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2016.01.09 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(29)

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     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。今日は、社会や思想と、キリスト教とのかかわりの部分である。

    ハーバーマスから見たキリスト教
     個人的には、コミュニティとコミュニケイション、公共圏と情報共有あたりが個人的な研究対象の一部ではあるので、ここで、まさかハーバーマス先生ご登場とは思わなかったが、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    現代ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは言った。「民主主義は、自らが与えることのできない資質を、市民たちに要求する。」独裁政権はトップダウン式で道徳規範を強要するかもしれないが、自由な社会は、責任を持って行動する市民によってきまる。民主主義は慈愛や誠実さ佐渡をどのようにはぐくむことができるだろう。不可知論者のハーバーマスは、同僚たちが驚くほど踏み込んだ見解を口にした。良心、人権、民主主義という西洋の遺産は、「ユダヤ教の正義とキリスト教の愛の倫理を直接受け継いだものだ」といい、こう付け加えたのだ。「私たちはこの受け継いだものを使い続ける。それ以外のものすべては、怠惰なポストモダンの話にすぎない」(隠された恵み p.249)
     ハーバーマスは、基本的にはカントの批判哲学の系譜に乗りつつ、批判哲学の先にあるものに関して議論している、と認識している。


    ユルゲン・ハーバーマスさん

     人が存在する以上、社会が問題になるわけで、その社会におけるより良く生きる生き方を実現し、それによりもたらされる社会的厚生を理性的な対話によって達成するため方法としてのコミュニケーションの研究とコミュニケーションが行われる場である公共圏にその議論の主要部分と特徴があるとみている。

     そして、社会におけるリズムというのか規律をどう社会内部から作り出すのか、ということに関心がある哲学者だと思っている。そのハーバーマスさんが「民主主義は、自らが与えることのできない資質を、市民たちに要求する」というのは、当然だと思う。

     なぜならば、特にハーバーマスが想定しているような民主主義は、一種の熟議型民主主義であり、ものすごい施行作業と神経がめいるような言論活動にすべての社会の成員が参加することを根本的に要求するし、また、極めて広範な物事に対する理解とそれを言語ないしそれに代わる手法で表現することを要求するからである。そんなめんどくさいこと早てられないという人が出てくるのは通常避けたいと思うのがふつうであると思う。そして、それが熟議の上、社会の成員全員の納得するところとなったとしても、ちょっとしたずるというのかショートカットをしたくなるのが人情だと思う。しかし、熟議民主主義の社会では、それは想定外の行動となるのだ。その意味で、実に壊れやすい理想化された社会が熟議民主主義社会だと、ある研究でこの概念を現実に対応させながら考えるの中で、20年くらい前に考えたことがある。

     しかし、ハーバーマスが『良心、人権、民主主義という西洋の遺産は、「ユダヤ教の正義とキリスト教の愛の倫理を直接受け継いだものだ」といい、こう付け加えたのだ。「私たちはこの受け継いだものを使い続ける。それ以外のものすべては、怠惰なポストモダンの話にすぎない」』といったことは、ある面驚くにあたらない。良心、人権といった概念や、民主主義は確かにギリシア哲学の中にもあるが、それはどちらかというと哲人の与件(守るべきもの、そうであるべき外的な規範)としてあるものであって、その生成要因まではあまり突っ込んで考えられていないように思う。哲人あるいは、貴族、ないし市民(投票権のある市民)そういうものだ、という前提に立って議論が進んでいるような気がする。それを西洋に持ち込んだのは、ギリシア哲学というよりは、確かにキリスト教であると思う。ローマギリシア時代には、借金の代償や身代金が支払えないという理由から、奴隷として働くのは当然であった。尚、奴隷といえば、最近まで存在したアメリカのアフリカ系アメリカ人の祖先のアフリカ人奴隷のイメージでタダ働きさせられながら、悲惨な目にあう人々というイメージが強いが、どうも実態は違っていたようである。

     確かに、ポストモダン概念のみからは、社会を円滑に動かし、社会にリズムを与え、社会の規範となるものは、どこをどう議論しても出てこないし、そのためには、何らかのメタ概念が必要だから、それを認めない立場を認めらる事を当然とするポストモダン的なありようというものは、「怠惰なポストモダンの話にすぎない」と言われても仕方がない。

    ヴィクトリア朝時代という英国近代の基盤
     ヒンメルファーブさんの本を引用しながら、サッチャー政権の成立にまつわる時期の鉄の女と呼ばれたマーガレット・サッチャーへの批判とイギリスのヴィクトリア朝の価値観を次のように紹介している。

    ヒンメルファーブの著書『社会の脱道徳化』(原題 The De-Moralization of Society)は、鉄の女、マーガレット・サッチャーが登場する場面から始まっている。「あなたはビクトリア朝時代の価値観を支持している」というインタビュアーの非難に対し、サッチャーはこう応じた。「得ぇ、その通りです。ビクトリア朝の価値観のおかげで、我が国は偉大になったのです。」選挙戦中、彼女の対抗馬は大喜びしてその言葉を攻撃し、新聞の見出しを飾った。サッチャーはひるむことなく、その価値観には家族愛、勤勉な労働、倹約、清潔、自立心、隣人愛も含まれていると主張した。(pp.250-251)
     ヴィクトリア朝というのは、米国が7つの海を現在実行支配する前に、英国が7つの海を支配した時代であり、日本でいえばちょうど明治維新からそのちょっと後の時代であり、英国が世界の工場として、世界の経済センターとして機能し始め、世界の富を一挙に大英帝国にもたらした時代である。


    ヴィクトリア様式の建物(Kings Cross Hotel)

