<< いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(26) | main | いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(28) >>
2016.01.04 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(27)

0

     
    Pocket

    今日もヤンシー先輩がお書きになられた『隠された恵み』からご紹介したい。今日は現代(アメリカ)社会の矛盾に関してである。

    現代社会の矛盾
     この現代に生きるなかで直面する矛盾に関するある詩のようなものが引用されていた。

     ある文書がネット上で広まっている。出所は米国のコメディアンのジョージ・カーリンだとも、コロンバイン高校の生徒だとも、ダライ・ラマだとも言われた。「この時代に生きる私たちの矛盾」というその独白を書いたのは、シアトル近郊に住む引退牧師ボブ・ムーアヘッドだった。

    ビルは高くなったが、気は短くなり、
    高速道路は広くなったが、視野は狭くなった。
    お金をたくさん使っても、得るものは少なく、
    買い物をたくさんしても、喜びは少ない。
    (中略)
    たくさんの学位を持ちながら、思慮に欠け、
    知識が増えたのに、判断力は弱い。
    専門家が多いのに、問題も多く、
    道具は多いのに、満足は小さい。
    (中略)
    たまにしか本を読まず、
    テレビばかり見て、めったに祈らない。
    (中略)
    口数は多いのに、愛することは少なく、
    しょっちゅう嘘をついている。
    生計の立て方を学んでも、人生を学んでいない。
    長生きをするようになったが、久しく人生に活力を失っている。
    この文章は、ネット上の多くの読者の共感を呼んだ。私たちの低級な不満の原因は、科学技術の力をもってしても人間の渇きをいやせなかったことにある、とムーアヘッドは分析している。アル・ゴアによると、「物質的なものの蓄積は史上最高だが、人生に空しさを覚えている人々の数も史上最高だ」。(隠された恵み pp.238-240)

     Mooreheadの写真を探したのだが、なかなか、ない。ジョージ・カーリンのコメディを聞いてみたのだが放送禁止用語だらけなので、紹介しようかと思ったが、やめておこう。どうしても知りたい向きには、YoutubeでGeorge Carlinで検索されるとよいと思う。

     お聞きになるとわかると思うが、確かにシニカルで、批判的なのだが。まぁ、聞いてみたら、確かにこの上記の詩の作者といわれても仕方がないほど先鋭的な感覚を持っていることは間違いない。

     ところで、現代のパラドックスには、いくつかのバージョンがあるようであり、前半部分は基本同じだが、後半になればなるほど、移動が激しい。テキスト文献批評学の練習問題になりそうなほどであった。そのうちの一つブログサイトにあったものを紹介しておく。

    "The paradox of our time in history is that we have taller buildings but shorter tempers, wider Freeways, but narrower viewpoints. We spend more, but have less, we buy more, but enjoy less. We have bigger houses and smaller families, more conveniences, but less time. We have more degrees but less sense, more knowledge, but less judgement, more experts, more problems, more medicine, but less wellness.

    We drink too much, smoke too much, spend too recklessly, laugh too little, drive too fast, get too angry, stay up too late, get up too tired, read too little, watch TV too much, and pray too seldom. We have multiplied our possessions, but reduced our values. We talk too much, love too seldom, and hate too often. 

    We've learned how to make a living, but not a life. We've added years to life not life to years. We've been all the way to the moon and back, but have trouble crossing the street to meet a new neighbor. We conquered outer space but not inner space. We've done larger things, but not better things. 

    We've cleaned up the air, but polluted the soul. We've conquered the atom, but not our prejudice. We write more, but learn less. We plan more, but accomplish less. We've learned to rush, but not to wait. We build more computers to hold more information, to produce more copies than ever, but we communicate less and less. 

    These are the times of fast foods and slow digestion, big men and small character, steep profits and shallow relationships. 

    These are the days of two incomes but more divorce, fancier houses, but broken homes. These are the days of quick trips, disposable diapers, throwaway morality, one night stands, overweight bodies, and pills that do everything from cheer, to quiet, to kill. It is a time when there is much in the showroom window and nothing in the stockroom. A time when technology can bring this letter to you, and a time when you can choose either to share this insight, or to just hit delete...

    中でも、この部分は、現在の社会においてあるあるではないか、と思うのである。特に、高等教育機関に勤めるものとして、以下の部分には、ぐうの音も出ない。こういう学生を量産している高等教育機関というのはどうかと思うが、それでも、アメリカ文化的な大学、マスプロ教育の大学はどうしてもこうならざるを得ない。

    たくさんの学位を持ちながら、思慮に欠け、
    知識が増えたのに、判断力は弱い。
    専門家が多いのに、問題も多く、
    道具は多いのに、満足は小さい。



    Diploma Mill Universityねぇ。

     まぁ、ミーチャンはーちゃんはそんなに学位を持っていないが、それはそれでいいと思っているし、勲章ぶら下げるみたいに学位をぶら下げたところで、不幸な人生を送るとするとすれば何の意味があろうか、と思っている。

