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2015.12.23 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(22)

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     今日も、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介しながら、考えてみたいと思う。

    世界を祝福によって変えていったキリスト教

     ヤンシー先輩は、本来、キリスト教が持っている特質を、町田宗鳳という人物を登場させることで、本来的にキリスト教がどういう性質を持っていたのか、ということを外部の目から見てどう見えていたのか、そして今のキリスト教がどう見えるのか、ということを語っておられる。
     世界を変えようとしているキリスト教の在り方を、町田(引用者注 臨済宗の僧侶でプリンストン大学・現広島大学教授 の町田宗鳳)は称賛する。運命を静かに受け入れるという教えもあるアジアの宗教とは対照的だというのだ。しかし彼は、信仰者たちにこう警告もしている。「劣っているものを優れているものが助ける。あるいは信仰深いものが不信仰なものを救っているといった意識が少しでもあるなら、たちまちクリスチャンとしての品格を失います。」クリスチャンの中には、ほかの人々に優越感を持ち、この社会に敵意を抱いている人さえもいるかもしれない、と町田は言う。(『隠された恵み』 p.176)

    町田 宗鳳氏 (虚空山 彼岸寺さん から)

     この部分を読みながら、最下部で紹介する、スターク著『キリスト教とローマ帝国』という本を思い出した。テーラワーダが伝えるブッダの教えによれば、「悟ったニートになること」であると、魚川さんは喝破しておられるが、まぁ、自分の内側を眺め、生産も生活も否定してさとることらしい。聖書は逆の事を言っているではないか、とヤンシー先輩は言っておられる。つまり、この地に行き、遣わされ、この地をケアすることではないか、とヤンシー先輩は言われたいのであろう。そもそも、人間がこの地に創造された時の神の命令「この地を支配せよ」あるいは、「この地をケアせよ」として遣わされたのではないか、毎週の祝祷では、「神の国が近づいたこと(伝道せよだけではなく)を伝えよ」と信徒に対して祝福の言葉が述べられているのではないだろうか。

     以下の町田先生のご発言は、非常に印象的であり、現在の所謂福音派の現状を示しているように思う。
    劣っているものを優れているものが助ける。あるいは信仰深いものが不信仰なものを救っているといった意識が少しでもあるなら、たちまちクリスチャンとしての品格を失います。」クリスチャンの中には、ほかの人々に優越感を持ち、この社会に敵意を抱いている人さえもいるかもしれない、と町田は言う。
     この部分を読みながら、確かにそうだよなぁ、と思ったのである。「劣っているものを優れているものが助ける。あるいは信仰深いものが不信仰なものを救っている」というのは、アメリカのキリスト教の一部に内在的な、マニフェスト・ディスティニーManifest destinyという概念によるものだろうと思う。アメリカ合衆国の日本に対する明治期から昭和期くらいまでの対応は、基本、このマニフェスト・デスティニーの影響は、政治的にもキリスト教文化的にも存在していたように思う。つまり、日本のビッグ・ブラザーであろうとしたという面はあるとは思う。おかげで、日本企業の技術革新は進んだ。昔は、結構こんな秘密をすんなり教えてくれるのか、というような開発に関する技術情報をあっさり日本人の訪問者に提示してくれたアメリカの計算機会社もあったようである。最近はさすがにもうないらしいが。



    WikipediaさんのManifest destinyから

     ミーちゃんはーちゃんがご幼少の砌、最初にイエスと出会った教会群では、「クリスチャンの中には、ほかの人々に優越感を持ち、この社会に敵意を抱いている人さえもいるかもしれない」という表現にかなり近い教会群であった。非クリスチャンの世界の事を「世の事」といい、一段も2段も下に見、多くの非キリスト者の方々を「世の人はわかってない」「世の人々は何とつまらないことに関心を寄せていることか」「世の人々は何とむなしいことか」とコヘレト気取りで公言なさる方もおられた。

