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2016.01.06 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(28)

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    今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。

    キリスト者の存在とこの地における生き方の問題である。ポストクリスチャン時代のキリスト教会をどう考えるのか、という問題に今回の話題は集中している。

    ポスト・クリスチャン時代のクリスチャン

     日本では、多くの人々が3年程度でキリスト教からご卒業になるというある意味ポスト・クリスチャンの促成栽培組量産国であるが、最近は海外では、数世代にわたる熟成栽培組のポスト・クリスチャンが結構増えているらしい。そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。

    西洋諸国のように、明らかに「ポスト・クリスチャン(引用者注 かつてクリスチャンだった)」の段階に入っている国々もある。ヨーロッパの空にそびえたつ教会の尖塔。その古い建物に入っていくのはたいてい観光客だ。かつての信仰の中心地で、今多くの指導者たちからキリスト教は時代遅れで無意味なものだと見られている。しかし、別の形で成長しているごく少数のクリスチャンもいる。英国やニュージーランドなどに、創造性と一致を兼ね備えた健全なクリスチャンがいるのだ。信仰を持っても社会的に得するわけではないのに、教会は信仰を真剣に考える人々をひきつけ、これから育つ信仰の種を蒔いている。(pp.244-245)
     前回の投稿で、ビル・ゲイツ君が、日曜日の朝に教会に行かなくたって、もう少しまともにすることがあるだろう、と指摘していることが紹介されているが、まぁ、実利の側面から考えれば、説教を拝聴せねばならず、行けばいろいろお話をお聞きしなければならない教会に、何で献金しながら行かないといけないのか、なんちゅう罰ゲームや、ということになろうと思う。まさに、「信仰を持っても社会的に得するわけではない」のである。そうであっても、「信仰を真剣に考える人々をひきつけ、これから育つ信仰の種を蒔いている」人々がいる。それも刈り取りを自らの目で見ることもなく。そういえば、イエスの宣教もそうだった気がする。イエスは、ご自分では、神の国は、最初は小さいが、鳥が来て巣を作る木のようなでかさになるともお話しになられたが、イエスが天に帰る前に、イエスが復活したことを疑いながら見ていた弟子がいたことが聖書の中のマタイ27章には書いてある。もう、地上で復活したころには、ボロボロの敗残兵のような弟子たちであったのであり、地上の生活の中で、その刈り取りを復活後に地上で見ることはなかったが、神の国は、エマオの途上であったように人々に説きまくっている。そして、人間に託していておられるのだ。以下に人間がダメでも、だめでない人間になれとも言わずに。

     まぁ、ヨーロッパでポスト・クリスチャンになる背景は、わからなくもない。それこそ、ナチスドイツを支持したキリスト者たちもいたし、率先してホロコーストの基盤を与えようとした人までいたし、戦争の抑止にキリスト者は有効ではなかったし、おまけに教会に行っても、観光でやってきた共産党が支配するほうの中国からの中国人や日本人だらけでは、一体だれのための教会か、ということにもなろう。

     まぁ、それでも、教会堂は、キリストを信じていた根性の入っていた愚公のようなキリスト者が過去にいた、ということくらいは中国共産党の皆さまにも、伝わるかもしれない。



    ノートルダム寺院の前でお写真を撮るのに熱心な中国本土からの観光客の皆さま



    パリのシャネルの前の中国本土からの観光客のお客様
    (昔は、日本のお姉さま方が並んだものである。今は昔、竹取の翁といふもの・・・)


    中東でもアメリカでも付き合うのが難しいクリスチャン

     キリスト者の扱いにくさというのは、個人的にはあまり感じたことがないが(時にうっとうしい重箱の隅論争を仕掛けるような物言いをしてくださるキリスト者の方はいるが高々その程度)、そういううっとうしさは、他の皆さんとではあまり感じたことがないと思う。
    地域によっては、クリスチャンが人々の敵意をかき立てている。ある雑誌の編集者が、2000年以上も前からポスト・クリスチャンだった地域のクリスチャンの特徴を次のように語った。
     中東で、さまざまな宗教を信じる外国人居住者を観察してきて、どんな地域であれクリスチャンと付き合うことが最も難しい、という悲しい結論に至った。見たところ、彼らは3つに分類できる。‘韻弦佑┐鮖つ人を友人とし、クリスチャンだけで集まって暮したがる人々。∪祥里離リスト教会を唯一の手本とし、厳格な神学を持ち、非常に信心深く、刷新を図る人たちに対しては批判的な人々。9時から5時まで働く庶民は霊的に劣っているけれども、自分は「フルタイム」で全知全能のお方に真に仕えている、と確信している人々。
     この編集者が話していたのは、仕事で、あるいは宣教師としてもぐりこんで中東にやってくるクリスチャンのことだった。この世からの隔絶、裁く思い、優越感といった特徴は、私が米国で懐疑主義者たちから聞く不満と同一だ。(同書 pp.245-246)
    しかし、ヤンシー先輩に語った雑誌の編集者の方は、実に正確に見てキリスト者を3分類しておられる。

