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2016.01.11 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(30)

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    今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。今日は道徳とキリスト教とのかかわりである。

    道徳と文化と社会の問題

     人間と律法主義、あるいはそれに伴う人格的拘束、精神的拘束、霊的拘束の話題に関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。人間は、ある古い拘束から脱したと思っても、神が不在の場合、どうしても別の拘束にとらわれてしまうのであろう。そのあたりのことを、次のような表現でお書きである。
    ふたたび、子供のころを思い出す。律法主義であり道徳的な環境の中で私は育った。善良なクリスチャンは禁煙をせず、飲酒をせず、麻薬も使わず、離婚や性的な快楽に走ることもなかった。教会は金、性、権力は神の贈り物とは認めながらも、その危険性を強調した。それらは爆発物のように、規則どおりに注意深く扱わなければなかった。よいことよりも、否定的なことを聞くことがはるかに多かった。「罪には罰が伴います!」その淀んだ環境の中へ、60年代の革命が自由と解放をまとったさわやかな風を運びこんできた。そして友人の奥が、教会というサブカルチャーの拘束服を喜んで脱ぎ捨てた。
     しかし時の経過とともに、多くの問題において教会の正しさが証明された。性革命は、十代の妊娠、家庭崩壊、父親がいない子供たちを多く生み出した。その性の乱れはエイズを含む性病を蔓延させ、様々な健康問題を引き起こした。そして今、一般社会の活動家とは、禁煙、暴飲、ドラッグによる健康被害に警鐘を鳴らしている人たちである。(隠された恵み pp.253-354)
     個人的には1960年代生まれなので、1960年代を経験はしていない。映画や音楽、アートと歴史書から学んだだけである。1950年代以前の時代は、非常に遠い。その時代の教会はある面で、おそらく道徳の権化のようなところはあったのかもしれないし、また、社会を支配した雰囲気も、大量生産時代、近代社会の道徳(それは、社会を効率的に回し、そこそこみんなが幸せに生きられるための社会規範であったとは思うが)が満ち溢れたものであったであろうことは想像に難くない。

     社会では確実なもの、モダンをよしとする世界観が日本ではこれが少なくとも、1970年代あるいはバブル崩壊前後まで続いたと思うし、1970年代に入って、米国の凋落が伝わってくる中で一種の社会道徳のようなものへの疑問が、湧き上がったが、性の乱れといっても、当時マスコミで話題になったのは、女子学生がジーンズをはくのが適切かどうか、ミニスカートをはくのがいかがなものか、といった程度であったように思う。それが社会規範から見て、異常に見えたことは、いまのガングロのお姉さま方や、AKB47とか乃木坂何とかの皆様から見れば、かわいいことよ、と思えてしまう。

     そもそも、江戸末期前後、英国人や米国人が日本の風俗(たとえば、混浴とかが普通とか)、刺青の習慣とか、遊郭の存在とか見て驚いたような感覚(とはいえ、通っていた西洋人もいたことは確か)や通い婚といった習慣などを考えると、発狂しそうになったことから考えると、こういう性の乱れという理解も文化的側面を含まざるを得ないとも思うし、そもそもかなり性にオープンであった日本社会でも、1500年以前には梅毒はなかったという説もあり、まぁ、性にオープンであった日本社会にも、1800年代は無論のこと、1980年代までは後天性免疫不全症候群はなかったのである。まぁ、1980年代の患者の大半は、人間の生活の質をもたらすはずの薬剤(血液製剤)によって発症した人々であった事は忘れてはならないだろう。

     では、西ヨーロッパのキリスト教社会がヴィクトリア朝以前から性に厳格であったかどうかというと、個人的にはかなり怪しいと思っている。なぜならば、そこまで人間は高尚にできていないし、本来欠けがある存在だからである。まぁ、旧約聖書創世記のアブラハムからして、婚姻を台無しにしかねないことをやっていないだろうか。

     もちろん、現在の性の乱れや薬物乱用が、こういう病気の拡散要因になっていることは間違いはないが、こういう不都合をすべて教会的な性の正しさが保たれてないと言い切っていいのか、ということは、かなり昔の過去の歴史を考えてみると一概にも言えないよ言うな気がするが。この辺、ヤンシー先輩は時に近視眼的ではないか、ということを言われても仕方がないように思う。

     それよりも、ここで大事なのは、ヤンシー先輩が「教会というサブカルチャーの拘束服を喜んで脱ぎ捨てた」というご指摘の部分である。ヤンシー先輩がご指摘の通り、北米では、とりわけ米国という背景では、確かに「教会というサブカルチャーの拘束服を脱ぎ捨てた」ように思うし、それは、米国の中で、これまでの西洋ないし教会という文化への関心に変わり、アジアへの関心、あるいはネイティブアメリカンへの関心、その他のカルチャーへの関心に向かっていったり、あるいは、別のポップカルチャー、ドラッグカルチャー、依存カルチャーへと向かっていき、とりわけ、ドラッグカルチャー・依存カルチャーあるいは、因果関係を何が何でも明らかにしなければ気が済まないカルチャーの拘束服に新たにとらえられただけであったのであろう。

