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2015.12.26 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(23)

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     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介しながら、考えたことを書いてみたい。

    福音派の名前、捨てます?

     ヤンシー先輩の本の中で、ある人々が、『福音派』という悪名にまみれたラベルを捨ててはどうかということに関して次のように述べておられる。ミーちゃんはーちゃんは、他派から張られたラベルを使わない、使いたくないという路線を通し、さらには、そもそも聖書の中にある語をギリシア語の原点に戻り、自分たちの教会の名称として使っているのである、と主張してきた派の中で育ってきた(ある時期まではそれでいいとミーちゃんはーちゃんも思ってきた)が、どうせ、使うのであれば、似たようなごではなく完全に別の語か原語を使えばいいのに、と思ったことがある。唯名論に立っているというのなら、いざ知らず、一種の記号であるものにそこまでこだわる理解が今考えるとよくわからない。

     余談に行きすぎたが、福音派だってラベルである。このラベルにどう対応するかに関して、ヤンシー先輩は、次のようにお書きである。
     福音派という言葉を放棄するべきだと考えている友人がいる。しかし、私はこの名前を保持して、その真の意味にふさわしい生き方をするほうがいいと思う(ギリシア語のエウワンゲリオンは「良い便り」や「良き知らせ」を意味している)。(『隠された恵み』p.183)
     要するに、「夕焼け番長」ならぬ「言うだけ番長」としてではなく、本当の神の実力を持っているものの姿として、如何に不甲斐なかろうとも、多くの人々の前に神の御姿に愛されたものとしてのすがたをさらすということが大事なのだろうと思う。




    「あぁ、こんな情けない人たちでも、神は愛したもうのだ」ということや「あれでキリスト者なのは、キリスト者でなければもっとひどいからかもしれない」ということを示すほうがよいのかもしれない。ゆめゆめ「自分の努力や自分の信仰で他者の模範になってやろう」とか思わないほうがよいのかもしれない。ミーちゃんはーちゃんは自分自身を見ているからよくわかるのだが、ミーちゃんはーちゃんはそんな風に。人間性が高尚にできていない。

     まぁ、ちびマルコちゃんの丸尾末男君のようなことを、おやりになりたい方は、どうぞ勝手におやりになっていただけたらいいと思う。個人的には、ちびマルコちゃんの山田君のようでありたいとは思う。


    ズバリ、神経症的な丸尾末男君


    能天気な山田君

     ところで、名称についていえば、個人的に福音派の名前を捨てて、別の名前を名乗ったところで、今度はその後にその名前が手あかにまみれたラベルになるだけだから、別に何といったって構わないと思っている。「そんなの関係ねぇ、はい、オパピ〜〜〜」と言い切るぐらいでよいのではないか、と思っているのである。所詮、ほかの人が付けるラベルにすぎないからである。


    懐かしの小島よしおさんの「そんなの関係ねぇ」3連発で
    しかし、オパピ〜〜にOcean Pacific Peaceという由来があったとはしらなんだ

    福音をリアルにこの世にもたらす運動と福音派
     以下にセツルメント運動という語が出てくるが、Jim Wallis(ジム・ウォリス)先輩などのいわゆる「福音派左派」と他者からラベルが貼られ、他者からそう呼ばれる人々は、この種の運動に関心が深い。Jim Wallisおじさんについては、このブログでふれたこともある。


    Jim Wallis先輩

     何よりも、このセツルメント運動的な概念を考えるのであれば、最下部で紹介するラウシェンブッシュの本『キリスト教と社会の危機:教会を震撼させた社会的福音』の本を避けて通れないと思う。実際にこの本を書いたラウシェンブッシュというオジサンは、今から100年ほど前のHell's Kitchenと呼ばれるろくでもない地区で、憐れみの心から、セツルメント運動のような運動を起こした人物である。



