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2015.12.23 Wednesday

雨宮慧先輩による「善きサマリア人のたとえ」をもとにたとえを考える講演会に行ってみた

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     上智大学大阪サテライトキャンパスの公開講座に行ってきたので、その時のメモをもとに本日は書いてみたい。まぁ、個人の記録みたいなもんです。

     この記事は超〜〜〜〜〜長いです。読み進めるにはご覚悟をば。

    たとえ話の解釈

     聖書の中で、イエスはたくさんのたとえ話、ストーリーを語っておられるが、今回の講座では、たとえ話がどう解釈されてきたのか、その解釈法を「善きサマリア人のたとえ」をもとにお話しいただいた。 

    種まきのたとえに見る伝統的な解釈と20世紀の解釈

     1888年ユーリッヒャーが書いた「イエスのたとえ」までは、軍喩的解釈が大きく幅を占めてきた。イエスのたとえ話は、多くの隠喩の塊として理解されてきた。物語に登場する様々やモノがある種のことを示すという隠喩のかたまりとしての解釈されてきた。


    アドルフ・ユーリッヒャー先輩(1857-1938)

     たとえの具体的事例として、マルコ4章の種まきのたとえを考えてみたい。福音書記者は、イエスの解釈は寓喩的解釈として記録しており、歴史的には、多くの隠喩の塊とみる修辞法として理解されてきたが、現在の聖書学者たちは隠喩の塊としての見方を放棄して新しい見方を始めている。

     隠喩の塊としてたとえ話を見るときに、隠喩とその要素と現実との対応とを付けることで、寓喩の意味を考えてきた。

     恐らく、種まきのたとえの後についてるイエスの解釈として宣べられている部分は、初代教会の解釈という可能性があるように思う。なぜならば、この解釈には教会というコンテキストで語られているからではある。(まぁ、聖書は誤りなきイエスのことばを記録しているという人々からは受け入れがたいとは思うが、もし、初代の教会がこのように伝えたとすれば、それも教会の伝統として受け入れておられると思うので、聖書の権威性を否定されていると誤解しない方がよいと思う、と念を押しておこう)現代の聖書学者としては、この種まきのたとえのイエスの解釈とされる部分は初代教会としての解釈として理解されている。

     ここでは、このたとえ話のコア概念、直接何がこの物語で言いたいかというと、実をならせた種と実をならせなかった種の対比にあるように思う。
     
     このたとえ話は、いわゆる、ガリラヤの春と呼ばれる、人々に受け入れられた時期の直後に語られている。当初華々しく広がったが、その後停滞を見せたときに、実際に、イエスは、イエスの活動拠点であったカペナウム(ガリラヤ湖畔の町)やベテスダ、また、コラジンを呪っている。
    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     11:21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
     11:22 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
     11:23 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
     11:24 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
     イエスの宣教活動がはかばかしくなかった時期があり、イエスを批判している記事などもある。当時の人々は、イエスが宣教しているものの、何の効果もなかったのではないか、と非難することもあった。こういう状況による批判に対して、イエスは種まきのたとえで答えたのではなかったろうか。

     実際に、当時のイスラエルというかパレスティナには、種をまいた後、耕す農法があったようだ。そういう農法では、道路になるかもしれないところにも撒いたようである。イエスの伝道は、神を信じ、神が実をならせるということを信じて、種を撒くということを主張したかったのではないか。実をならせない種があるが、実をならせる種もあるということを信じて種をまくのだ、というイエスの考え方を示したものではないか。

     マルコ4章14節以降は、教会生活を前提にしている。教会生活においてどういう生き方をするのが問題になる、という解釈になっている。ところで、イエスは教会を前提にしていたのだろうか。イエスが活動下敷きには教会と呼べるような組織があったとは考えにくいと考える。教会生活を前提としたものは、イエスが前提としていたことは考えるのは厳しいだろう。

    教父たちと寓喩的解釈とその背景
     教父たちが寓喩的解釈を行ったことに多大な影響を与えたのは、ホメロスの描く神話の解釈論で、ホメロスが描く神々の行動原理や道徳観はもはや受け入れがたい時代になっており、その結果、寓喩的解釈の仕方になれていた。ギリシア世界に育った教父たちは寓喩的解釈を適用していったのであろう。