     その意味で、人はある拘束から外れても、本来的に神と人との関係の中にいない限り、また新たな、別種の拘束に入っていかざるを得ないのではないか、と思うのだ。個人的には、神と人との関係の中に入ることは、ある教会群が保有する教会というサブカルチャーに拘束されることではない。神と人との関係に教会が持つサブカルチャーが付随することはあるが、教会が持つサブカルチャーは神と人との関係ではなく、そのあたりの峻別は案外大事ではないか、と思っている。 

     以前、鈴木大拙という人がその昔「こころの時代」で「こころの時代」のごく初期に登場した買いで、ご本人が自由について語っているのを見たことがある。そこで、鈴木大拙という方は、日本語の自由は、自ら由って立つこと、あるいはわがまま勝手の意味が強く、自分自身が中心になりがちであるが、西洋の自由には、Freedomとかlibertyには、制約がないという意味が強い。この辺の感覚はだいぶん違うといっておられたが、これはそもそも、Freedomには、どちらかというと本来的には、なにかからの開放、拘束していたものを脱ぎ捨て、そして、本来の姿に立ち返える、という側面もあるように思う。そう考えてみると、日本語での自由は、かなり誤解を生む表現だと思う。

    パットナムの「孤独なボウリング」から
     ロバート・パットナムさんが言いだしたことというのは、今の日本の地方自治体から、日本国政府の皆さんまで、旗振りに懸命な新しい公共、ニュー・パブリック・マネジメントの根底にある概念の一つである、ソーシャル・キャピタルという概念であり、これをはじめて言い出した人である。つまり、もう政府が全部面倒見きれないし、そんなことは非効率だと気が付いて、では、どうするのか、ということを問われた時に、やりたい人たちがいるんだったら、やってもらって、政府が全部抱えるんじゃなくて、やりたい人や組織と強調しながら、やればいい、という形に変えていくことが、基本にあると思う。2010年頃に、研究でその勉強をせざるを得ずめっちゃ分厚い「孤独なボウリング」を読んだ。


    ロバート・パットナムさん

     まぁ、パットナムさんのご主張を、めちゃくちゃ荒っぽくミーちゃんはーちゃんの理解を言ってしまうと、社会を細かく分断的に管理領域を決めてガチガチに役割分担を決めて運用したところでうまくはいかないので、その潤滑油的、あるいはショックアブソーバー的な存在があるほうが社会がうまく動き、お金のやり取りがなくても、こういう善意や善行がある社会では、こういうショックアブソーバー的な組織が機能し、社会は効率的に動くし、そういう社会の方が人間は幸せであるという調査結果を、各種データに基づき実証的に示した本、ということになる。実は、この本は2014年にすでに社会の分断化・分節化と社会を構成する人の疲弊と教会 という記事で紹介している。

     なにより、この本で驚いたのは、第1章 イントロダクションに続き、ソーシャル・キャピタルを構成する土台の一つというか、米国においてソーシャル・キャピタルの揺籃装置として教会が筆頭に挙げられていたので、実はびっくりしたのだ。

     確かに、アメリカに生活してみると、教会にいるということは、気軽にいろんなわからないことを聞けるサポートネットワークを得たり、短期的な人間関係ネットワークを形成するという意味において、極めて重要なのである。そうでなければ、役所でのたらいまわしを覚悟で生きねばならんし、人間関係を形成するネットワークの場を形成するような場所を持たない限り、荒野に一人ぼっちという感覚に襲われることに耐えねばならない。その意味で、アメリカ社会においての教会は、日本型の一所懸命主義ではない形ではないその人を取り巻く人間ネットワークを形成するのだ。その意味で、短期的で一時的で、sporadic(散発的に)機能する人間ネットワークを形成するに、これほど適した場所はない、と生活者の実感として思う。
    普通のクリスチャンたちが、人々の幸福のために喜んで仕えている姿を数多く見てきた。それは、クリスチャンと政治のかかわりばかりに目を向けているメディアが見過ごしている事実である。『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』という画期的な本の著者ロバート・パットナムは、敬虔な米国クリスチャンたちは、ホームレスの人々に金銭を恵み、釣り銭が多ければ店員に反し、献金をし、病気の隣人のために買い物や家事を手伝い、抑うつ状態にある人と時間を過ごし、見知らぬ人に席を譲り、職探しを手伝ったりすることを期している。定期的に教会に通う人たちは、そうでない隣人たちより4倍近い金額を慈善事業に寄付しており、貧しい人々や体の弱っている人々、また高齢者支援のためにボアランティアをしている人の数も倍である。(同書 pp.258-259)
     確かにここで指摘されているようなことは、マスコミでは一言も触れられない。それは、ある面、そう珍しいことではないし、ごく当たり前の事だからだ。まぁ、911以降、随分変わったというものの、大概の西部のアメリカ人は、まだまだ脳天気だし、底抜けに親切な人々が多い。それが、キリスト教精神に基づくものであるのであることを意識せずに文化として定着したキリスト教ではあるが、こういう精神は極めて旺盛であると思う。

