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2015.12.19 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(20)

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    教会と多様性
     個人的に、教会は多様な人々からなると思っているし、それが互いに枝であって一つのものにつながっているというイメージを持っている。それが、公同の教会であるし、地域にある特定の教会も、そういう教会であるといいなぁ、と思うのである。
     ただし、多様性のあるものを一つのものとして動かすのは大変なのは承知している。しかし、そうであっても排除しないという選択肢はあるのだと思うし、本来教会員であるから何がなんでも絶対に所属教会に来るべきというのは、どっかおかしいと思っている。なんか論理が逆立ちしている感じがするのだ。信徒はキリストのものになったのであって、ある特定の教会の所有物や専有物ではないと思うのだ。

     もしそうだとすると、カトリック教会のようにどこに行ってもそのグループの教会がなければならないし、その教会群が形成した礼拝の様式による礼拝を提供する必要があると思うのだが。まぁ、2時間かけて教会に通いたい人は通ったらよいと思う。しかし、もし、事故や病気などでそれができなくなった時、その人はどうするのだろうか、とも考えてしまう。あるいは、言語の障壁があり、そこに行ってもちんぷんかんぷんであるなら、そこに行き続ける必然性が果たしてあるのか、とも思う。

     ヤンシー先輩は、次のように書いておられる。
     新約聖書に書かれている教会の記述を読むと、その目だった特徴として「多様性」があげられる。異なる人々が集まるところには、恵みにとって重要な試験場となる。ユダヤ教徒の中にあった性別、人種、社会の階級といった多くの障壁をキリスト教会はいろいろな国の人々が集まる五旬節(ペンテコステ)の日に早くも取り除いた。自分が女性、奴隷、異邦人に生まれなかったことを毎日感謝していたパウロは、この劇的な変化に感嘆した。
    「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなた方はみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)
     多様性は人生を複雑にする。だからこそ、私たちは同じような年齢、収入、価値観の人々の輪に入りがちなのかもしれない。教会は、幼児から祖父母世代、失業中の人から重役、移民から上流階級の人までが委嘱兄集まる場を与えている。(中略)新しい教会に行ったとき、そこに集う人がみなに通っていればいるほど、そして私と同じような人ばかりだと居心地の悪さを感じる。

     しかし、多様性がよい結果をもたらすのは、共通のビジョンを持つ人々のみである。(隠された恵み pp.164-165)
     ただ、「異なる人々が集まるところには、恵みにとって重要な試験場となる」というご指摘は大事だと思う。つまり、一人ひとりの他者に対する思いが試されるのである。しかしながら、近代という時代は、同じような人を作りだそうとしたのである。それは産業において、効率性を上げるという側面では利益があったし、軍事において、大部隊を動員した協調行動を可能にするという意味もあった。

     その結果、社会として本来多様な人々を共通化する装置としての公的教育や学校教育があり、企画をおき、それにはまらないものは、排除するという性質を持ったのが近代という時代であった。それが行き着いたのが、Naziによる病者や障害を持つ人々の排除であった。同じような人々だけからなる同じような人々のための国家を目指した結果の一部がこれであり、また別の一断面がホロコーストであり、また、その一断面が国民車と呼ばれたポルシェ設計によるBeatleである。


    ホロコースト前に実施された障害者の排除政策についての動画


    フォルクスワーゲン(まさに大衆のワゴン)

     ところで、一つということに関して、個人的に思いを巡らす聖書個所は、以下に紹介する場所である。
    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
    15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
    15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
     あるときまでは、ミーちゃんはーちゃんはブドウの木であるといわれるイエスにつながっていることのみを考えていたのだ。正直に言うと、イエスとミーちゃんはーちゃんがつながっていることだけを考えていたのだ。まさに、イエスと私の意味合いでしか、この場所を理解していなかった。しかし、ある時から、ここで言われているぶどうの木のイメージが、変わったのだ。どう変わったかというと、イエスと、私と、ほかの枝、であり、ほかの枝との関係も実は非常に大事だ、ということに気がついたのだ。そして、それは時間や空間を超えたつながりまでもつということに思いを抱いたのである。もちろん、我々に神の言葉を直接伝えた人々とも我々はつながっているのだし、それ以前のカルヴァン先輩、ルター先輩、アウグスティヌス先輩、アレクサンドリアのアタナシウス先輩などともつながっているのだ。