    1959年当時事件後にHell's Kitchenでパトロールする制服巡査
    NYTimesの記事から


    ラウシェンブッシュ先輩

     あるいは、日本的コンテキストでは、『死線を超えて』という書物に、賀川自身の考え方が書かれていて、非常に印象深い。賀川をどう理解するかは案外神学的にも、社会思想史的にも簡単ではないが、個人的には非常に印象深い人物のお一人である。


    賀川豊彦先輩

     賀川のセツルメント運動風の運動の由来をもうちょっと見極められればいいなぁ、と個人的には思っている。まぁ、ヤンシー先輩が以下でお書きのような福音派の人々の思いと似たような素朴な信念により賀川先輩の働きは、はじまったものであろうとは思うが。
    福音派の人々は、1880年代に英国で始まったセツルメント運動を再現して都市の貧困地域に移り住み、低所得者のための暮らしを助けている。彼らはホームレスのためのシェルター、依存症患者のためのプログラム、妊婦のためのセンターを設置している。そうした行為が「御国が来ますように。御心が点で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:10)というイエスの祈りへの実際的な応答である、と信じているからだ。(p.186)
     アメリカで住んだのが大都市(SeatleやLos Angels)ではなく、その周辺にある郊外都市みたいなちょっとお上品な都市に住んでいたが、ある時、大都市の中心部のある地区に迷い込んでみたら、店という店、全部鉄格子がはまっていて、見た目瞬間、えらい物騒な地区だと思ってあわててそこから一目散に脱出した記憶がある。ある面で、このような地区に住むということは、生身の体を無防備にさらすことである、と思う。

     ところで、ミーちゃんはーちゃんが80年代に学部の時に勉強したアメリカ史の先生は、70年代のヒッピー文化の雰囲気を残す先生で、その先生が教えてくれたことで、今でも守っていることが一つある。数日ならいざ知らず、数週間滞在するなら、「日本から服は持っていくな、現地ですぐに買え」という教えである。なぜか、というと、現地で服を買うのが現地化する、現地のコミュニティに溶け込むうえで、一番いいし、現地のコミュニティに同化していれば、強盗などに襲われるリスク(それでもリスクは残るが)が減少するよ、なぜならば、ことばを発しない限り区別がつかないからだよ、ということを教えてくれたのであった。

     日本に来るアジア系の外国人の皆さんのファッションをご覧になられればすぐわかることであるが、朝鮮半島から短期旅行に来られた方や大陸から来られてまもない方はすぐに見分けがつくし、台湾から来られた方も、服装である程度見分けがつくだろう。どことなく違うところに、文化が微妙ににじみ出てしまうのだ。

     日本のキリスト教が、外国を激しくリスペクトしているうちは、それがどこかに出てしまう。どこかで、外国のにおいがすることを意識していなくても、それがどこかに出てしまうのだ。その意味で、日本にとって、本質的部分を残しつつ、日本社会に溶け込むか、セトルメントを作るのか、というあまりやさしくない問題が横たわっているように思うのだ。

    キリスト教と社会

     キリスト教の日本への影響ということがある型のFacebookの投稿でいろいろ話題が提供されたことがあった。はたして、日本にキリスト教は影響したのか、ということの話題が提供されたが、まぁ、多少は影響していると思う。

     たとえば、少なくとも、クリスマスはプディングを食べる日ではなく、ケーキを食べる日ということは、キャバレーのおねえせん方がはやらせたらしい。このケーキを食する日とするということについて、おじさま方へのすりこみが相当効いたようである。その上に、お菓子屋の陰謀により、完璧に日本社会で定着したものになっている。また、この日はケンタッキーを食べる日ということは、なぜか日本の肉食文化の中に定着もした。

     アメリカでも、同じようにアメリカの地上波放送では、素晴らしきかな人生を見る日、あるいはテレビの前で、フットボールを見る日になっている。別の定着した事例では、またまたヴァレンタイン先輩の日は、チョコレートを贈る日として定着してしまったし(大体、チョコレートが普及するのは、18世紀ころからであり、そもそもヴァレンタイン先輩はチョコというものを見たことすらなかったと思う)、結婚式は、牧師のふりをするコーカシア系の人々によるアルバイトの人々によって司式され、それも聖餐式もバプテスマも、葬儀も行われたことがなく、墓地が教会敷地の中にないなんちゃって教会で実施されることも増えた。