     ガチのリベラル派というのか、無神論的なアメリカ人には直接あまり出会ったことはないが、慈善団体が教会を母体として出発していることが多いこともあるのか、基本的には日本ほど政治的な背景をもとにした慈善団体は少ないと思うし、マッカーシズムという嵐を通った米国であるからこそ、共産主義者が極端に少ないからかは知らないが、割と政治的なものとは無縁に慈善活動が行われている印象はある。

     ところで、多くの事象が聖の側面もあれば、負の側面もあるのは当然の事だが、良い方にソーシャル・キャピタルは働くこともあるが、必ずしも良いことだけを生み出すだけとは言えないのが、マネタリ・キャピタルもソーシャル・キャピタルも似たようなところがあって、マフィアの困りごとも、警察組織の困りごとも、なんとなくこういうものがあると、サポートネットワークを介して、それとなく処理されてしまうところがあるのである。

    宗教と犯罪
     日本は、オウム真理教事件という犯罪集団化した宗教団体を生み出した国であるからか、宗教と犯罪を直結して考える傾向にあるし、911以降は、イスラム教が支配的な地域の過激派(それを誤ってイスラム原理主義とラベルを張る人々がいるから混乱する)とイスラム教を直結する短絡的な人々がいるから困るのであるが、本来、キリスト教にしてもイスラム教にしても神に創られたものである他者を愛するという性質を持っているので、基本的には、犯罪抑止的であることは間違いがない。そのあたりの事に関して、ヤンシー先輩は、次のように書く。
     「宗教は犯罪に対する強力な防衛手段である」と、有名な犯罪学者バイロン・ジョンソンが著者『神を求めるほど犯罪は減る―信仰はなぜ重要か、そしてどうすれば一層重要となりうるか』(現代More God, Less Crime:Why Faith Mattes and How It Could Matter More)の中で論じている。犯罪の再犯率や薬物使用、暴力、そして暴力団を減少させるのに、宗教は役立っている。(中略)
     信仰に基づくプログラムは、なぜ効果があるのだろう。その推進者たちは、改心して神に頼ると人は変わると信じているが、もう一つの要因がある。変わろうという思いはたいてい愛によって生じる。(同書 pp.256-257)
     以下で紹介するサンドラ・ブロック主演の『28 Days』ではアルコール中毒患者だった女性の更生プログラム(Rehab)での様子が紹介されるが、この中で出ていたお互いを励ます言葉の中に、神という言葉は用いられていないものの、実際的に指し示すものは神であると感じさせる表現が出てくる。



    28Daysの予告編

     後、ここでは、暴力団と訳されているが、実際にはギャング団という方が近いかもしれない。アメリカの犯罪ドラマなどを見ると、結構この若者のギャング集団による犯罪などが多いことがなんとはなくわかる。こういうギャングになりかねない子供たちを教会で引き受けて、いろんなことの相談に乗る教会がある。

     青少年が非行に走るのは、基本的に洋の東西を問わず貧しさが原因という指摘もある。家庭の貧しさや、貧困を脱しないと、どうしてもやけのヤンパチになり、失うもののない青少年にとって、怖いものは何もなくなる。貧しさゆえに、将来に展望を持てないため、非行に走るということはもう少し記憶されてもいいかもしれない。


    松田 芳政(2012)最近の犯罪動向と犯罪者処遇 ─平成24年版犯罪白書から─


     この図を見ると、見事に不況期及び好況期と、人口比における少年非行の増減は少なくともリンクして居そうに見える。きちんと解析したわけではないので、何とも言い難いが。




    アメリカの都市部の底辺の公立高校の背景にした映画 「フリーダム・ライターズ」

     犯罪者になった後に、矯正させるのではなく、犯罪を未然に防ぐというプログラムに取り組んでいる教会もある。アメリカでは、普通の公立の小中学校では、銃やナイフの持ち込みを警備員や警官を動員しながら対応しなければいけないのがアメリカ社会であるような気がするが。まぁ、日本では、犯罪後に攻勢をお手伝いしておられる、宗教者あるいは信仰者の方が多いのも、ある面、自分を大事にし、人を大事にするということが、信仰の結果導かれることからなのかもしれないが。

     まだまだ続く



    評価:
    ロバート・D. パットナム
    柏書房
    ¥ 7,344
    (2006-04)
    コメント:ソーシャル・キャピタルを語る上で基本的な文献の一つ

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