    ぶどうの木、木一本と枝一つではないよね。

    完璧でなくても神の支配の存在を示すキリスト者と教会
     近代は欠けがないもの、完璧なものを求め、純化する思想を持ち、「異化する、あるいは、別の方向に向かう、不完全なものをよしとする文化」を形成し得なかった。そして純化にすぐ向かう傾向を持っていた。ある面それは一時的な文化的傾向だと思う。そして、その一時的傾向は教会にまで影響を及ぼしている。そのことについて、ヤンシー先輩も次のように書いておられる。
     訪れた24の教会に、完璧な教会は一つもなかった。新約聖書が示していても、私たちは完璧な教会が見つかるとは期待すべきではない。眠くなるような教会もあれば、斬新であろうとしすぎていて、自分が何をしに来たのか分からなくなるような教会もあった。それらの教会を批判したくなると、教会が元をたどれば、神の大胆な実験に行き着くことを思い起こした。教会とは、この地上に実際に神がおられることを、信仰の旅人である私たちがあらわすための実験であることを。(同書 p.167)
     「新約聖書が示していても、私たちは完璧な教会が見つかるとは期待すべきではない」のだそうであるし、個人的にはこれは同意する。確かに一見完璧に見える教会がある。それは一時的なもの、と考えたほうがよい。家を買う時や借りるときを考えてみるとよい。買ったり、借りたりするときは、その家は完璧に見えるかもしれない。しかし、子供の数が増えたり、転勤を要請されたり、病気になったりしたら、完璧だったはずの家が呪い近い存在になることもあるのだ。

     しかし、「眠くなるような教会もあれば、斬新であろうとしすぎていて、自分が何をしに来たのか分からなくなるような教会もあった」とヤンシー先輩はお書きであるが、まぁ、両方とも経験したことがある。個人的には、斬新でありすぎ、ドン引した教会もある。また、聖書のお話で、一文一文の内容は正しいのだが、それをばらばらと並べるために、給食の細切れのスパゲッティじゃないんだから、つながりを持たせてお話ししてもらえるとうれしいのになぁ、とお話を伺いながら正直思った教会もあった。まぁ、それとて、ミーちゃんはーちゃんにとっての枝である。大事にしたいなぁ、という思いはある。

     欠点や不満があっても、そこが神を中心とする教会であり、人々を歓迎する限りにおいては、その存在は、神の支配を求める人々がおり、その人々が毎週集まることを通して、その中で神を求めること、神をあがめることを、さまざまな方法や形式や様式の違いはあれど、行うことで、神の国を表象しているのだと思う。とはいいながら、神が中心でない教会、人間が中心となった教会は時に起きることである。そう感じたら、少し、その教会から離れてみて、鎮まりのうちに神を求めること、他の教会群に行ってみることも方法ではあると思う。経験者として、これはそう思う。

    U2のBonoと神の国

     個人的には、U2というグループがあることは知っていたが、Bonoという人物の存在は初めて知った。基本的に、ミーちゃんはーちゃんの息子さんはロック系の音楽が好きだが、個人的にはあまり聞くことがないのでしらなんだ。知らないものはしょうがない。また、セレブがキリスト教徒だからといって、それで、と思うところがあるが、ここでヤンシー先輩が挙げておられることが案外大事だ、と思ったので紹介しておく。
    (引用者注: エチオピアの孤児院での慈善活動から)アイルランドに戻ったボノの祈りは、怒りと反抗的なトーンを帯びたものに変わったという。「神様、あなたはアフリカの子供たちを心配してくださらないのですが、あの子たちは何も悪いことをしなかったのに… (中略)」  ところがだんだんと、神は心にかけている、という返事が聞こえてくるようになった。そもそもアフリカで慈善活動をしようという思いはどこから来たのだろう。神に浴びせかけた問が、まるで自分を責めるかのように跳ね返ってきた。(中略)「僕はロックスターだ。ソーシャルワーカーじゃない!」しかし、確かな召しだと感じたものを無視することができなかった。(p.169-170)
     何が大事だと思ったかというと、「神に浴びせかけた問が、まるで自分を責めるかのように跳ね返ってきた」という部分なのである。神との関係で時にこういう経験をすることがある。神に対する問いかけ(責めるような言葉)が自分に対して帰ってくる経験で、自らを見直す場面になることがあるのだ。「あなたは私に何をお望みなのですか?」「私のどこが悪いのですか?」と聞きたくなることが時々ある。まるで、このおじさんである。
    【口語訳聖書】ヨナ書
     4:6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
     4:7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
     4:8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
     4:9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
     4:10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
     4:11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
     個人的にヨナ書は非常に面白いと思っている。これを子供用にしておくのは実際もったいない。ヨナ書は、違法の民の神との関係が語られている旧約聖書の個所の一つ(ある面、アブラハムもそうである)であり、非常に重要なことを我々に告げる場所であると思っている。

     個人的にU2のBonoおじさんの信仰的背景はよくわ知らないが、以下のインタビューを聞くと、音楽的な傾向は違うが、そんなに個人的にはこのBonoおじさんの信仰と祈りの関係を聞く限りに派、違いはそんなにないなぁ、とは思った。


    U2のBonoのインタビュー

    と思っていたら、尊敬する山崎ランサムさまもBonoおじさんについて書いておられた。

    Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)である。素晴らしいので、ぜひご覧ください。

    まだまだ続く









    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:非常によろしいと思います。

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