    イエスが教えたこととは
     ヤンシー先輩は、ビル・ゲイツ君の発言を出しながら日曜日の意味を次のような一文で問うている。
    残念ながら無宗教の友人のほとんどが、宗教を時間の無駄とするビル・ゲイツの考えに賛同するだろう。「彼は日曜日の朝にできることはほかにたくさんある」と、あるインタビューで話した。人々は教会を、社会に影響を与える変革の担い手ではなく、同じ考えの人たちがよい気分を味わうために行くところと思っている。それはイエスの思い描いた教会とはきわめて対照的である。イエスは、信仰者同士が集う時の振る舞いではなく、私たちがこの世にどう影響を与えるのかについて語った。(同書 241-242)
     この部分を読みながら、ある時クリスマスに誘った知人の発言を思い出した。讃美歌をうたっているのを見たその知人が、「あなたが歌を歌うのが好きだとは知らなかった。今度コーラスサークルにお誘いしましょうか」といったのである。その方にとっては、教会のクリスマスキャロルは、コーラスサークルかカラオケボックスでの熱唱と変わらなかったようである。確かに両方とも歌を歌うことであるが、歌うことの喜びとだけしか映らなかったようである。その意味で、社会の変革の担い手とは明らかに映らなかったようである。まぁ、教会嫌いな方だったから仕方がないのかもしれないが。まさに、ヤンシー先輩の表現を借りれば、「同じ考えの人たちがよい気分を味わうために」歌っている空間であるとしか映らななかったようである。実に残念である。

     教会は、カラオケハウスではない、とかつていった若い友人がいたが、教会を慣れ親しんだ聖歌をみんなで歌うためのカラオケハウスのようなものにしている人々も少なくはないのかもしれない。それは本来的な教会の目的ではないように思うのだが。

     イエスがこの地上を人間と歩いていたときに教会の話をしたかというと、そのあたりはどのような意味で言ったかに関しては検証が必要だと思うし、あるいは極端に記述は少ないが、イエスが信者がどのようなものとなるかに関しては、次のように記録されている。

    【口語訳聖書】ルカによる福音書
     24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
     24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
     24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
     24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
     24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
     24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」
    あるいは
    【口語訳聖書】マタイによる福音書
    28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
    28:17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
    28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
    28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
    28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
    という部分をヤンシー先輩は想定の上で、「イエスは、信仰者同士が集う時の振る舞いではなく、私たちがこの世にどう影響を与えるのかについて語った」とお書きなのだと思う。 確かに、イエスが語ったのは、行動がどうかということではない。別の場所でイエスはこうもお話ししておられる。
    【口語訳聖書】マルコによる福音書
     9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
     9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
     9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
     9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
    語り方がどうだとか、語る内容がどうだとか、祈り方がどうか、とか、自分たちが同じグループを形成するかどうか、一緒に同じように行動するかどうかを問題にはしておられないような気がするのだが、違うかなぁ。ミーちゃんはーちゃんを含めて近代人やポストモダン人の一番いかんところは、目に見える所ばかりに目を向け、相手を排除し合う、斉一化の方向性というのか、そこにばかり関心があることをイエスご自身が戒めておられるように思うのだが。

    この地に拡がる神の国

     信仰は拡がるものであり、教会の中に閉じ込められないものかもしれない。そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のように語っておられる。
     信仰とは、単なる個人的な事柄でもなければ、週に一度、教会で何かを行うことでもない。信仰には、世界中に広がるほどの影響力があるはずだ。イエスは神の国を表現するのに、次のようなイメージを用いた。パン全体を膨らませる一握りのイースト菌、厚切り肉を保存するような一つまみの塩、鳥たちが巣を作るほどの大樹に成長する、庭にまかれたちっぽけな種である。(同書 p.242)
     この話を読みながら、内村鑑三の初期のころの経験を考えた。内村鑑三という人物は、北海道大学の前身の札幌農学校で、神と出会い、自分たちで聖書を読み、聖書に書いてある通りやろうとして、挫折し、自分自身を失敗者として考えるきっかけになる。どうも、鈴木範久先生によると、そのきっかけが、小樽の宣教師たちが内村たちによる洗礼を無効だと言い出したからだったという部分も一部あるらしい。つまり、按手礼を受けた司牧からバプテスマをうけたかどうかが問題になったようである。それが内村の無教会運動の原型にあるということを、NHKの「こころの時代」で、鈴木範久先生はおっしゃっておられたように記憶している。



    内村鑑三先輩

     サクラメント(聖なる儀式)には、意味がないとは言わないし、個人的にはサクラメントをたいへん大事にしたい派ではあるが、それにあまりにこだわり、本来の「神のかたち」を回復するためにイエスが命懸けでこの地上に来た人間を排除するようになれば、個人的にはナンセンスであると思うが、なんだかんだ理由をつけての排除って案外多いかもしれない。

     確かに、信仰者は、日曜日に教会で何かしていることは多い。しかしながら、ヤンシー先輩の言うように、信仰とは、「週に一度、教会で何かを行うことでもない」ように思うなぁ。こういうこと書くから、危険分子扱いなんだろうけど。


    膨らむパンだね


    まだまだ続く





    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしております。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM