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2015.12.30 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(25)

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     今日も、フィリップ・ヤンシー先輩の「隠された恵み」の記載をもとに考えてみたいと思っている。今日は芸術と実際に地に平和をもたらす人々の話である。

    それぞれに役割があるかも
     人それぞれ同じではない、それぞれ独特の神のかたちに作られているということは、本ブログで[『耳たこ』のように語ってきた。芸術家には芸術家の役割があり、著述家には著述家の役割があり、サーバー技術者にはサーバー技術者の役割と価値がある。電子ものというだけで毛嫌いする教会の信徒さんがいて、ミーちゃんはーちゃんはそもそも電子計算機の技術屋という側面もあり、いまだに必要に応じてプログラムを書く人でもあるうえに、こういうブログとかで好き勝手言っているので、ある教会の中では胡散臭いことをしている人物という、うわさを流していただいたこともある。まぁ、それはそれでいいと思っている。
     取材旅行に出ると、第6章で触れたような、袖まくりをして重要な問題に取り組んでいる活動家たちに出会う。彼らは私の信仰を高揚させ、神の国の重要な仕事を思い出させてくれる。それでもやはり私の役割は、彼らのことを書くと言う代役のようなもの。彼らは前線で働き、私はパソコン画面上の電子を動かしながら時間を過ごす。電子を操り、単語や文章を生み出し、いつかそれによって誰かとつながることを願っている。(隠された恵み p.203)
     人によるとは思うが、基本、ブログを書いていて思ったことは、このブログのように、便所紙への落書きのようなものでしかないものでも、予想以上の広がりがあるのだなぁ、ということである。このブログを書いていなければ、『福音の再発見』は出ることはなかったし、また、カレドニアさんからや、ひかるさん、最近ではマーレーさんからコメントをいただくことはなかったし、また、様々なキリスト教のからだをなす人々とのコイノニアというか、関係性も生じなかったように思う。それと、自分の考えたことについての忘備録になっている。そんなものでもご清覧いただいている皆さんには、申し訳なく思う半面、ありがたく思っている。まぁ、考えたことを介して、多くの方とつながっていることを想うとき、そして、そもそもはつながることができなかった方々とリアルでつながれたことを想うとき、やっていてよかったと思うことは多い。

     ヤンシーの原文を見てないので何とも言えないのだが、「電子」という語が違和感があった。恐らく電子部品とか、電子機器と訳した方がよかったのではないか、と思う。おそらく、

     私はパソコン画面上の電子部品(LED端子類)を動かしながら時間を過ごす。電子機器(CPUやハードドライブやマザーボード)を操り

    とした方がよかったのではないか、と思う。ヤンシーの原文では、Electronicsではなかったか、と思うのだ。まぁ、どうでもいいけど。

    芸術の持つ意味
     個人的には、アートは、実際に創ったりするより、見たり、聞いたりする方がうれしいタイプであるが、作るほうも大人になってからも少しは絵を描くことや工作をしたが(子供が幼稚園児だったころに、長女の幼稚園の劇で見た白雪ちゃんに毒りんごを進呈する際に、毒りんご作成用の魔女の壺がほしいといわれ、自作したことがある)、基本、あんまり才能がないのはわかるので、最近はあまりやっていない。下手ではあるが好きである。

     ヤンシー先輩は、芸術の信仰に与える意味ということに関して、次のようにお書きである。
     それでも現代、とくに「ポスト・クリスチャン(かつてクリスチャンだった人々)」にとって芸術は、信仰に惹きつける力が強いかもしれない。より繊細な次元で思いを表現する芸術は、人々の警戒心を解き、渇きに気付かせる。 (同書 p.204)
     ここで、信仰に惹きつける力とヤンシー先輩は言っておられるが、信仰の世界を思い起こさせるトリガー(あるいはキッカケ)という方が正確ではないか、と思う。以下に、いくつかのそれぞれの文化に定着した最後の晩餐のシーンをあげておきたい。


    伝 山下りん作 最後の晩餐



    台湾にあるらしい最後の晩餐図 ふぎさやかさんのツイートから



    ルーベンス作 最後の晩餐


    アフリカンアートによる最後の晩餐


    エチオピア正教の最後の晩餐のイコン


    南米の近代絵画風の最後の晩餐


     こう見てみると、実に多様な構図と実に多様な文化を背景とした表現法で聖餐式の原型である最後の晩餐を表現しており、多様性がありながらも、一つの神にあるコミュニティとコミュニオンという対象とそれが意味するものをそれぞれが、象徴していることがよくわかる。
     