     もし、文字通りの意味でないといけないのであれば、旧約聖書の雅歌が文字通りに伸べていることは、教会には受け入れがたいし、教会の倫理的な概念から言えば、不適切なものであるが、教会への愛を表すと解釈することで深い意味があるとして理解しているのではないか。世俗的には雅歌は一種の恋愛歌であり、お行儀がいいとは言えないことが書かれている。寓喩的に解釈することで、受け入れていった。間違っているということではない。

    文字どおりの解釈が困難な聖書箇所

     あるいは、文字通り理解するのであれば、コヘレト(伝道者)の書も疑問があることになる。コヘレトは言う。何という虚しさ、全てはむなしい。虚しさの虚しさ、と表現されており、冒頭でも、むなしいという語が5回続いており、12章8節からが最後の部分であるが、そこでもむなしいばかりが強調されている。これは、ある面で神を持たない人には、こんなことが起こってしまうぞという理解で聖典化しているのであろう。


     たとえ話を理解するうえで、イエスはたとえをどう語ったのかが問題になるだろう。ほとんどの教父は、寓喩的解釈をとっている。中でも、善きサマリア人の解釈に関しては、アウグスティヌスの寓喩的解釈は初期の教会の寓話的解釈の頂点ともいうべきもので、人類を巡る救済史としてエマオに下っていった人はアダムを表し、人類の堕落を示し、強盗にあった人を受け入れた、宿屋の主人は使徒パウロであると理解し、最後に善きサマリア人で救済になっていることから、それはイエスの救済を示すというような理解となっている。時々、動物はキリストのからだを示すとか、意味が分からない解釈もあるけれども。その意味で、救済史を説明するためにアウグスティヌスは利用しているところがある。 

     では、宗教改革では、どうであるかというと、カルヴィンだけは、非常に激しく寓喩的解釈を批判した。

     19世紀1888年までは、寓喩的解釈が主であり続けた。寓喩とは、いくつもの隠喩の塊として理解するために、現実とたとえ話の中にあらわれる対象とたとえ話が目標にするものとの対応関係(接点)は、複数となる。これはまずいのではないか、ということをユーリッヒャーは主張したのである。

    ユーリッヒャー先輩の解釈

     たとえ話にあって示そうとされるものは一つではないか、ということをユーリッヒャーは指摘した。たとえ話に出てくる多くの要素は、話を成立させるために語られた部分。本質的な部分と無関係である。大事なのは、先ほどの種まきのたとえで言えば、実をならせ種と実をならせなかった種の一つがその主要な主張なのではないか。たとえによって教えようとしていること(主な主張)とたとえが結びついていると理解した方がよいのではないか、と主張した。ある意味、鋭いといえば鋭い解釈法ではある。(まぁ、可能性としてあると思うが、一つしかないと言い切るのは学問としては理解できるが、少々言い過ぎの気もする。)

     たとえが細かく語られているの背景には、たとえ話が様々な要素となっているのは、舞台のセットとして書いてあると理解させる方法であり、いわば物語として成立させるための道具立てであるといってよいだろう。その面で言えば、善きサマリア人のたとえは、救済史のおさらいとして解釈されるのではなく、隣人としての行動を解いたものといえないだろうか。

     たとえをたとえとして理解するためには、4つのポイントで理解するのがよいのかもしれない。つまり、たとえのたった一つの主要ポイントを捜すことが有効であろうと考える。つまり、たとえと、たとえによって教えようとしていることの接点を捜すことを捜せばよいことになる。

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     ここで、具体的に、天の国と畑に隠された宝のマタイ13:44の例で考えてみたい。

     例えば、この話の中で、宝を見つけた人は、隠された宝を隠しておくのは正しいといえるのか、ということになる。話の中で出てきた、「隠したこと」に気をとられるとまずいことになるように思う。このたとえを語った母子の話があり、母親が、この話を子供にして、「あなただったら、どうする?」と聞いた時、子供は素直に「交番に行く」といったが本来的な倫理から言えばそうなるはずで、「隠してまでも」ということに強調はないように思う。

     なお、この隠された宝の話は、真珠商のはなしと対になっている。45-46節での真珠商の話では、不道徳な行動はない。イエスは、これらのたとえを一つのものとして語っているように思う。そして、この二つ対をなす譬えのポイントは、「神の国に入ることはあらゆるものを捨て去るほどの価値がある。」という形、つまり、主要主張はここにあると考えるのがよいのではないか。

