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2016.01.02 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(26)

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    福音派のことを書かせてもらえない福音派
     アメリカにおける福音派のメディアにおける状況をヤンシー先輩は次のように言う。一言で要約していけば、「福音派による、福音派のための、福音派に向けての議論しかしない福音派とそのメディア」ということになるだろう。そもそも、社会に影響したいと思いつつ、自己の正当性を認めさせたいと思いつつ、それに失敗している福音派のメディアの実情である。
     信仰を伝える芸術の力については、さらに多くの実例をあげることが出来るだろう。だが同時に、今日の米国において、芸術を通してクリスチャンがどれほどの影響を及ぼしているのか考えずにはいられない。キリスト教の雑誌や書籍につぎ込まれている言葉は、信仰からそれている文化に影響を与えているだろうか。私たちは結局、クリスチャン同士で語り合っているばかりではないだろうか。
     ニューヨークのメディアに身をおくジャーナリストによると、編集者たちはユダヤ人にユダヤの歴史を、仏教徒に仏教徒の話を、カトリック教徒にカトリックの歴史を書かせることに何のためらいもないが、福音派の人々に福音派の話を書かせることはないという。なぜだろう。「彼らには下心があるのです」(p。221)
    まぁ、こういう対応を受けるのはしょうがない面があるよなぁ、という気がする。「キリスト教の雑誌や書籍につぎ込まれている言葉は、信仰からそれている文化に影響を与えているだろうか。私たちは結局、クリスチャン同士で語り合っているばかりではないだろうか」それも社会でほとんど通用しないことを前提としながら。社会に通用しない外国語を、しゃべっているようなものだから。

     アメリカの法廷ドラマとか、警察内幕ものを見ていると、ときどき、わけわからん業界用語や若者用語とかでしゃべっていると、”In English?”とかという表現が出てくるが、まさにそんな感じではないか、と思う。



    業界用語、短縮語が多く利用されることを揶揄した漫画

     まるで、ガリバー旅行記でのラピュタ国住民(オリジナルでは数学者を揶揄したとされる)やフウィヌム国の馬の種族ような生き方をしているのかもしれない。尚、天空の城ラピュタは、ガリバー旅行記のラピュタをモチーフにしている。要するに宙に浮いた人々なのだ。そして、地に住まない、地に根を下ろさない人々なのだ。多くの米国の福音派のクリスチャンたちは、天空の城ラピュタにお住まいなのかもしれない、ということをヤンシー先輩はご指摘しておられるのではないか、と思った。



    ラビュタの図

     個人的には、福音派の一員として、私個人が地に落ちるために地に降りるためにバルス祭りをやってみたい。個人的には、福音派向けの飛行石のペンダントがないものか(あるわけがない)を探している。


    バルス祭りの記録

     大学人がたちが悪いのは、自分たちだけで使われるJargon(ジャーゴン)という業界用語を使いこなすことに慣れきっていてしまっていて、業界用語を使えないと一人前でないとしたり、それを知らないと何か問題があるとしてしまうことである。まぁ、自分の授業では教えているので、それを知らないで師がいると、それだけで問題なわけで、その環境に慣れ親しみ過ぎていて、一般人には業界用語や短縮語が使えないということを忘れていることが多いのだ。あるいは、それを知って使いこなせることを一人前と勘違いしている人が多いのだ。

     これはネットスラングでもよく起きる。それだけではない、軍隊でも起きるのだ。その例を紹介したい。以下はGood Morning Vietnumというロビン・ウィリアムスが主演した映画であるが、この中で、VPといわれているのは、Vise Presidentの略語で、最後のほうにその略語しゃべりを揶揄するロビン・ウィリアムスが出てくる。



     また、以下のプレゼンテーションでは、どうやったらプレゼンでまったく意味のないことをいいながら、しゃべり方だけでかしこく見せるか、ということをやって、こういう略語しゃべりや業界用語しゃべりのナンセンスさを示している。


    ナンセンスなことをいいながら、賢く見せる方法(字幕付き)

     その意味で、福音派の人々は一生懸命話していながら、ほとんど人に到達していない現実を多少は感じながら、一生懸命話すことに熱心になるあまり、お話しすることが多いのではないだろうか。個人的にこの種の経験を教会でしたことが多い。

     これって、第3種の過誤だと思うなぁ。つまり、間違った問題を熱心に解くことで、本来試みたい適切な問題を解いた気になるという過誤ではないかと思うのだ。本来取り組みたい問題は、聖書の言葉を人々に届けるナのにもかかわらず、すなわち人の心に届かないのに、届く方法を考えずに、ひたすら言葉を重ね、長く語ったりすれば届くのでは、という現実対応をすることである。こうなると、なおさら人は聞かなくなる。キリスト看板も似たようなところがある。その結果、こういうフォトショ遊びされてしまうのかもしれない。


    キリスト看板のフォトショされてしまった例

     つまり、いい切りばかりで対話しようとせず、自分たちの言葉だけで、自分たちがさぞ語った気になって、自分たちだけの内輪のネタになってしまっている例があまりに多過ぎて、個人的に残念だなぁ、と思っている。まぁ、アメリカのメディアでもそういう例は多くみられるが。アメリカ大統領選挙の今年の論戦なんか見ててもそんな気がする。以下はそれを揶揄するTonight showの番組のワンシーンである。


