約され、その制約を抜け出すために、必死に努力した結果として、現在の社会から見たら、「何やあほらしい」と思われるほどの理解を得るために必死になっている姿である。我々から見れば、後出しじゃんけんであるために、実に滑稽なことに見えるのではあるが、ご本人たちは必死なのである。同じことは聖書理解においても、それは起きる。このあたりに関しては、藤本満先輩の「聖書信仰」でも表れている。その辺は、 藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1)  と 藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり  にもちょろっと書いた。

     そのあたりの事に関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    この世の人々から失敗を批判されるとき、私たちは、圧力団体や市民活動家たちが見せないような謙遜と悔い改めという態度で応じるべきだ。クリスチャンは知っている。2100年の教会が2000年の教会を振り返った時、なぜそんなことをしたんだろうと悲し気に頭を振るだろうことを。彼らにとって明らかと思えるものを、私たちはどうして見逃してきたのか。
     イエスの弟子たちである私たちの課題は、真実の福音と手を結ぶこと、そして福音を切実に求めている世界に、かつての福音の力を取り戻すことである。 次のように公言したジョージ・オーウェルは、そのことを部分的にではあるが正しくとらえていた。「この時代の問題は、信仰がかつて持っていたのに…破壊されてしまった、絶対的な正しさと誤りという感覚を取り戻すことです。」彼が触れなかった選択肢がある。それは、”堅固な信仰の再生”である。(同書 pp.267-268)
     技術の分野を見れば、割と明らかであるのだが、その昔日本語ワードプロセッサーという中身は実質的にはパソコン(Sharp社製 書院は内部に実装されているPC機能で遊ぶ人たちがいた)なのに、日本語での文書作成しかできない機械が量産されていた時期があった。いまだに愛用者はおられるようであるが。今から考えれば、そんなあほな、という話であるが、そういう時代もあるのである。

     先にも触れたが、アメリカやイギリスのキリスト教で言えば、黒人差別問題の根源になったアフリカからの奴隷制度にかんして、教会が聖書の中に奴隷がでてくるし、主人にこころから仕えよ、とあるから、ということで奴隷制度を容認どころか時に推奨した人々もいた。それを廃止に向けて動かし始めたのもキリスト者であったが。あるいは、ヨーロッパのキリスト教会では、ユダヤ人排斥に動いたキリスト者たちもいた。現在では、イスラムに敵意を向けるキリスト者たちもいないわけではない。
     平和な仏教徒というイメージがあるかもしれないが、今なお、仏教徒同士による紛争がある地域もアジア南部にあるし、平和な多神教国家であったはずの日本では、明治のころに、ある神による統一が図られた時期もあった。

     それが人間であるということなのだろうと思う。どの宗教や信仰であっても、人間がそこに介在する以上、争い事は絶えないのだろうと思う。

     ヤンシー先輩は、「この時代の問題は、信仰がかつて持っていたのに…破壊されてしまった、絶対的な正しさと誤りという感覚を取り戻すことです。」というジョージ・オーウェルの言葉を引用してお書きであるが、それほど、甘くはないのではないのか、とミーちゃんはーちゃんは思っている。ただ十分配慮していないと、案外、この「絶対的な正しさと誤りという感覚」ほど恐ろしいことはないと思うのだ。

     「絶対的な存在」、そいういうものがあるということの認識、あるいは、聖書的な用語を使えば、「おそれ」を知っていることは大事だと思う。

     しかし、そもそも、人間には、絶対的な正しさや絶対的な誤りを扱う能力がないのではないか、とおもうのであるが、それにもかかわらず、「絶対的な正しさがある」ということを知れば、「それを自らのものとし、それの使い方を十分マスターしていないにもかかわらず、ライトセイバーよろしく振り回し」てしまう人がではじめると思うのだ。そして、挙句の果てにダークサイドに落ちてしまって、カルトを生み出したりするように思うのだ。まぁ、善悪の知識の木の実の扱い方を知らない人間が善悪の知識の木の実に手を出してしまった結果の呪いだろうと思っている。なお、ミーちゃんはーちゃんは自分自身がその呪いの下に未だにあるので、ジェダイのように振り回すのはご遠慮願いたいし、アプレンティスになる気もない。"I am not the chosen One"であると思っている。


    このシリーズは面白いので、お勧めしてます。

     そして「堅固な信仰の再生」は、マクナイト先輩もおっしゃっておられるところであり、極めて重要であると思うのだが、それは、「堅固な自己正当化の否定」でもあるべきだと思っている。そうでなければ、人間は容易に神の地位の残念な僭称者、ないしは神の御座の簒奪者になってしまうからである。

     この誤りを起こしやすいことに関しては、どこでも起きるし、そんな難しいお話ではない。以下の二つの動画を見比べてほしい。そして、下側にあるシンプソンズの動画が何を示しているか、を少し考えてほしい。



    アップル社のマッキントッシュ発売時のCM

     1984年のマッキントシュを出した時には、Apple社はIBMという世界最大の計算機企業を打倒しようとしたのである。その意味でチャレンジャーで あり、IBMで大型計算機ですべてのデータを管理しようとする世界に華々しく、赤いパンツをはいてハンマーをぶち込む存在としてのマッキントッシュを売り 出そうとしたことを象徴的に描いた非常に力強いCMが上側の動画である。


    アップル社のCMを揶揄したシンプソンズの動画

     しかし、それから約30年後、アップルコンピュータは、iPhoneやiPad、iPodで庶民から金を巻き上げる昔のIBMのような Big Brother みたいな存在になってしまっているではないか、という批判をThe Simpsonsの制作者から受ける存在になってしまったのだ。

     何とも、いやはやである。実に、人間のすることとは、空の空、一切は空、である。あるいは
    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
     まぁ、そういうことを分かったうえで、ではなぜ人間が生きているのか、何のために生きているのか、ということを示すことが恐らくキリスト者のこの地の存在意義について大事になるのだろう、とは思う。

     まだまだ続く




    評価:
    Jeffrey Brown
    Chronicle Books
    ¥ 1,266
    (2012-04-18)
    コメント:StarWarsフリークスの皆様にはおすすめ

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