     実際に、アメリカで半年以上滞在したミーちゃんはーちゃんが育ったところと関係の深い教会群では、伝道集会と呼ばれるプログラムの中でこのことを声高に語られる説教者の方もおられた。聞きながら、「まぁ、この教会外関係者の人がいないからいいけどさ、これ、外部の人が聞かはったらめっちゃ怒るやろなぁ」という感想を持った。また、このグループの一部には、カトリック教会の皆さんのほとんどは、「”本物の”信仰を持っていない」という方もおられる。どうもお話をお聞きする限り、「”本物の”信仰」とは、このグループの多くの人々が共有する信仰の「スタイル」の事らしい。まぁ、お好きにされたらよろしいのでは、とは思っている。

    マスコミ受けの悪い福音派…

     確かに、アメリカのマスコミの福音派の受けは悪い。もともと、左っぽい(保守的な聖書を中心とする価値観を持たない)人間中心的な人々が多いのがマスコミである。また、政府にしても、他の人々にしても、割と何事に対しても批判的な人々が多いのである。まぁ、それのやり玉に挙がっているに過ぎないだけのような気もするが、受けの悪さについてヤンシー先輩は書いておられる。
     『タイム』誌や『ニューズウィーク』誌で福音派の人々に関する特集記事を読むとき、シカゴの友人のようにメディアが福音派の人々を心が狭くすぐ人をさばく集団と見ていることに、私はたじろぐ。福音という言葉は世界中で、活気や情熱、良き知らせといったものを表しているが、それらはまさに福音派の人々に欠けていることを私はこの目で見てきた。米国では、すべてのことが政治という対戦相手のいるスポーツに集約される。そして米国人は、福音派の人々を「この世のもの」、つまり道徳的な問題にこだわっている特定の政治家の支持基盤とみがちである。(同書 p.177)
     まぁ、「福音派の人々を「この世のもの」、つまり道徳的な問題にこだわっている特定の政治家の支持基盤」と、こう書かれてもしかたのない部分は、米国在住経験から言ってもあるように思う。なんせ、以下に挙げてある、英語が時にご不自由なアメリカ生まれのおじさんがおっぱじめてくれたイラク戦争の時にミーちゃんはーちゃんが言っていた教会の割と指導的な役割のおじさんが、「今の大統領を誇りに思う、なぜかというと、彼は毎日執務をする際に聖書を読み祈りを持って始めているではないか」とおっしゃっておられたので、ちょっと驚いたことがある。


    今、この方の弟君が大統領選挙協和という候補者レースに出ておられる

     上の写真のおじさんの後、8年ほど前に福音派はある面、マケインおじさんとサラ・ペイリンおばさんを支持することが本当にまともなのか、ということを問われ、以前のように一枚板で、共和党(保守派)ガン押しすることをやめた模様である。まぁ、そもそも、サラ・ペイリンというおばさんがちょっと、と思う発言が多かったことがあるからだと思うけど。


    サラ・ペイリンさんとマケイン君

     しかし、選挙戦でのペイリンおばさんの外交音痴発言はすごかったから、大統領が死んだら、副大統領が大統領になるアメリカでは、高齢のマケインと組んだ時点で、ペイリンおばさんには厳しかったのではないか、と思っている。

     政治が一種のスポーツである、というのは、実際にアメリカに行くとよくわかる。勝ち負けを争うという意味でスポーツ的な側面があるのである。おまけに、アメリカ人は、いろんなことを政治的なアリーナで考える。であるからこそ、Political Correctnessという、倫理的な『正しさ』、正義論的な『正しさ』、以外の『正しさ』が米国には厳然として存在するのである。一番この種のスポーツ(趣味、余暇)であることがよくわかるのはLaw and Orderという番組である。検察側(州民の代表)と弁護側(加害者の代表)がテニスのラリーよろしく法廷闘争術を使って丁々発止をやるのである。