     その三分類とは、
    ‘韻弦佑┐鮖つ人を友人とし、クリスチャンだけで集まって暮したがる人々。
    ∪祥里離リスト教会を唯一の手本とし、厳格な神学を持ち、非常に信心深く、 刷新を図る人たちに対しては批判的な人々。
    9時から5時まで働く庶民は霊的に劣っているけれども、自分は「フルタイム」で全知全能のお方に真に仕えている、と確信している人々

    ,蓮△泙気靴社会からの引きこもりのキリスト者の方なんで、自宅警備員の歌でも歌いながら、どうぞウルトラ自宅警備隊でも、ウルトラ教会警備隊でも、以下のような歌を歌いながら自宅でも、教会でもお籠りして担当箇所を存分に警備していてください。そのほうが世間のためかもしれません。



    △里茲Δ淵織ぅ廚諒は世界についても、西洋の歴史についても、ギリシア世界に関しても勉強不足なだけなんで、他人の箸のあげおろしを云々する暇があったら、もうちょっと世界の教会の歴史とか、現在の世界ん教会の歴史とかをお勉強していただいてですね(できたら実地でお行きになられるとよろしいのですが)、現在当たり前としている西洋の教会以外のありようってないんですかねぇ、ってお考えになられたらよろしいんじゃないか、と思いますよ。特にアフリカの教会は面白いんじゃないですかねぇ。西洋教会まっすぐの方だと、「帰ってくれ」あるいは、「我々から奪い去ったものを返してくれ」って現地教会から言われるかもしれませんが。

    のタイプの方は、カルト化した教会の牧師さんたちに結構あるあるかるかも。結構こういう方は良くおられるようで、いろんなところで似たようなお話をお聞きします。典型的には、fuminaru k様の教会生活あれこれ などによく表れております。まぁ、きっと、こういうフルタイムで神に真にお仕えされておられる方は、きっと神のような方なので、自分を捨て、自分の十字架も他人に負わせてくださるありがたい方なのでしょう。

    ポスト・キリスト教の潮流の中で

     第1次、第2次世界大戦を経て、ヨーロッパ大陸では、国家と一体化した教会、あるいは教会が国家に奉仕する姿をみてしまった人々は、神の支配があまりに安易に語られるのを見てしまったのだと思う。多民族国家であるし、移民の流入があるから、ヒッピーがいるから、カルトがあるから、大学と言った高等教育機関があるから、アメリカはポスト・キリスト教時代を迎えたのではない。植民初期のピューリタンによるピューリタンのためのピューリタン国家建設という概念自体、かなり無理があるこったのだとおもう。そもそも人間が神から離れていくものである、地上の生活では神と共に居続けることができない、という人間理解というものがどこか理念系、形にはめることで何とかなると思っているあたりがおかしいような気がする。このあたりの事をヤンシー先輩は次のようにお書きである。
     こうした考えに耽りながら、あきらめるような気持ちと闘わなければならなかった。ヨーロッパでは教会の影響力が失われつつあり、底辺に向かって漂流している。どうすれば米国はヨーロッパと同じ道をたどらずに済むのだろう。ますますポスト・クリスチャン化する文化の中で、信仰者はどうすればよいのだろう。
     身を潜め、世から隔絶して自分たちだけでやってゆくのか。それともローマ時代のクリスチャンのように、衰亡しつつある大国に伝道する適切な方法を見つけるのか。
     (中略)チェスタトンの言葉によると、「信仰がすっかり敗退してしまったかに見えた時・・・死んだのは敗退のほうだった。キリスト教は何度も死に、よみがえった。なぜなら、墓を出る方法を知っている神がいたからである」。今、ことばでなく、行動を重視する新しい時代の到来を告げているのかもしれない。(同書 pp.246-247)
     個人的には、5-10年前に、ヤンシー先輩と同じようなことを考えた。ことに、社会の隅々にまで、キリスト教がいきわたっていないものの、キリスト教から派生したものだけがいきわたっており、定着している一種のキリスト教最弱国である日本社会の中で、キリスト者であるとはどういうことか、ということを考えたのだ。でも、ある段階から考えてしまった。それは不信仰かもしれない、と。

     ミーちゃんはーちゃん一人頑張ったところで、どうなることでもないし、神というお方は、バビロンでも、アッシリアでもお用いになることを考えたからだ。ただ、何もしないというのではない。主の祈りにあるように、神のご意思がこの地であることを祈り求めつつ、この地で与えられた場で、神との関係を求めながら、神のご意思に従って生きることが何かを考えつつ(あるいは求めつつ)生きることではないか、と思ったのである。

     まさに、チェスタトンさんが言っておられるとおりである。神は死んだが復活した神であり、そのことを我々は、毎週日曜日、覚えているのではないか。そのことを覚える意味でも、聖餐式は大事だと思うのだけれども。形ではなく、我々はその復活に連なりながら、この地で生きるものとしても。

     

    チェスタトンさん

     ヤンシー先輩は、「今、ことばでなく、行動を重視する新しい時代の到来を告げているのかもしれない」といっておられるが、行動だけにしてしまうと、行動することが目的化するという論理が働き、結果として行動だけが重視されることにもなりかねないので、どちらか一つだけでは駄目なのではないか、と思うのある。ことばと、行動とを併存させ、祈りの中で統合するということが重要ではないか、と思っている。

     まだまだ続く。



    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    ロバート・P. エリクセン
    風行社
    ---
    (2000-05)
    コメント:面白かったです。はい。

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