     ところで、世の中には多くの恋愛歌がある、民謡、演歌からポップス、クラッシック、フォルクローレ、実に多様な表現方法で、恋愛歌を歌う。なぜ、人は恋愛歌を歌うのであろうか。それは、根源的に人間の心の奥底に、渇きがあるからなのではないか。どうしようもない欲望があるからのような気がする。つまり、人間は、他者を愛するものとして招かれていることを男女という根本的に違う他者を愛し合うということの中に、単なる快感や刺激で終わらない何かがあると思わせるからこそ、人は恋愛歌を通しても、自分たちが何者であるのかを語っているようにも思うのだ。雅歌があるのはそのためではないか、とも思う。
     芸術は文化を代表して福音を語りかけているが、信仰者たちから無視されてばかりいる。N.T.ライトによると、芸術とは、「現実の中心部に直接入り込める手段だ。芸術は、芸術以外の方法では決して垣間見ることのできない、まして理解することなどできないものを見せるものなのだ」。(同書 p.206)
     ここで、ヤンシー先輩が引用しているN.T.ライト先輩の芸術に関す記述は、非常に重要だと思う。ある面、藤本満先輩の最近の近著の記述ではないが、理性では理解することのできないものである神と我らの関係を見せている芸術もあれば、それが表現されているのが、聖餐式をはじめとするサクラメントであろうと思うのだ。


    社会に異議申し立てする芸術
     個人的には、パンクロックやヘビーメタルを聞いたりはしないが、1960年代以降を振り返ってみても、音楽で異議申し立てをした例は多い。あるいは、絵画でも意義申し立てをした例もかなりある。そのあたりの事に関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。

     突き棒は、農夫が雄牛を追い立てたり、操ったりするために使うものだ。それは動物、あるいは人間に不快感を与え、棒で突かれなければやらないようなことを行わせる。歴史を顧みれば、芸術がその突き棒として用いられた例をみることができる。それらの多くは国家を揺るがしている。
     (中略)
     絵画のような視覚芸術も独裁政権の神経を逆なでする。ファシストの将校がパブロ・ピカソに、「お前があれを描いたのか?」と怒鳴りつけ、市民を標的にした空爆を描いた巨大な絵画「ゲルニカ」の写真を指さした。「いや、あなたたちだ。」ピカソはそう答えたという。彼は40年後にスペインに民主主義が戻るまで、海外でこの「ゲルニカ」を大切に保管した。(同書 p.208)
     そもそも、フォークなどは、異議申し立ての歌が多い。以下にその実例をご紹介したい。一種反体制的な、社会の体制に反対するタイプの歌が多い。


    PPMの500 Miles


    1960年代の反戦歌 自衛隊に入ろう (一時期は放送禁止歌でした) 




    お寺に入ろう(自衛隊に入ろうの替え歌 坊主バンドさんで)



    Pete Seegerで花はどこへ行った



    ヘビメタ系反権力ソング

     絵画の場合でも、一種反体制的な絵画表現はあるし、それまでの社会の価値観に挑戦した作品はかなり多い。従来の価値観や世間の常識に絵画という手段で挑戦してきたことは間違いない。新しい表現法を試みたり、新しい価値観を表現しようとした場合が多かったのである。


    ゴヤの裸のマハ


    ダリの絵画 記憶の固執


    ゲルニカ


    メキシコの反体制のフォルクアート


    預言者と芸術家
     先にも述べたように、芸術家は、社会の在り方に芸術を通して異議申し立てをした人々であることもある。あるいは、社会の中にある不正に対する異議申し立てが芸術を通して行われることもある。それは見過ごされることが多い。アメリカなどでの壁面に行われるグラフィティなどはその典型かもしれない。また、このためのポスターも政治団体や政府により多用される。


    中国の文化大革命時代のポスター



    最近の自衛官募集のポスター


    京都府の国勢調査のポスター



    神戸市と攻殻機動隊のコラボポスター

     このあたりは、最近では、あまりに当たり前ではだれもポスターに注目してもらえはしないので、かなり従来にない画像と内容の組み合わせが用いられることがある。そのような意味で、これまでにないという形で、インパクトの強さを追求しようとすると、ときに一般の許容範囲を超えることがある。一般の許容範囲を超えることで、主張をあえて強く表現したい為に限界を超える方法での表現を試みることがある。しかし、そうでもしても誰も振り返ってくれないというのはあるからではあり、一種預言者も経験するのと、同じように無視されることは、芸術家が経験するところである。
     芸術の世界にいる多くのクリスチャンが、社会のわき腹につ希望をくらわそうと奮闘している。私は彼らを称賛し、ときどき自分も参加する。先の例が示しているように、変化を促す芸術の力を過小すべきではない。しかしそれでも、私は突き棒としての芸術の限界を知るようになった。旧約聖書が預言者たちについて多くのページを割いているのは、若干の例外はあるものの、彼らが見事なまでに無力だったからだ。(同書 p.210)
      確かに社会の人々の意識を変革したり、社会から反発されたり、理解されなかったり、まったく売れない芸術が多い。ごくまれに社会を誘導したりする芸術もあるが、大抵の場合は、そういうものではないことが多いようである。

     預言者は、その人生をかけて神のことばを語るのだが、しかし、その人生の最後がろくでもないことが多い。協会などでは、その預言者や旧約の指導者の立派な側面のみが語られ、その人物の困った側面は語られないことが多い。

    内部から崩壊する政治権力
     個人的には、だれが政治権力というものを振り回すかには、あまり関心がない。嫌なことではあるが、所詮そのようなものは一時的なものであると思っているし、それの動きに一喜一憂してもしょうがないが、一応個人の主張は言わせてもらえるとうれしいと思っている。これまで、多くの政権が崩壊したり、崩壊を期待したり、期待されつつも堕落していった挙句崩壊した事例は世界の歴史上に結構多い。

     そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    文学者や芸術家を弾圧した側が結局その力を失ったと言う話は、今日のロシアや東欧のあちこちで聞かれる。神を抹殺しようとしたイデオロギーが逆に自滅する結果になったのだ。西側諸国も、繁栄と自己中心主義では人間の必要を十分に満たせないことに気付くであろう。いつの日にか、星が消滅するときの様に文明も内部から崩壊し、知的道徳的な空しさに陥り、別の声がフライ・ルイスの言葉を繰り返すかもしれない。「昨日申し上げましたように…」と。(同書 pp.215-216)
     芸術家を弾圧した近代史の例では、旧ソビエト連邦共和国やナチスドイツ(退廃芸術排斥運動)、崩壊してはいないけれども変質した例に日本のご近所にある共和国などさまざまある。繁栄と自己中心主義で変質していった政権では、文明は崩壊しないもののアメリカのニクソン政権があるだろうし(あれは衝撃的であった)、ベトナム戦争の敗退以降のアメリカの知的道徳的な空しさは、アメリカ社会では、基本的にリーマンショックでピークを迎えたように思う。そして、多元的な世界観の前で呆然として立ちつくし、これまでの主張を相も変わらず叫び続け、現実を批判するも、現実の変化に対応しかねている教会からは、沈没する船から船員がどんどん逃げ出すように、逃げ出しているのではないか、ということを、Rachel Held EvansのSearching for Sundayは豊かに物語っていたと思う。

     以下では、冷戦期の米ソ関係とそれに関与し、自らの欲望で自滅した人の伝記的映画をご紹介したい。



    ハドソン川のモスコー


    ニクソン


    Frost Nixon

    崩壊の灰燼の中から立ち上がる希望
     戦争や破壊あるいは革命は、人々に悲惨を絶望をもたらす。多くの血が流され、凄惨が社会の背景となる。しかし、戦後の灰燼の中、雑草がいち早く目を出すように希望が立ち上がってくる。痛む人々に慰めを与え、希望をこれまで宗教が与えてきた部分があったように思う。そして、そこで流される音楽というのは、非常に重要だと思うのだ。

     このあたりの事に関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    1989年、チェコスロバキアで共産主義が崩壊したとき、プラハの聖ヴィート大聖堂でお祝いした。(中略) そしてアントニン・ドヴォルザーク作『ミサ曲ニ長調』と『テ・デウム』(訳注・キリスト教の聖歌の一つ。冒頭の一文に”Te deum laudamus”(われら神であるあなたを讃えん)に耳を傾けた。チェコフィルハーモニー管弦楽団の演奏によるその古の礼拝の言葉は、自由という素晴らしい贈り物を讃えるのに最適のように思えた。ナチと共産主義者による抑圧を生き抜いた90歳のプラハ大司教と新たな独立国家の大統領に選出された元住人のハヴェルとが肩を並べて座っていた。(同書 p.220)
     自由祈祷というか、非定形祈祷がダメだというつもりはないし、非定形祈祷が優れているということも思わない。しかし、定形祈祷には、定形祈祷の絶望の中から立ち上がらせるというえも言えぬ強さがあるように思うのだ。固定されているがゆえに、最後まで残るものとでもいおうか。絶望の中でもその言葉を口にできるといおうか。

     一番最初にこのことに気づいたのが、DieHardの中で、主人公の別居中の奥さんが飛行機の着陸姿勢についているときに詩篇23篇、「主はわが羊飼い・・・」を祈っているシーンであった。

     ある面で言うとなじんだ讃美歌、あるいは広く知られている賛美には、これと似た側面があるように思う。

     個人的には、お笑い好きでありながらも、時にミサ曲を聞く根暗人間になることがあるが、ミサ曲は嫌いではない。なぜかというと、ミサ曲は悲しみから回復する希望が込められている曲が多いからである。悲しみを悲しみで終わらせない強さがあると思うのだ。それこそ、絶望の中にあっても神がその絶望を共にされるという神の存在と、神ご自身の存在が生み出す一条の光のような希望といおうか。まさに、ローマ帝国の支配と僭主ヘロデの二重支配の中で苦しむ民の中に歩まれた希望の光としてのナザレのイエスの存在を思い出すことができるからかもしれない。






     なお、ご関心の深い皆さんのために、こちらで、ドヴォルザークのミサ曲と、テ・デウムをひらっておきました。よろしければどうぞ。

    アントニン・ドヴォルザーク作『ミサ曲ニ長調』




    ドボルザーク作 テ・デウム

     いまで丁度半分くらい

     まだまだ続く




     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしております。

    評価:
    スコット・マクナイト
    キリスト新聞社
    ---
    (2013-06-25)
    コメント:中の人が言うのもなんだが、非常に良いと思います。

    評価:
    W. ブルッゲマン
    日本キリスト教団出版局
    ¥ 3,024
    (2014-04)
    コメント:預言者の意義を示す良書

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