    Law and Order LAのCM

    政治に乗り出したところで…

     まぁ、ハルセル著『核戦争を待望する人びと』には、1980年代の福音派の物事の見方、将来予測と、それに伴う行動が書かれているが、今から考えれば相当むちゃくちゃと思える話であるが、当時としては、イスラエルの国家としての承認があったこともあり、今では全く想像がつかないほど、みんな終末熱、つまり、核戦争熱に熱狂し、いつ再臨があるのか、とか、空中携挙があるのか、と、レフト・ビハインドがいつ起きるか状態に関する議論が教会内のあちこちで繰り広げられ、一種の熱病状態であった。実は日本でも、そういう熱病状態の人々もいた。そして、それは、ご幼少のみぎりであったミーちゃんはーちゃんにも伝染したのだ。

     アメリカでそういう騒ぎを起こした人々へのヤンシー先輩は次のように書いている。
     近年、福音派の指導者らが政界に転じて、自分たちの政策を推し進めようとしている。だが歴史を振り返ると、そのような人たちは政治に汚点を残したという印象をまぬかれない。福音派の人々は、女性の選挙権と奴隷制廃止のために率先して戦ったが、同時にそれらに反対するためにも戦ってきた。福音派が多数を占める黒人の牧師たちは市民権運動の最前線に立ったが、南部の白人クリスチャンの多くは反対した。1980年代にジェリー・ファルウレルは、南アフリカのクルーガーランド金貨を買って南アフリカに投資するよう米国のクリスチャンたちに勧めた。現地での白人政権のてこ入れが狙いだった。現在福音派の人々は、妊娠中絶反対法を支持する中心勢力である一方で、死刑、銃の所有権、軍需産業を支持している。(同書 p.180)
     たしかに、アメリカの奴隷制度の廃止に福音派は深く関与している。そもそも奴隷廃止論の基督教会における発端は、ネイティブアメリカンのクリスチャンとなった酋長たちが、教会の役員となるときに奴隷を保有するのは適切といえるのか、という論争らしい。最初、この話を東京大学の大学院生の方が発表しているのを聞いた時、「え、そこかい」と思わず突っ込みを入れたくなったことがある。アフリカから連れてこられて奴隷として生きることを強いられている人々は、そもそも人間のかたちであるから解放せねば、という形の論拠ではなかったようである。

     なお、ネイティブ・アメリカンも、アフリカ系アメリカ人のみなさんも、20世紀直前のある段階までは、アメリカの国勢調査庁(Census Beurou)の定義によれば、人間扱いから除外されていたのである。

     確かに、1960年代には「福音派が多数を占める黒人の牧師たちは市民権運動の最前線に立ったが、南部の白人クリスチャンの多くは反対した」のは確かであるが、今では、南部の白人クリスチャンの一部は反対して居られる模様である。まぁ、さすがに表だってそういうことをご主張の向きは少ないようだが。

    銃器が大好きというイメージ先行の
    アメリカ福音派のイメージ
     銃規制に関しては、このブログでも記事にしてお話ししたが、そもそも、アメリカは、憲法で自衛のための民兵組織(ミリシア)を作ってよい、と書いてしまっている。そもそも、建国そのものがミリシアの力によったからである。その影響で、銃は許可さえ取れば保有してよいことになっている。
     
     先日のサン・バーナディーノーでの銃撃戦に際して、ジェリー・ファルウェルが創設したリバティ大学の学長をしている、その息子の(この段階で胡散臭く感じてしまう)ジェリー・ファルウェル・ジュニアはもっとクリスチャンは十を持って正しく使うべきだ、とご発言になり、物議を醸しておられ、また、その講演を聞かされている生徒の皆さんのかなりの部分は、賛成の声をあげておられるようである。



    ジェリー・ファルウェル・JrがLiberty大学で行った講演を伝える報道
    「よい人々は銃の登録証を持ちムスリムが人を殺すのを阻止すべきだ」という趣旨の発言