    Tonight show

     しかし、福音派にマスメディアが書かせたがらないのは、「かれら(福音派)は下心があるから」ってのがすごいよですねぇ。

     そら、まぁそうだわ。リベラルの権化みたいに普段はディスリまくって、否定している同志社創設者の奥さんが連続テレビドラマで取り上げられると、とたんに仲間のようにいい、普段は、カソリックと否定しているのにもかかわらずテレビで取り上げられた瞬間にマザー・テレサを連れ(お友達扱い の関西表記)扱いとか、ってホンマありえんやろ、と思う。竜馬電が取り上げられると、坂本竜馬が聖書を読んだとか、西郷隆盛が聖書読んだとか、ってすぐ自分たちの遠縁の親せき扱いに近い扱いとかって、口で言うなら口だけ番長やから、まだ許せるけど、そんなん、もっと戻って、漢訳聖書読んだ陽明学者とか、漢訳聖書読んだ新井白石とか、出したれよ、とか思うけどなぁ。

    使い方違う(キリシタン対策)から白石君はダメ」って?

    でも、読んだのは読んどると思うけど。

    自分の物差しでの行動を他人に強要する人々
     結局、クリスチャンがうっとうしいのは、以下で示されている自分たちの理念系を他人に押し付けてしまうところというのか、排除の思想が働くことだろう。自分たちがやっていることをあまりに聖なるものとするあまり、排除原則が働いてしまうのかもしれない。
     クリスチャンの影響力が弱い理由は政府と同様、組織としての教会が芸術家を信用せず、支配しようとするからだろう。英国のピューリタンは、ヘンデルのメサイアに反対した。それはこの作品が世俗の劇場で演奏され、クリスチャンでない楽団やソリストたちを雇っていたからだ。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の絵をかかせた教会は、のちに人を雇ってその裸体画に服を着せた。(同書 pp.222)
     しかし、ミケランジェロ作に服を着せた人がいる話は初めて聞いたが、こういうPTA協議会的な体質というのか、芸術を解しない体質とかいうのは、実に残念であると思う。一応、こういう方々のために以下の2枚の絵を掲げておく。


    裸のマハ


    着衣のマハ

     まぁ、こういうPTA協議会の方の物言いのようなことは洋の東西を問わず、たびたび起きる。まぁ、いいたい方はお好きに言っていただいていいと思う。それを含めて、言論の自由が意味があることだと思うからだ。それも一つの価値観である以上、その存在は尊いものとして尊敬したい。同意するかどうかは別として。

     クリスチャンだけで制作したと称するCGアニメのクリスマスアニメビデオで以前ひどいものを見たことがあるが、まぁ、実にひどかった。まぁ、劣悪なDisneyの模造コピーという感じであった。

     ところで、以下でご紹介する事例もモダンアートとして評価するという方法ああるとは思うが。要は、その書かれたものが問題であるというよりは、その奥にある何かをどう見るか、それとの関係をどう考えるのか、ということが大事なような気がするのだが。

     個人的には、好き嫌いでいえば、修復前のほうが好きだが。




    鼻息の荒いクリスチャン兵士たち?

     ヤンシー先輩がお書きになった「政治的正当性を前進させようとする“クリスチャン兵士”たちの鼻息は荒い」という文章を読んだ瞬間に笑いが出てしまった。まぁ、現代文化に対しての橋頭保というのか、下の動画のように、近寄るものを壊滅させるような籠城作戦している感じで生きておられる方も、鼻息の荒いクリスチャン兵士の皆さんのなかには生きておられる方もおられるのかもしれない。


    The Economistさんのサイトから
    芸術家たちに制約を押しつけることによって、教会は取り残された文化にさらに壁を張り巡らせている。政治的正当性を前進させようとする“クリスチャン兵士”たちの鼻息は荒い。30年前の『クリスチャニティー・トゥデイ』誌に乗った妊娠中絶に関する記事は、今だったら載せることはできないだろう。(中略)バラク・オバマに好意的なスピーチをするキリスト教指導者は職が脅かされる。トニー・カンポロの講演が予定されていたが、彼の妻の同性愛に関する考えが原因で中止になる。(同書 pp.222-223)
     おそらく、クリスチャン兵士という語は、Onward Christian Soldiersという讃美歌からきていると思う。以下にいくつかのバージョンを紹介しておきたい。



    聖歌の名曲 We are Christian Soldiers 


    これくらいのんびりだといいなぁ このノリがたまらないが、写っている人に高齢者が…



    こうなってしまうと、ちょっと整いすぎて怖い。

     他人を自分の思いのほうに誘導しようとしたり、自分たちの主張のみをガンガンというようなキリスト教って、屋だなぁ、と思う。まるで、南朝鮮が北朝鮮に向かってプロパガンダ流すようなものだと思っている。