     とはいえ、確かに、ヴィクトリア朝時代というのは、悲惨さも漂った時代であるのである。シャーロックホームズは、アヘン窟でアヘンを吸っていたし、気の迷いで下宿屋の壁にピストルで、VRとブチ込んだ時代であった。中国清朝は、実質的に英国の植民地支配寸前であり、ロンドンの街には中国系クーリーやインド系クーリーが多数おり、中国系クーリーの一部は鉄道労働者としてアメリカに贈られることもあった。


    シャーロックホームズ時代の風俗 VR は Victoria Reginaの略

     経済発展の傍ら、都市に住民があふれ、街には乞食や捨て子、浮浪児があふれた時代でもあったが、それと同時にこれらの都市問題に対応するため、消防や警察制度の確立、近代上下水道の建設、鉄道の建設、学校教育や都市計画が始まった時代であり、上下水道が完備され始めた時代でもあったのだ。そして、ジョージ・ミュラーが孤児院伝道をはじめ、イギリスの海外経営に伴い男性が植民地にエンジニア、事務官僚、商社員などとして海外に派遣され、駐在していく中、英国国内は未婚女性が非常に増えた社会となり、海外にも女性宣教師が大量に送りこまれた時代であった。

     そして、大英博物館の収蔵品を見たし、20世紀に英国病と呼ばれる経済失調時代にも耐えるだけの資産を英国に残し、現在もなお、国民皆保険制度により無料で医療を受けられるだけの資産を蓄えることができた(とはいえ、最近は厳しくなっているらしいが)のはこの時代であったが、それと同時にアジアやアフリカの地で、非常に植民地の原住民は悲惨を強いられた時代でもあった。たとえば、インド大反乱などが起きており、それを武力で抑えた時代であった。

     この植民地経営によりもたらされる豊かさに胡坐をかいたかのような英国にもう一度昔日の栄光を取り戻したい、と英国病が蔓延し、ストが日常茶飯事、電気は止まる、列車はまともに動かない、郵便はまともに配達されない、電力は不安定、石炭産出はされないというろくでもない時代からの脱出をサッチャーは目指したのである。


    マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 の予告編


    ヒンメルファーブ女史

    宗教と道徳
     宗教と道徳との価値観は独立か、という問いをヤンシー先輩は投げかけておられる。これについて、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。 
     価値観は重要だが、道徳的な価値観に「宗教」の土台は必要か、という疑問が残る。ユルゲン・ハーバーマスのような懐疑主義者たちも、その必要性を渋々認めた。ジョージ・オーウェルは欧州における信仰の喪失(彼はそのことを喜んでいた)をよくよく考え、そうなってしまったことを悔やんだ。「私たちは200年間、自分たちが腰かけていた枝を伐って、伐って、伐りまくった。そしてついに、突如としてその努力が報われて、私たちは地面に落ちた。でも、不幸なことに、そこに小さな誤算があった。落ちたところはバラの花束の敷き詰められたベッドではなく、有刺鉄線が張り巡らされて汚水溜めだったのだ…。魂の切断は、盲腸を切り取るような外科手術ではない。その傷口から腐っていくのだ。(p.252)
     この部分に関して思うのは、実は、人間が高尚なものであると想定した近代西洋哲学は、人間が近代が前提とするほど、高尚なものでなかったという現実に直面することになったようである。そんなことは、歴史を少し見ればわかることではないか、と思うのだが、科学万能時代の近代人は、人間と人間性に関する絶対的な信頼があったためか、自分の理解にとって不都合なものは敢えて見なかった、あるいは意図的に無視した部分があったと思うのだなぁ。そして、都合のよい部分だけをつないで、一種のフランケンシュタイン的な理解、あるいはキメイラ的な理解を生み出したのではないか、と思うのである。



    今年のエピファニーの週報で見て大笑いしそうになったマンガ


    フランケンシュタインならぬFrankincense(乳香)

     まぁ、ある面で言えば、近代社会は、自分たち人間が作り出していると思っていたことで、努力で何とかなると思っていた部分を切り離してしまって、結局どうにもならなかった、ということにあとから気が付いた、ということではないか、と思う。まぁ、勉強不足であった、ということのような気がするなぁ。

     ギリシア神話を読んていたら、人間世界がどうなるかくらいは気が付きそうなものではあるのだが、神話だということで、そういう人間に関する教養を科学主義に傾倒する結果、失っていたということではないか、と思うのだ。まぁ、旧約聖書にしても、ギリシア神話にしても、反面教師という側面はあると思うし、だからこそ、古典として継承されてきた部分もあるとは思うのだ。

     とは言いながら、近代という時代は、近代になればなるほど、時間が進めば進むほど、人間はよりよくなる(頭がよくなり、問題は解決するはず)という仮定に基づいていたので(そんなことは大ウソだとミーちゃんはーちゃんは思っているが)、そこは何とかなるという思いでいたのではないだろうか。ちょうど、核廃棄物は、将来になれば勝手に科学技術が進んで何とかなるということで、原子力発電に突っ走ってしまったり、天然資源を使い尽くしても技術革新が進んで、何とかなるとか、超脳天気にいろんなことをやってしまったのと同じだと思う。

     小山先輩は、「富士山とシナイ山」で技術は呪術だと喝破しておられたが、技術者の端くれとして思うことは、技術者は、ある面魔法使いというのか、呪術使いであるとは思う。なぜなら、善悪をあまり考えずに、需要があれば、「技術的に可能ですが…」といっちゃうからなのである。価値判断は保留して「やっちゃえ」とか「いてまえ」になってしまうからである。

     こう考えてみると、近代という時代は、案外人間理解が平板な時代であったのかもしれない、とは思うのだなぁ。

     まだまだ続く





    評価:
    小山 晃佑
    教文館
    ¥ 4,104
    (2014-09-12)
    コメント:良かった。

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