     結婚式教会といえば、最近一番笑ったのは、St Morganという結婚式場教会が神戸にできたことである。St Morganってひょっとして、ペラギウス先輩じゃん(先輩呼ばわりはちょっと避けたいところだが)。


    神戸にあるSt Morgan Church

     まぁ、ほかにも、キリスト教の日本社会への影響は、妾の存在の否定とか、貞潔とか、倫理とか、医療とか、学問とか、まぁ、キリスト教が持ち込んだものは少なくない。まぁ、美しい日本を取り戻したい皆さんには、それが気に入らない方もおられるのかもしれないが。まぁ、キリシタンが葬儀をしたりするまでは、日本社会は、行き倒れの野ざらしの遺体が雨ざらしというのがデフォルトでもあったらしいし。京都の轆轤町の由来はちょっと怖いものがある。

    2010年、社会学者ジェームズ・ディヴィソン・ハンターが『世界の変革』(原題 To Change the World)という本を出版した。彼は本の最初に、多くのキリスト教団体の綱領を引用している。文化の回復、社会の変革、そして「キリストのために世界を変える」。そののちで現実に目を向けてから悲しげに結論する。少なくとも、それはスローガンの作成者が思い描いたような形では起きていない、と。
     福音は実際に異教の文化を変えたこともあったし、いくつかの地域では今も社会全体に影響を与え続けている。それでも、信仰は激しい抵抗に直面するとき、イスラム諸国でそうであったように、屈服したり、身を隠して意味のないものになったりするかもしれない。(同書 pp.191-192)
     まぁ、確かに様々なキリスト教団体があるが、その精神はどこへ行ったと思いたくなるような団体もある。教会ですら、その目指すところとして書いてあることと実際に起きることの間の大きな違いは起きることがある。


    ジェームス・ディビッソン・ハンターさん

     戦争中、日本のキリスト教会は、国家総動員法の下、その身を変質せざるを得なかったことも確かだし、ホーリネスの群れや、一部のキリスト教のように意識的であるか、意識的ではなかったのか、そのいずれにせよ、国家総動員体制に協力しなかったり、積極的抵抗や消極的抵抗をした方々もおられる。ミーちゃんはーちゃんは抵抗したいから偉いと申し上げているのではないし、まぁ、弾圧という悲劇にあわれた方とご家族には心からのご同情申し上げるとしか言いようがないが、しかし、そこで息絶えたに見えるものがどっこい命脈を保っている場合もあれば、キリシタンのように、最初伝えられたものからは完全に別物になっているものもある。

    ではどうするのか?
     異文化の中での抵抗により、その独自性を保つ方法もあるだろうし、敵前上陸の際の橋頭保のように、孤立無援状態で、その持ち場を確保しなければならないような形の日本のキリスト教から、文化と一体化してしまって、文化とキリスト教が区別できないキリスト教もあるだろう。

     特に伝道地で、キリスト教をどう伝えるのか、これは、ミーちゃんはーちゃんも以前トンチャン様からいただいた宿題であるが、いまだに答えが出てない、現在も考慮中の問題である。そうはいっても、現在のところ、ほぼ、もう解はこれしかないかもしれない、と思っていることがある。それは、これまでのミーちゃんはーちゃんがやってきたことばや概念だけの宣教ではない、のではないか、ということである。

     普通の人間としての生を生きる中での個人の顔が見える中の宣教ではないかなぁ、と思っている。セツルメントを形成するかどうかは別として、賀川豊彦先輩、ラウシェンブッシュ先輩方のように実際に神を信じる人々が不完全ながらも神に依存しつつ、神の恵みを見せるタイプの伝道(一種のフェイス・ミッションFaith Mission型の伝道)ではないか、と思うのだ。
     前述したように西洋諸国では、熱心な信仰は懐疑主義者やポスト・クリスチャンたちから、また、別の反対を招きかねない。ハンターは、文化の回復や世界の変革について語ることを放棄すべきだ、と提案する。そのような言葉は、征服と奪取をにおわせるからだ。そして、別の目標を提案している。それは、その文化の中に信仰を持って存在し続けることである。そしてそのもっともよい方法は、犠牲的な愛を実際に示すことだ。
    (中略)
    福音派の人々は「共通善』を語ることが多くなっているが、この言葉はカトリックからの借り物だ。教会は権力の中心ではなく、むしろ反体制派として働くとき、最高の働きをする。この世ものもとしてではなく、この地上で生きるとき、最も満ち足りた意味のある生き方とはどのようなものかを他者に示すのだ。そのような生き方をこの現代社会で行うとすれば、自立、成功、快楽という虚偽の偶像を拒否して、それらを神と隣人への愛に置き換えることだ。(同書 pp.192-193)
     アジアやアフリカでのキリスト教の伝道の歴史を考えてみるとき、確かに一種帝国主義的なモードに乗ってやってきて、宣教と征服と搾取がそれに伴ってしまったことは歴史的にもタウン確実だろうと思う。前回ご紹介したツツ大主教のことばではないが、目をつぶって祈る祈り方を教えてもらっているうちに土地をとられた、と感じたアフリカ人たちがいたのは確かだし、スペイン人たちに乗りこまれたカリブ諸島や南アメリカも非常に悲惨な経験をする。そして、もともと持っていた文化が塗り替えられていった部分がある。これらをどう考えるのか、ということは、昔ほど簡単ではない課題であるし、自分たちが現実にしたことではないかもしれないが、その責任は問われることになる。

     また、過去に自分たちがよかれと思って出あれ、他国を支配というか他者の上位に立って何らかの利益を得たことに関する一種の反作用として、他の人々が住んでいた地域を支配したと思っていた側は、その後かなりしてから自分たちの先行者たちがなしたことへの支払いを求められることになるように思うのだ。それは、旧植民地人による旧宗主国への流入などのかたちで起きるのだ。そして、今度は、旧宗主国の文化そのものも、旧植民地人の文化によって変えられていく。

     こういう状況を考えるとき、どこかの時点での文化を現在の時間において原点として固定したり、理想化したりして考えることの意味は問われるかもしれない。自分たちの理想とする文化や文化的資産があるとしても、それは案外いろんな時代のある部分(その人にとって都合の良い部分)だけをくっつけたフランケンシュタインのようなものかもしれない。その意味で、「共通善」も基本的な構造としては同じようなことになっているかもしれないことには、もう少し考えた方がよいかもしれない、とは思った。

     それよりは、神の民として、神の御思いがこの地でなるように、あるいはあるように神を中心にしていることを念頭に置きながら、地の上において、神の支配があるように、不完全であってもその支配を受けているものとしての存在が、その神の支配への関与に与らせていただくように願うことが大事なことかもしれない、と思う。 

     以前にも書いたと思うが、キリシタンが戦国期に拡大した背景には、コンフラリアミゼルコルヂアを通して、様々なかたちで、神の憐みが当時の日本人たちを驚かせ、なんだこれはという衝撃を持って受け取られたことによるのだと思う。また、神の支配と神の似姿である異なる信仰形態を持つ人々への愛をかたちを通して示すことは、他のキリスト者たちを活性化させることにもつながった歴史はある。例えば、今はほぼ名を知る人はいないが、バクダッドに伝道旅行に行ったAnthony Norris Groves(アンソニー・ノリス・グローブス)先輩はご自身ではご自身の活動は失敗だったと結論付けられたが、その後、ジョージ・ミュラー先輩とその孤児院運営に影響を与え、そして、ハドソン・テイラー先輩に影響を与え、そして、他の多くの伝道者に影響を与えているのだ。