     日本だと、漫画は駄目、アニメは駄目、ハリーポッターは駄目、ロックは駄目、エレキギターは駄目、ダメ、だめ、駄目、と言い続ける人たちみたいなものか もしれないと思う。まぁ、そういう方は、江戸時代のちょんまげをつけて現代の日本をお歩きになるとか、平安朝のなりで日本をお歩きになるとか、されればよろしいのではないか、と思う。尚、鳥獣人物戯画は世界最古の日本が世界に誇る伝統文化遺産の一つだと思うけど。マンガを否定し始めると、下手をすると、貫頭衣を着て歩くことになるかもしれない。とはいっても、銅鐸の表面にマンガがあるような気もするが。


    鳥獣人物戯画


    貫頭衣


    銅鐸の表面

     しかし、「バラク・オバマに好意的なスピーチをするキリスト教指導者は職が脅かされる」ってバラク・オバマってアメリカの大統領じゃなかったんですかねぇ。まぁ、民主党の大統領は、アメリカ人じゃないみたいなこといわれ続けたしなぁ。

     まぁ、どこにでも自分と意見を同じくしない人には、嫌なことをいう人はどこにでもいる。それにしても、Tony Canpolo先輩の講演会が中止される、ってそうまでしまないと気が済まないって、スルー力低過ぎ。そこまで嫌いなら、スルーして黙殺すれば済む話のような気がする。

     個人的には聖なる鈍感力が常々ほしいと思っている。どっかに売ってないだろうか。



    トニー・カンポロ先輩

     あと、一言言っておくと、政治的正当性と訳したんでは、もともとの言語の意味は通じないと思う。これはアメリカ社会の用語で、Political Correctnessであり、自分たちが正義、正しいと思うことを政治的に利用し、社会に普及させようとするような動きであり、すべての事を政治的アリーナで考える米国人故に起きる読み替え、言い換えの背景などにもある原理である。まぁ、どうでもいいことだけど。


    Political Correctnessに関するマンガ

    文化戦争に身構えるクリスチャンたち
     ヤンシー先輩は、芸術家の著作権管理のエージェント(ここでは代行業者とされているが、エージェントというのは、法的な代理権を持つ一種のマネージャー的存在であり、引っ越しの代行業者や個人輸入の代行業者とは違うのだが…)の言葉を紹介しながら、クリスチャンの芸術家に対する扱いのひどさを言っておられる。


    Jerry Maguire (スポーツエージェントの代理人に関する映画)

     どうも、キリスト者の心の狭さが表れている部分として、自分たちのいいたいことを理解させるための手段として表現芸術を作っているということを言っていることがおもしろい。
     いろいろな芸術家の著作権管理をしている代行業者はこういった。「私たちにとっての大きな障壁は、教会によって作られています。非常に多くのクリスチャンが、理解させたいメッセージを偽装する手段として芸術をとらえています。彼らは芸術家を、劣った説教者や護教論者のような存在とみなしています。」
     語れば語るほど、彼女のことばは熱を帯びていった。「多くのクリスチャンが、芸術家の声に耳を傾けることを恐れています。それは芸術家のライフスタイルや、芸術家が関心を向けているものを嫌がっているからです。神は人生に関与などしないとする希望のない人生を知っているクリスチャンは、共感や思いやる気持ちを持つ代わりに、正しく人生を送れているか、だれが間違っているかという競争に身構えているのです。」(同書 p.224)
     なにより、すごいのは「神は人生に関与などしないとする希望のない人生を知っているクリスチャンは、共感や思いやる気持ちを持つ代わりに、正しく人生を送れているか、だれが間違っているかという競争に身構えているのです」って、この女性エージェントの言葉は痛い。もし、神は人生に関与しないのであれば、祈る必要も、この地に生きる必要もなく、ハンソロのように、カーボンフリーズされたほうがよほどましなことになるのではないか。

     そうであっても、「正しく人生を送れているか、だれが間違っているかという競争に身構えている」クリスチャンって、うっとうしくはないだろうか。こういうのを読むと、まったく、聖なる鈍感力というか、聖なるスルー力を持ちたいものだと思う。こういう、だれが間違っているか競争に勤しむ方々の聖書には、まさにイエスがおっしゃったことが抜けているのではないか。
    【口語訳聖書】マタイ福音書
     7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
     7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
     7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
     7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
     7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
     まぁ、芸術家の方々のほうでも、その辺はよくわかっていて、その辺うまくやりながら自分の思いを遂げようとした人々の一例として、面白い映画関係者の伝記映画として以下のような映画がある。

     バプテスト教会から資金提供を受けて作られたPlan 9 from Outer Spaceって典型的に終末を描こうとして作ったけど、完全に別物になった映画であるし、この映画の製作の背景は、ティム・バートン監督、ジョニー・ディップ主演のエド・ウッドをご覧いただきたい。芸術家(映画監督)の方がクリスチャン側をだまして、自分の作りたい映画を作っちゃった例であるけど。



    エド・ウッド監督作品 Plan 9 from Outer Space


    ティム・バートン監督、ジョニーディップ主演 エド・ウッド
    1分30秒あたりから、映画の資金調達のためのバプテスマのシーンが出てくる。

     まだまだ続く


    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしております。

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