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2015.12.21 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(21)

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     今日も、フィリップ・ヤンシー先輩の隠された恵みからご紹介しながら、考えてみたいと思う。

    クリスチャンの活動家 

     この世に生き、この世でなすことに対して、日本の福音派では否定的な向きがあることを、以前この記事でご紹介したし、それが、教会内部の若い人たちから疑問として出始めていることも紹介した。クリスチャンが社会において義をもたらすということを考えるなら、貧しい人、悲しむ人、痛む人、混乱を抱えた人とともにいるということは非常に大事なことではないかと思うが、そういうことを大事だ、と言いかけた瞬間、リベラルだとか社会派とかだとか有難いラベルを貼っていただけることになる。アメリカの公営住宅の中で、奉仕しようとした人々が聖書を教材として利用しないということだけで、援助を打ち切られたことをご紹介したが、そういうことと関係なく、キリスト者としてこういう困った人とともに居ようとしただけで、すぐ、クリスチャン的ではない、という話になる。ただ福音派的クリスチャンの多くがしていないというだけのことになるだけなのだが。
     しかし、クリスチャンの活動家は、危ない橋を渡らなければならない。問題を生み出した当の権力と癒着することなく、どうやって立ち向かっていくかという難題に直面するのだ。私たちは「世にあって」(ヨハネ17:13)生きなければならない。だが、イエスが最後の晩餐で弟子たちにいったように「この世ものも」(同16節)になってはいけない。クリスチャンは歴史を通じて、自分たちを取り巻く文化に慣れ親しんだり、距離を保ったりしながら、バランスをとってきた。
     この問題について、私は神学者ミロスラブ・ヴォルフから多くを学んだ。彼は1990年代のバルカン戦争を生き抜き、フラー神学校とイエール神学校で教えたクロアチア人である。ペンテコステ派教会の牧師の息子に生まれ、自分は、宗教がらみの問題が多かった地域に生きる非主流派、「少数派の中の少数派」なのだと意識しながら成長した。旧ユーゴスラヴィアは、ヴォルフの少年時代、無神論国家を宣言していた。彼の父親は共産主義が支配していた時代に強制収容所に収容されたことがあり、ミロスラブ自身も警察で厳しい尋問を受けた。やがて共産主義が崩壊すると、彼は、国が宗教の違いによって分裂し、血みどろの内戦が始まる様子を目の当たりにした。
     信仰者は二つの危険に直面する、とヴォルフは結論した。ある人々はその地域の文化から距離をおくことで、あらゆる影響力を失ってしまう。ヴォルフ自身が若い時、ペンテコステ派のクリスチャンも、日常生活や教会生活に重きを置いて死後に備えていた。彼らはほとんど「世に」いなかった。しかしイエスは、弟子たちに託する祈りの中で、明確な指示を与えている
    「あなたがわたしを世に使わされたように、私も彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)
    (隠された恵み pp.172-173)
     ヴァルカン半島の悲劇は、第2次世界大戦後共産化していく中で、近代がある面極端に出た形の社会主義社会(均質な労働力、奇妙な平等意識)の理念に基づく本質的な、民族、社会構成の違いというものを完璧に無視した統一化が図られたのである。純化するか、理念において、文化や民族や歴史的な違いをガン無視して無理やり統一化したのであるが、世の中、そんなに簡単にみんな理念に殉じてくれないし、自分の親しい人々が厚遇されることで、自分自身の生活を良くしたり、厚遇したいのである。

     こういう例は、近代を見ていると限界がない。アフリカでは、ルワンダのフツ族とツチ族の問題があるし、南アフリカでは、現地人とあとからやってきたイギリス人たちの間のアパルトヘイトの問題があったし、台湾では、台湾の原住民とあとからやってきた国民党系の中国人の問題があるし、日本でも、帰化する動きも見られるものの、在日外国人問題があるし、それらの方々を巡るヘイトスピーチの問題がある。






     今、東欧からヨーロッパに流れ込んでいるシリア系難民の問題があるし、アメリカでは、もともとヒスパニックの人々の土地であるカリフォルニアにやってきた人々による差別がある。まぁ、現在、共和党の大統領候補でトップを走っておられる典型的なアメリカ人って感じの不動産屋のトランプおじさんは、国境にでっかい万里の長城のようなものを作るとか言っておられるが、これまた、もといた人たちが優先というのなら、ネイティブアメリカン優先だし、ヒスパニックあるいはラティーノと呼ばれる人々が最優先であるべきだろう。


    トランプ共和党大統領候補


    トランプ君みるたびに、なぜかこの漫画のキャラクターを思い出す

    宗教と政治が融合することの不都合

     昔も今もそうだが、全ての人が同じ信仰を持っているわけではないし、同じキリストを神とし、自分の人生の中心としつつも、その信仰形態にはそれぞれ違いがあり、全く同じ理解に達しているかということはそうではないし、時系列的にその理解の多様性があることは、別記事で紹介ちゅうの藤本満著の聖書信仰を見ていただくと、かなり明らかである。ある程度の幅の中に実に多様なキリスト教信仰が併存的に存在しているのだ。

     日本なども典型的にそうだが、実に多様な政治集団があり、神や仏や宗教を認めたくないはずの共産党があり、新興宗教型の仏教集団を背景にする組織もあり、また、幸福実現党のような組織もあれば、自由民主党をかなり支援しておられる宗教組織があることもよく知られている事実である。

     中には、積極的という枠を超えた積極性をお持ちの宗教団体もおありになるので、武器を日本の宗教者の皆様は保有しておられないから、南北戦争のような、まさに聖書預言が実現したかのような兄弟や親子が両サイドに分かれて、武装闘争するような事件が起きないだけではないか、と思うのである。日本人は穏やかだから、武装闘争が起きないという神話があるようだが、奈良朝まで戻ってみれば、宗教をも利用した政権奪取のためのクーデターが発生しているし、そこまで戻らなくても、室町末期から戦国時代にまで戻ってみれば、日本でも、宗教を語った徴税権戦争(一向一揆とか)は起きている。政治と宗教が結びつき、国民に押し付け始めると、まともなことが起きないから、アメリカ合衆国憲法修正第1条で、国教会を持たないということにしておきましょう、信教の自由はこれを保証します、ということになっているのであり、日本国憲法も、一応、これのどの程度の延長線のさきに位置しているのかどうかは別として、多少は影響している、とは思う。

     現実に、政治と宗教者が手を結んで、ろくでもないことが発生した例として、旧ユーゴの例や南アフリカの例を出しながら、ヤンシー先輩は次のように書く。
     ヴォルフが内戦中に見たものは、その正反対のものだった。それは、宗教団体が権力者と手を組むという「この世もの」のやり方だった。旧ユーゴスラビアは、クロアチア人のカトリック、セルビア人の正教会、そしてボスニア人のイスラム教徒によって分断され、少数派民族に対する民族浄化が始まった。教会史には、この世の権力と結託した例が数多く記載されている。米国では先住民を搾取した征服者たちを牧師や司祭が祝福した。アフリカでは、宣教師がしばしば植民地の権力者たちに協力した(デズモンド・ツツ大主教は言う。「アフリカにやってきた宣教師の手には聖書が、私たちの手にはこの土地がありました。宣教師が『祈りましょう」といい、私たちは目を閉じました。そして目をあけると、私たちの手には聖書が、彼らの手には土地がありました」)。
    (同書 p.173-174)
     しかし、最後のデズモンド・ツツ大司教の発言は皮肉である。アングリカンコミュニオンの南アフリカを代表するトップの聖職者〔ネイティブ・アフリカンでもいらっしゃる〕として、自分たちの専任の聖職者や宣教師たちがやったことを正直に話しておられる。

    デズモンド・ツツ大主教

     まぁ、こういう目にあったアフリカに以前からおられたネイティブアフリカンの側からすると、キリスト教を教えてくださったのはありがたいが、それ以外の不都合のご責任をとってくだされ、といいたくなっても仕方がないと思う。実は、このデズモンド・ツツ司教というのは、ネルソン・マンデラたちと協力しながら、真実と和解の委員会という組織を立ち上げ、南アフリカのアパルトヘイトのトラウマの回復に努めていく際の霊的な支柱ともなった人だと個人的には理解している。基本的に排除してきたが輪を排除するという排除の原則で南アフリカを国家として再建するのではなく、和解と融和、包摂(Embracement)の思想(Embracementという概念は聖餐式とつながっていることは、マクグラス先輩の日本講演で触れられている)において国民の和解をされるうえで貢献されたと認識している。


    真実と和解の委員会を題材にした映画 イン マイ カントリー

    単純化に潜む危険
     わかりやすいものが良い、というのがか人間受けがいいのは、勧善懲悪の水戸黄門や大岡越前、鬼平犯科帳などの時代劇だけではなく、スターウォーズやダイ・ハードシリーズなど、西部劇などや刑事ドラマ(Law and Orderの一部作品を除く)から、アンパンマンからウルトラマンシリーズの大半、東映戦隊もの、プリキュアにいたるまでの定番である。しかし、これらに一貫して流れるテーマは、正義による悪と思われるものの排除の原則なのである。
    ヴォルフは信仰者たちに、これとは違ったやり方を提案している。彼が言うには、バルカン半島の悲劇的な歴史が教えているように、自分たちの信じているものを強調していると反発を招きかねない。教義を重視して自分たちを「他者」と区別し、人々には信仰を無理強いしたい誘惑に駆られるかもしれないが、自分にしてもらいたいことを人にもするという黄金律に従って、自らの信仰を生き抜くことに専念すべきだ。それは「手」から始まって「心」へ、そして「頭」へと進む。憐れみを実践すれば(手を差し伸べれば)、私たちの愛を示すことになるだろう。そうすると人々は、その愛がどこからきているかに惹きつけられていくだろう。
     ヴォルフはこの現代において、とりわけ「ポスト・クリスチャン(かつてクリスチャンだった人)」に信仰を伝える最善の方法を提示したかもしれない。とくに「福音派」のレッテルを歓迎するプロテスタントは伝統的に、心に直接訴えかけるよう「言葉で伝えること」を強調して来た。私たちは説教をし、信仰書を書き、町全体を視野に入れた伝道を行う。だが、もはやこのようなやり方に、教会から離れた人々を引き戻すだけの力はない。(同書 p.174)
    ここで、ヴォルフ先生、大事なことをおっしゃっておられることを、ヤンシー先輩はご紹介しておられる。実物を見せてアジアwセルやり方、即ち、神の手があり、その介入を現実にこの地に生きる人間の手で示すことが大事なのではないか、ということである。それは、恐らく教会の建物と敷地内にとどまる手ではないということだろうと思う。多くの人が生きている社会の中でその手を、それがどんなに小さなものでも、その場におかれた時にキリスト者の手が差し伸べられること(たとえ、それがキリスト者の手であることが知られなくても)で、1万回説教を聞かせるよりも、効果的な場合があると思うのだ。世の中生きていることに価値があるということではないのか、と思う。

     このブログでもすでに紹介しているところであるが、キリシタン研究で非常にご高名な上智大学の川村司祭は、もちろん、異国から来た宣教師たちの人格や風体にひかれてキリシタンになった人々は居ただろうが、当時のキリシタンたちが行った、当時の社会から見捨てられた人々、孤児、行き倒れの死者と病人、ハンセン氏病者たちの埋葬やケアをしたことが、多くの人をキリシタンへの関心を深めたことはまず間違いないことを指摘しておられる。何も新しいもの好きだけで飛びついたミーちゃんはーちゃんのような『いっちょかみ」、『いちびり』だけがキリシタンになったのではなく、また、高山さんちのようにお殿様がキリシタンになったから、その毛来週もキリシタンに無理やりになったわけではないようである。まぁ、もちろん、だれでも立身出世はしたいから、そういう目的でキリシタンになった人たちは大量にはいただろうけど。

     つまり、神の国の存在を感じさせるもの、頭で入るものではなく、実体験してはいるもの、体を通して、こころで入っていくキリスト教をもう一度取り戻すべきなのではないか、ということをヤンシー先輩はお話なのだと思う。

     しかし、ヤンシー先輩は、実に厳しいことをおっしゃる。「「福音派」のレッテルを歓迎するプロテスタントは伝統的に、心に直接訴えかけるよう「言葉で伝えること」を強調して来た。私たちは説教をし、信仰書を書き、町全体を視野に入れた伝道を行う。だが、もはやこのようなやり方に、教会から離れた人々を引き戻すだけの力はない。」ですって。もう教会堂で語るだけでは、頭中心主義の伝道方法では、フ▽ンリン・グ▽ラハ△を呼んでこようが、阪神タイガースにいる(来年以降在籍した、になるかもしれないが)マートン選手を呼んでこようが、そんなものではご新規さんに関してはいざ知らず(マートンとかなら、トラキチ伝道はできるかもしれないが)、キリスト教会を3年前後でご卒業なさった大量のポストクリスチャンの皆さんには、その程度では、全く効果を持たないんじゃないですかねぇ、どうなんでしょうねぇ、ということのようである。ところで、森本あんり先輩ご指摘のように、フ▽ンリン・グ▽ラハ△の系統の大衆動員型伝道大会は、基本的にカトリックからプロテスタントの信者まで全体がかなりまんべんなく存在するアメリカという社会の中で、クリスチャンの回心者を起こし、Born Again Christianにするというベルトコンベア装置というか、工場のような役割を果たす。その意味で、ポストクリスチャンにおいて、Born Again Christianを量産するための方法論として現在はほとんど終わっている、ということをおっしゃっておられるのだろう。


    マートン選手

     なお、このあたりの事は、Rachel Held Evans嬢の本にも出てくる。結局、福音派の教会をご卒業になられたEvansご夫妻は、アメリカの米国聖公会(日本では日本聖公会)に行かれている模様です。

    ハンズオン型のキリスト教
     これまで、日本に伝わってきたキリスト教は、聖書を読まないといけないとか、牧師さんのありがたい日本語で一応わかる説教を拝聴しないといけないとか、あるいは聖書に詳しくなるため本を読まないといけないとか、そういう感じの頭でっかちのキリスト教だった部分はあるように思う。

     しかし、これからのポストクリスチャン世界向けのキリスト教は、一種、ハンズオン型のキリスト教になるのではないか、ということをヤンシー先輩は告げておられるように思う。
     懐疑的な世界は、私たちの生き方を見て、その言葉が真実かどうかを判断する。今日の活動家こそ、最高の福音の伝達者と言えるかもしれない。(同書 p.174)
     これは、キリシタン時代のキリスト教がかなり急速に広がった背景には、そもそも、キリスト教の教えや倫理や人格な度にも影響されたであろうが、それ以上に、当時のキリシタンがしていた、コンフラリア・ミゼリコルヂアの活動、当時誰も相手にしなかった、病者をケアし、野ざらしになっていた行き倒れの人をケアし、あるいは行き倒れになった人々や病者、就中ハンセン氏病患者のケアをしたあたりのことがあった、というのが上智大学の川村先生の御理解でもあるようである。

     その意味で、これからの福音派に求められているのは、ヤンシー先輩のご理解を敷衍するなら、信徒による神の国の実現、即ち、コンフラリア・ミゼリコルヂアなのかもしれないということではないか、と思うのである。

    コンフラリアに関しては、以下を参照

    バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(1)

    バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(3) 最終回

    秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(1)

    秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(2)


    秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(3)

    秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(5)

    上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その1

    上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その1

    上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その2


    まだまだ続く






    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしております。

    評価:
    ---
    Thomas Nelson
    ---
    (2015-04-14)
    コメント:なかなか面白かったです。今年の女性が書いたキリスト教の本でトップをお取りになったようです。おめでたい。

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