     別の例としては、10人の乙女のたとえがあるだろう。ある解釈者は、賢く、準備をしていた5人の乙女が、他の準備不足の5人に対して油に与えなかったことを根拠に、自己中心的であってはならないと理解して語った例があると聞いたことがある。これは、どうも解釈としてはどうかなぁ、と思われる。この話の主要な目的は、常に目を覚ましていることにあるので、5人の愚かな乙女は聞かせるための工夫ではないだろうか。

     あるいは、ルカ16章の不正な管理人のたとえについても、ジレンマがある。不正な管理人のたとえも解釈しにくい部分である。この話は、イエスの到来により、終末の準備をするような歴史の転換点に立っていることを、覚えてそれに備える知恵を持っていることがだいじなのではないだろうか。

     神の国の『国』と訳されるバシレイヤは、支配を表す表現であるが、支配が領域で定義されることがあり、領域概念を意味に含むようになり、国と理解されるようになったが、本来的には、神の王としての支配が意味されている。

     神が世界の隅々にまでその支配を及ばせようとしている時代が来ており、イエスのことばを聞くものは歴史の転換点に来ているのであり、賢くあれ、神の支配の時が差し迫っているということがこのたとえの主要な主張であろう。9節

    口語訳聖書 ルカ福音書 16:9
    またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
    は、イエスのことばかルカの解説かが、はっきりしないように思う。神の支配の到来がある、世界が変わる時に備える方法は、賢く盗むことではなく、賢くお金を用いることを説いているのではないか、が重要ではないか、と思う。

    ∪験茲虜造鯀椶(ドイツ語由来)
     ある文学類型(様々な奇跡物語、たとえ、伝説)はそれを生み出し、はぐくむ固有の座を持っている(固有の状況を持っている)と考える。ある文学類型を活かす座を、生活の座と呼ぶ。(生活の座とは、その民族、その文化固有のものやその物語の背景らしい。)
     実例として、ルカ15:4-7と15:8-10の失われた銀貨や羊のたとえ話を例にとり考えてみたい。

     このたとえ話の背景は、取税人や罪人が来て、それに律法学者たちが不満を抱えていた。この不満は史実を反映したものと考える。多くの学者は、史実としての律法学者や祭司におけるイエスの不満を踏まえた上でこのたとえが語られたとしている。律法学者の批判に対するイエスの弁明を記録したものといえるだろう。この祭司の不満が史実だとすると、解釈の仕方も変わってくる。取税人や罪人という排除された人々のところに行ったことを示し、弁明と宣言としてこのたとえ話をイエスは語っている。この弁明と宣言として3つの譬えが語られた。

     史実を前提にすると、この話の背景は、ルカの設定した舞台設定ではない。イエスが語ったたとえの教えそのものは何かを考えることが生活の座を考えることにつながっている。イエスに対する批判への生活の場は、弁明と、宣言である。その目的は、イエスの到来は、エゼキエル34:11-16が実現したことであり、イエスの活動はエゼキエルによる預言の成就であることなのではないか。

    口語訳聖書 エゼキエル書

     34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
     34:12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
     34:13 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
     34:14 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
     34:15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
     34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

     つまり、聖書において生活の座をさがすとは、たとえが語られた背景、たとえを語る目的を捜すことであるといえるだろう。

    J_蚕餤者の譬えの解釈を捜せ
     ルカ19章のタラントのたとえでこの問題を考えてみる。ルカ19章とマタイ25章の間の違い等がある。それはそれで意味があり、ルカとマタイの考え方が組み入れられている。福音書記者がどのように解釈したか、を考えに入れた方がよいだろう。

     生活の座には3つの段階、イエスがたとえを語った段階での生活の座があり、続いて伝承される間での生活の座があり、福音書記者が書くときの生活の座があるのではないだろうか。その意味で、福音書記者が書くときの生活の座ということは少し考えた方がよいだろう。

     福音書の成立年代を考えると、マルコ福音書、70年ちょっと過ぎ、マタイは80年代、ルカは90年代 と考えられ、イエスが死んだのが30年代であるとすると、かなり時間差があることになる。

     ある面で言うと福音書におけるたとえ話の解説は初代教会の時代の理解を反映していると思われる。マルコ福音書4章1-20はおそらくイエスがまさに語ったことであると考えられるが、13節以降は、初代教会の中で作られていったと考えることもできよう。イエスの復活後、長い伝承の期間が存在したし、ルカやマタイは独自の環境に直面し、福音書を記載するうえで影響したものがあるだろう。その意味で、生活の座を三段階で見ることができるのではないか、と思う。つまり、イエスが語った生活の座(環境) − 伝承される期間での生活の座(環境) − 福音書を描くときの生活の座(環境)の3段階があるだろう。

     ルカが福音書を書いた時代の関心は、初代教会時代の課題でもあった、イエスの再臨の遅延にあると思う。
    口語訳聖書 2ペテロ

     3:2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
     3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
     3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

    口語訳聖書 1テサロニケ

     4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
    などは遅延しているイエスの再臨に直接言及している。あなた方が悲しむことのないため、とまで書いている。主が来られる日まで生き残る私たち、という表現にあるように、パウロが主が来られる日に生きている人々の内に入ると思っていたとするのが自然だろう。自分が生きている間にあるとパウロは思っていたようである。

     当時の問題としてこのイエスの再臨の遅れは、信徒にとって大きい。

    福音書の異同をどう考えるか

     様々な考え方があるが、口伝では共通であったものが、文章化された段階で違いが生まれ、さらに読み手の事を意識して福音書記者が書いた可能性がある。

     ルカはタラントのたとえで、再臨があるとしているが、マタイとしては、イエスの再臨と協力に結びつける記述がない。王の位の記述はマタイにはないし、マタイのタラントのたとえ話を再臨問題と結びつける意図は弱いものであったのではないか。

     マタイは、忠実な僕、ルカは、再臨の遅延としてとらえているようであり、ルカにとってたとえの生活の座は、イエスの再臨という完成まで忠実に生きることであるとした。イエスもそう言っていたという認識であったであろう。

    た世福音書の譬えを通して、いまを生きる我々に
    何を語りかけているのかを捜せ
     これまでの,らまでは、新約聖書成立までの生活の座を考えてきた。但しそれでは不十分で、現在を生きる我々との関係を捜すことが必要である。最初の3つの原理からはなれていれば、現代の生き方に対するその教えの意味を的確に理解できない。イエスの主要ポイントと、福音書記者の生活の座(そのたとえ話を語った文脈というか環境)、福音書記者の解釈の範囲を参照枠とするとき、生きるたとえの意味第4原理を理解できるように考える。

     最初の,らの原則の中で考えることで、たとえ話を理解すべきではないだろうか、それを超えてしまうと、結果的には、人間の感情が最終的啓示になってしまう。聖書本文の意味を知り、神の霊を求めるべきで、そうして初めて神の生きた言葉になるのではないか。

    (後半)

    善きサマリア人を考えてみる

     いよいよ、ルカ25章30-36節と、ルカ10章25-29節と37節の部分を、分けて考えることができるのではないか。

     「おいはぎに襲われた人」という表現が30と36節に出てくる。

     また、「道の向こう側を通っていった」という表現も2回繰り返して出てくるし、それに対して、「介抱した」という語も2回繰り返して出てくる。ここで、同じものが直近に二度繰り返されることで、対応するもの同士であることが示されているのではないか。このように対応関係に見てみると、このたとえ話の中心性が出しやすい。

     31-34節では、2つのタイプの人が出てくるし、登場人物が揃いたとえ話として成立する。その意味で、33-34前半が中心軸となっており、それに対応する外側の層で挟まれている構造になっている。つまり、道の向こうを通らずに(つまり、無視せずに)、介抱するというところが、隣人愛とは何かが出てくるのではないか。

     この善きサマリア人は、見て、哀れに思い、近寄ってとなっているが、また、祭司やレビ人が見ると道の反対側を、と訳している部分の、見ると、と訳している部分も、同じ動詞が使われている。ここで、同じ見るという言葉を使っていて退避しているのではないだろうか。

     その意味で、見て、哀れに思うがあれば、隣人になることになる、ということであろう。ここでのキーワードは、哀れに思うという動詞であり、スプランクニゾマイ Σπλαγχνίζομαι という語が使われている。この語は、共観福音書だけに12回出てくる言葉で、パウロやその他の福音書には出てこない。