    Anthony Norris Groves先輩

     ところが、こういう良い思いで始められた組織や運動であっても、それが軌道になり始め、形になり始めた瞬間、Tim Keller先輩が、偽りの神々でご指摘になられた自己の思いの実現などが、神の座を簒奪することになることも少なくないように思うのだ。そして、福音が福音でなくなっていくことにもなりかねないようなのだ。その意味で、塩が塩であり続けることは案外難しいのかもしれない。

    愛する対象はだれか
     同じ価値観を共有する人や同じ価値観を共有すると思われる人々、自分に親切してくれる人や、何らかの共通点がある人々に向き合ったり、親切にすることはそう難しくはない。実際に聖書でも、このように言っている。

    【口語訳聖書】 ルカによる福音書
     6:32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
     6:33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
     6:34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
     6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
     6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
    ここのルカ6章36節では、つまり、しかし以降のところは、非常に厳しいことを言っている。自分と考えが違うどころか、共通点を持たない人々、価値観を共有しないものにも、慈悲深い者であるようにすすめられているし、そもそも、何の共通点もない我ら恩を知らぬものに、独り子を遣わしたもうた方こそいと高き方であることを想うと、その憐れみの大きさと情け深さを思い起こさずにはおられない。そのためのクリスマスであったとも思うのだ。
    福音派サブカルチャーの申し子であり、リバティ大学の卒業生でもあるゲイブ・リオンズは、「自分たちと同じ信仰を持っている人々の世話をすること」にクリスチャンが力点を置いていた時代を思い起こしている。「しかし、共通善がわたしたちに要求しているのは、すべての人に手を差し伸べることです。その人たちが何を信じていようと、隣人を愛することなのです。」リオンズは、新約聖書に記されている、敵対する“この世”での生き方を繰り返しているにすぎない。(同書 pp.194-195)
     まぁ、どっかで、ミーちゃんはーちゃんの中に「自分たちと同じ信仰を持っている人々に祝福があるのは当然」と思っている部分はあるが、しかし、「自分たちと同じ信仰を持たない人々に祝福があるように」ということには困難を未だに感じることがある。とはいえ、イエスを神としない人々も神のかたちであることは間違いない。



    Gabe Lyons先輩(年齢的には後輩だけど)

     割と近い知り合いの中に、同じキリスト教でありながら、「カトリック」教会の関係者を毛嫌いし、そこには祝福がないとか真面目な顔で言い切る人々がいて、随分閉口したことがある。そんなことはないし、我々は、カトリックの皆様の遺産の上にものっている、といってもご理解していただけなかった。

     であるとすれば、イスラム教徒、仏教徒の皆様であろうと、その信仰に関係なく、愛したマザー・テレサのようにケアすることをリオンズさんは言っているのであろう。それは、神のかたちである人間を愛し、ケアすること、それは、モーセ5書の中にある、あなた方の中にいる寄留の他国人を愛するということは、重要だと思うのだが、ある共和党の大統領候補者は、この教えを読まれたことがないのかもしれない。ミーちゃんはーちゃんは大事だと思うのだけどなぁ。
    【口語訳聖書】レビ記
    19:33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。
     19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。
    まだまだ続く。



    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:非常によろしいか、と思います。

    評価:
    ウォルター ラウシェンブッシュ
    新教出版社
    ¥ 6,588
    (2013-01-07)
    コメント:異様に高いけど、この種のことを考えるには避けられない本。この本の中身もさることながら、積極的賛成、消極的否定を含め、福音派の人々の応答がおもしろい。

    評価:
    賀川 豊彦
    PHP研究所
    ---
    (2009-04-07)
    コメント:日本のキリスト者の源流の一つでノーベル賞平和賞の候補者となり、戦後黙殺された人物の自伝

    コメント
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2018.05.22 Tuesday 19:04
    安達三郎さま

    コメントは承りましたが、直接本文と関わりのないコメントでしたようですので、管理者として非表示とさせていただきます。

    どうぞ、ご了承くださいまし。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.05.23 Wednesday 08:27
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