     ケビン・ルースという、リバティ大学に行った人の実際の体験記をヤンシー先輩は次のようにご紹介しておられる。
    ブラウン大学の学生、ケビン・ルースは、福音派の人々を研究するためにリバティー大学(訳注:クロス・ロード・バプティスト教会牧師の故ジェリー・ファルウレルが創設した大学)に一学期間通った。
    (中略)
     『疑わしい弟子』(原題 The Unlikely Disciple)という本を書いていて、福音派の信徒の実像に触れて次のように書いているという。 「福音派は、行かれる狂信者の集団ではない。いったん彼らの中に入ってしまえば、学生たちの違う面、といっても厳格な面が見えてくるだろうと思っていた。福音派の学生が集まる時は、暗い部屋で身を寄せ合って妊娠中絶反対運動を組織したり、真剣政治の奪還を画策したりしているという、この様な世間一般が持つイメージを、僕も信じ込んでいた。しかし、それは全くの誤解だった。」
    (中略)
     ケビン・ルースが知ったのは、メディアが報じる姿とは正反対に、ほとんどの福音派の人が政治にかかわっていないという事実だった。実際、福音派の米国人は政治活動よりも、海外宣教や国際的な難民救済活動に多くの時間を費やしている。(同書 pp.178-180)
     これを読みながら、まぁ、実際には、1960年代の公民権運動(アフリカ系・アメリカ人の差別的待遇、とりわけ、選挙権の否定に代表される)、左派運動(これは、マッカーシズムで徹底的にたたかれたため、地下活動に入った)のような根暗さはなく、深刻さもなく、素朴に自分たちが正しい、望ましいと思っていることをやっている人たちであるという印象はある。まぁ、無論、中には、イスラムの聖典を焼いてみたりという、とんでもない人々もおられることは間違いないが。まぁ、社会に不満を抱えたり、全体像を見ずに一部を見て、なんだかんだ言ったりする狂信者の人々は、一定程度度の社会でも存在するので、しょうがないが。

     まぁ、大半は底抜けに明るく、善意に満ち、飢えた人々に食事を与え、ホームレスを支援し(結構いるのだ、これが)、神のことばに力があると信じており、教会に来れるようバスを大学まで出してやり、遊び相手のいない、ヒスパニックの子供たちにキッズクラブを提供し、夏に資金集めにやってきた海外伝道者たちをもてなし、活動資金を送り、それでありながら、神から与えられた日々の豊かな生活を喜んで過ごす人の良い人々が多いのだ。それは、個人的にカリフォルニアで、Community Churchと呼ばれ、現在は、自分たちにわかりやすい、Evangelical Free Churchというラベルを張っておられる教会に1年間ほど言った経験からも、その後、何回かアメリカ西海岸に行くたび、アメリカの福音派の教会に行ってみた経験からもそんな感じだろうと思う。

     本ブログで、ご紹介しているRachel Held EvansのSearching for SundayにRachelさんが高校生のころの話が出ているが、彼女が高校生のころにColumbine High Schoolでの銃撃戦が起きたときに、仲間と資金集めて、高校生のクリスチャンのグループを作って、コロンバイン高校の事件が起きた街に慰めるために訪問することを計画したことの話が出てくる。実に、無茶だとは思ったが、この辺の精神性(一種の無茶さも含めて)が、アメリカ福音派の根底、底流に流れているように思う。


    コロンバイン高校事件の報道 CBS

     まぁ、メディアはジェリー・ファウルウェル・ジュニアのようなとんがった、突出した普通でないイメージイメージの人がニュースヴァリューがあり、面白いので、そういう人物を通してあるイメージを与えようとするが、それはあまりに普通でないから取り上げるだけなのであり、それを真に受けて一般化することはやはり危険なのであろうと思う。

    まだまだ続く




    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:絶賛お勧めいたしております。

    評価:
    ロドニー・スターク
    新教出版社
    ¥ 3,456
    (2014-09-19)
    コメント:手法には、もうちょっと検討の余地があるとは思ったけど、内容的には重要な指摘をしている。

    評価:
    越智 道雄,グレース ハルセル,Grace Halsell
    朝日新聞社
    ---
    (1989-09)
    コメント:ファルウェルおじさん(先代)がお盛んなころの福音派がどんな感じだったか、ということの記録として重要

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