    このΣπλαγχνίζομαι は、イエスが主語になる用例として、合計9回であり、たいていは奇跡に起こる前に使われている。残りの3回はたとえ話の登場人物が3回であり、そのうちの1回は善きサマリア人のたとえであり、マタイ18:26の1万タラントの借金を持つ人を憐れんだ主人、あともう1回は、ルカ15章の放蕩息子のたとえである。なお、この「放蕩息子のたとえ」という表題は、たとえの本質を言い表していないように思う。
     ここでのスプランクニゾマイは、父が哀れに思い走り寄った時の、父の心の表現として示されている。このスプランクニゾマイという語は、神のこころを暗示していると思われる。具体的には、イエスか、神と思える人物のたとえの身に使われている。
     
    他の登場人物と憐れみ
     
     祭司、レビ人、エルサレムからエリコに向かって下ってきた人であるが、エリコはエルサレム神殿の下級祭司の住宅があった場所なので、仕事のために、何週間かはなれていて、恐らく自宅に帰る途中だったんじゃないか、と考えるのがよいのかもしれない。その意味で、祭司やレビ人は、かわいそうにという思いはありながら、隣人になれなかった人たちのことを示しているともいえよう。

     スプランクニゾマイは、普通の憐れみと違っているんじゃないか。おかわいそうに、という簡単なものではない、心底哀れに思いであり、行動に直結する憐れみである。人間は哀れに思うことがあったとしてもそう長続きしないのである。なお、類似の語としてのスプランクノンはピレモンに3回パウロは使っている。

     スプランクニゾマイに関しては、「ちもぎる(沖縄方言)」という語があるが、まさに、それと同じで、はらわたが震えるような深い憐れみであるが、我々の思いは、一時的に終わることが多いだろう。

     その意味で、スプランクニゾマイという語が用いられた、サマリア人は、普通の人間を指していないのではないだろうか。そう考えると、サマリア人はキリストと考えるのは当然ともいえなくもないだろう。

     善きサマリア人をキリストと考えるその点では、古代教父と同じ解釈になる。ある面で、このサマリア人に対しては、寓喩的な解釈を加えるべきでないだろう。

     但し、これは、ルカ10章29節以前と分けると、そう見えるかもしれない、という理解ではある。

    どこまでを一体として考えるか問題

     ルカ10章25-29節に出てくる2つの愛の教えとの関連をどう考えるかである。2つの愛の教えは、マタイ、マルコにもある。しかし、ルカ10章については、新共同訳は一体のものとして描いてあり、よいサマリア人という表題がついている。

     これは、新共同訳聖書の底本として使ったギリシア語聖書を編纂した聖書協会世界連盟に転居しており、それに従って、表題と並行箇所を付けている。なお、ギリシア語聖書のタイトルは、英語でつけている。

     段落に関しては、新共同訳は底本通りに従っており、英語でつけられた表題を日本語訳したものとなっている。二つの愛の教えであれば、マタイにもマルコにも出てくるが、良いサマリア人の表題の下には閉口を示す記述がなく、並行箇所はないという立場を新共同訳の底本となったギリシア語聖書ではなっている。

     しかし、マタイ、マルコでは、ルカ10:25-28が並行箇所として挙げられているのに、ルカではそれがない。これはちょっとおかしい感じがする。本来ルカの表題善きサマリア人の表題の下部にも、マルコが出ててもいいはずだが存在していない。

     なぜ、ルカ福音箇所に並行箇所をあげず、独立させたか、といえば、一つの段落として扱いたいという学者がいたからではないかとも考えることができる。そして、ルカの表題から参照箇所を抜いてしまいたいという意図が働いたことを考えることができるのではないだろうか。二つの愛の掟と善きサマリア人の話を一つとしたいという思いがこうなっているかもしれない。

     先にも述べたように、たとえとたとえの教えが1点で結びつくというのが、ユーリッヒャーの考えである。

     導入部として、29節があり、隣人という語が出てくる。この隣人という語に現代の学者は意味を置いているようである。重要なポイントは、隣人とはだれか、という問いかかわっているように思うのである。

    善きサマリア人は、イエスが直接語った資料であるか
    二次資料であると考えるか問題

     聖書の編纂があったことを考えると、伝承の段階で含まれている(2次的なもの)があることになり、もし、ここで、30節から36節までを独立させると、このたとえ話は、イエスのものとはしにくくなる。あるいは、30-36節はイエスが語ったたとえであるとしても、29節までと37節は、無関係に伝わり、ルカが組み合わせたことになりかねない。

     善きサマリア人の譬えのみを1塊とみて、マルコやマタイが同じ話を伝えている個所がないとすると、25-37をひと固まりで見ることが望ましいと考えた可能性を否定できない。この善きサマリア人のたとえと二つの愛の掟とを結合させたのは、ルカではないかという仮説も生まれる。

     ただし、一体として成り立たない理解の根拠として、10:27・29の隣人と36の隣人では言葉の使用法が違っている。より具体的には、27・29は、愛の対象としての隣人(誰かから愛される人)であり、36節は愛の主体(愛の主体困った人を助けるもの)としての隣人として用いられている。この違いがあることから2次的だという人もいるが、ただ、多くの場合、善きサマリア人のたとえは、2次的でないとみている。悩ましいのは、善きサマリア人のたとえはルカだけにあるkとおである。なお、3つの福音書は共通の起源を持つと必ずしも考える必要はない。なお、この二つの愛は非常に重要なので、いろんな場所で何度も語っていた、とも考えることができるであろう。無論、3つも起源は同じと考えることが可能。

     こんなこまかいことを考えるのが学者なんです。しょうがないでしょう。(って、先生が言ってどうすんですか、って突っ込みそうになった)

    ところで、愛する主体としての隣人はかなり重要ではないかと考える。律法学者は隣人として備えるべき必要な要件に向けられている。つまり、愛を与えられるための対象となるための要件を議論しているのに対し、イエスが述べる関心は、愛するものになることに向けられているように思われる。

     イエスが隣人とするための要件を取り上げていない、全て愛される対象であるとこの善きサマリア人で説いているのではないか。「私(イエス)にとって愛するとは何か、私(イエス)が隣人となるとはどのようなことか」にイエスの主張があるようにおもわれる。

     だれが私の隣人であるかどうかは、イエスにとって意味がないと居であるといいたいような気がする。むしろ、「私(イエス)があなたの隣人となる」に意味があると思う。その意味で、二つの愛の掟と、それを含む善きサマリア人の二つからなる独立した伝承とすべきでなく、当時の人たち(この話を聞きながら思ったのは、また現代の人たち)の間違い(神の愛に関する誤解、ユダヤ教徒であるがゆえに神に愛される権利があるとか、キリスト教徒であるがゆえにキリスト教徒で愛するとかいう基準を競ってしがちな傾向)のゆえに存在したのではないだろうか。

    善きサマリア人のたとえの生活の座とは何か
     サマリア人に向けていない。なぜ、サマリア人をもちい、ユダヤ人をたとえの主要登場人物として用いなかった理由は何であろうか。

     これには、サマリア人の起源問題がかかわっているであろう。列王記の下17章がその起源を示すようであるが、アッシリアに制圧された後、指導者階級をアッシリアはティグリス川の河岸付近に運んだという記述が参考にされる。

     サマリア人がどう見られていたか、シラ書(聖書外典)の50:26では、シケムに住む愚かな者として描かれている。
     この死ら所では、二つの民を忌み嫌う。セイルに住むものとペリシテ人の二つの民が出てくるが、しぇけむに住む愚かな者のは、民扱いされされていない。

     サマリア人蔑視の傾向は非常に強く、イエスにサマリア人で悪霊につかれているといっている例からもそのことは確認される。なお、クムランにあった修道会のようなエッセネ派は、自分以外を闇の子ら、と呼んでいた(おお、こういう人たち、いるよなぁ、ヤンシー先輩の連載ではないけど)。そういう蔑視意識があったと思うのである。

     善きサマリア人の最初の生活の座は、民族的、宗教的偏狭さへの強い批判であり、隣人の範囲には限界がなく、万人を含み、苦しむ人々に惜しみない援助と同情を与える人ではなく、民族的偏狭さへの克服の勧めとも取れる。

    ルカのテーマとしては何か
     ルカのテーマはアウトカーストにも来た救いであり、神の愛の受け取り手は限定されないのではないか、という点であろう(まぁ、テオピロという異邦人らしき人に捧げられていることから考えても、なんとなくそれは想像できそうだが)

     救いの時が来ているが、祭司やレビ人のような宗教的エリートは、それを拒絶し、むしろイスラエルのアウトカーストはそれを受け入れ、大宴会の座についている。救いに招かれたアウトカーストは、彼らの隣人を愛することになるし、天の父が彼らに示した愛と恵みのミニチュアとしてそれを示すようにと期待されている。神の愛は受け取り手は制限されてはいないことにあるだろう。

     ルカにとってイエスの再臨が引き伸ばされている中で、大事なことは所有物の正しい使用法、敵である人にあいを示し、必要なものを与え、お返しを求めてない愛ということであろうし、その意味で、ルカにまで伝えられた物語にほとんど何も加えず、彼の福音理解を表現しているのではないだろうか。

     大学生に雨宮先生の解釈ついて聞いてみると、二つの愛の戒めと一体としてまとめて考えようとする受けがよかったらしい。その意味で、人間が愛する側におく方に賛成の学生が多かった。つまり、神の存在が表に出ていない、ヒューマニズム問題として善きサマリア人だと理解する方が受け入れられやすいようである。サマリア人はキリストだ、と言ってしまうと、学生たちからは、かえってたとえが遠のいてしまう傾向があると思われる。
     神とかキリストだといわれると遠いというイメージを学生が持つからなのではないか、と思っている。大学で若い学生を相手にする時には、現代の学者としての理解を語る方がよいのかもしれない。
     トラピストに行ったときに話した。シスターに話したら、現代学者の解釈よりも、雨宮説の方がいいという理解であった。これは、人による受け止め方が違うことを示していて、人それぞれの環境や文脈があり、第4の生活の座を考えないといけないということかもしれない。 

    Q&A

    Q 放蕩息子のたとえというタイトルがふさわしくない、とおっしゃいましたが、理由を教えていただけると嬉しいです。 

    A
    英語でのルカ15章の表題表題はこうなっています
     最初のたとえ     The Lost Sheep 失った羊
     8-10節のたとえ    The Lost Coin 失くした銀貨
     11節以降のたとえ   The Lost Son 見失った息子

     なぜ、放蕩息子の譬えがふさわしくないか、といいますと 放蕩がいけない、ということになってしまうからで、放蕩がいけないこと位は当たり前の事です。この物語の本質は、父親から見た息子の姿、見失ったということにカギがあるからです。

     なぜ、英語の見出しをLostでそろえているか、15章で8回使われているアポロリューミという語にあるからです。

     アポロリューミは、見失った(羊)や失くした(銀貨)、あるいは、いなくなった、失った息子という表現でも使われていますが、飢え死にしそうだというのも、このアポロリューミが使われているのです。重要なのは、この言葉のニュアンスであり、飢え死にしそうだ、というニュアンスが大事が大事なんです。

     国と訳される聖書もありますが、これはある地方への旅立ちといった感じで、地方という言葉が使われています。このたとえ話の中で、3度にわたって地方を使ったのは、父のところと、今いる父から離れた地方という空間的な関係性の対比を示すためでしょう。

     アポロルーミという語は、本来、あるべき場所から離れてしまった、あるいは、いるべき場所から離れてしまい、滅びようとする場所にいるということを示す語ではないでしょうか。

     ザアカイの話がルカ19章にありますが、ザアカイに対して、失われたもの、アポロリューミという語が使われています。ルカ15章に出てくるキーワードのアポロリューミは、失われた、という受動表現に変わると分かるように、失われる、アポロリューミという表現そのものが、父親、神から見ている表現になっているように思われます。 


    感想
     今回学んだことは、スプランクニゾマイの主格が、神ないし神に近い人にのみ使われること、そして、善きサマリア人のたとえも、また、ザアカイにしても、放蕩息子のたとえと呼ばれる失われた息子のたとえにしても、結局、イエスのミッションは、レスキュー・ミッション、神の子供としての特権の取り戻しと、新しい創造というのか、再創造というのか、テレイオスにおいて完成する神の業、神の支配の感性という視点を外してはならないなぁ、という素朴な感想であった。

     逆に言えば、この視点から、表面上の文言やこれまでの解釈にとらわれずに、神と人との関係を考えることが重要であるということを想ったのであった。









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