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2015.12.14 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(18)

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    今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。

    キリスト者の地において歩む意味
     まず、キリスト者の存在とこの地における生き方の問題について、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。ところで、これまでこの連載でご紹介した内容をおさらいいただけるとわかることであるが、ヤンシー先輩の教会のモデルは、立派な人や、倫理的で、社会から評価される人々の集まりというよりも、迷っている旅人の集まりという理解であることは示した通りである。その迷っている人々である教会の人々という認識を受けたうえで、迷うことの意味や意義、迷いの中にあることがなぜ重要なのか、を触れてきた。

     そのうえで、この地に歩む意味に関しては、次のようにお書きである。
    イエスが昇天しなかったら、スーパー教皇の立場となって地上に残っていたら、本書の様な本が書かれる必要はなかっただろう。恵は消え去ることなく、あふれ出ているだろう。十字軍や異端審問やユダヤ人大虐殺のような悲劇について、クリスチャンが悔い改める必要もないだろう。そのような過ちをイエスは未然に防ぐことができたはずだからだ。奴隷制、人生の終末期の問題、同性愛の権利といった問題が起きると、教会は、その問題をすべて解決してくれるイエスに直接訴えることができるだろう。しかし、私たちは得てして、あの弟子たちと同じように、ぽかんと口を開けたまま空を見つめたり、混乱してまごついたりしている。
     なぜイエスはその神聖な使命を、私たちの様な人間にゆだねられたのか。私が理解した聖書の筋書きを見ていくと、その答えはキリスト教の教義最大の神秘の一つに行き着く。(隠された恵み p.152)
     
    その神聖な使命を、私たちの様な人間にゆだねられたのか」というヤンシー先輩の記述を読みながら、すべての最終問題の解決を与える存在としてのイエスという希望を「今、ここで、この地上で、限界のある存在としての人間として」どう考えるのか、ということを問われた気がする。もちろん神と共に生き、神とともにこの地をケアするという神聖な使命の実現は、終末において実現することは確信してはいる。しかし、本来の週末以前に、この地に歩む民、ふがいない間違いだらけの人間にもゆだねられた、神の国の実現の一部としての参与というか関与することに招いておられることをどう考えるのか問題について考えている。なぜならば、もし、週末で実現することのみが問題であり、それが最重要課題なら、毎日レフトビハインド現象が発生したほうがいいはずであるが、それが起こらないのは、なぜか、という問題が出てくるからである。


    福音派の一部で絶賛されているレフト・ビハインド
    (ミーちゃんはーちゃんとは合わなかった映画です。)

     なぜ、我々がこの地に信仰を持ってすぐおさらば、バイバイできないのか、といえば、もともと、人間がこの地で行き、この地をケアするものとして生きているから、そのための神のかたちであるから、というのはあると思う。

     現実の問題として、この地をケアするものという役割というか責任は、アダムだけに与えられたのではなく、アダムの子孫である我々にも変わらない約束として与えられているように思うのだ。つまり、われわれは地に属するものとして、不十分ながらも関与することを許されている、解決をイエス様任せにしたり、現状を放置しながら先送りにするのではなく、聖書と聖霊を手がかりにしながら、当事者性を持って考えることを許されていると思うのだ。

     確かに、過去から現在に至るまでのキリスト教と世界をめぐる論点、その具体例としては、奴隷制(現代には形を変えた貧困という結果、選択肢が限られた人々がいるという意味での奴隷制が存在すると思っている)、同性愛、終末医療の問題、どれ一つとっても解決が付けにくい問題であるし、簡単に解決のつかない問題ではあるが、簡単に解決がつかないし、解決をしたような気になってはならない問題ではあると思う。こういう難しく一位に解が出ない問題に関しては、あまりに安易に解決付けた気になっていたのではないかと思うのだ。ミーちゃんはーちゃんを含め、キリスト者の多くは。




     この後ヤンシー先輩は、三位一体、神の位格の話をご説明になっており、ヤンシー先輩のご主張では、聖書の世界は、非常におおざっぱにいうと、3幕劇となっていて、第1幕の天使創造以降イエスが来られるまでは父なる神が主役としてスポットライトが当たりし、第2幕では、父なる神からイエスにスポットライトが多くの場合映り、第3幕がペンテコステから始まるという劇構成になっているとしている。

     ただし、完全に幕まで切れているのではなくて、個人的にはその幕はスムーズだと思うけれども。N.T.ライト先輩は『クリスチャンであるとは』には、もう少し細かく、この劇を分けて1幕目 創造、2幕目 堕落、3幕目 イスラエル、4幕目 イエス・キリスト、5幕目 初代教会以降 としてお書きであった。

    キリスト者の”役割”とは
     キリスト者の任務に関して、ヤンシー先輩は次のような一節をお書きである。あまりに印象的であり、そして重要な一節であると思う。
     もし、キリスト者が毎日レフト・ビハインドされていくのなら、キリスト者自身は、迷いながら、疑いながら、愚かしいながらも自身のふがいなさを嘆きつつ生きる必要はないはずである。しかし、そうはなっていないことを同館がルカ、そこに何か神の計画があるのだろうか、ということに関して、次のようにお書きである。
     道を間違えてばかりいる私たち旅人は、イエス昇天後の「残されたイエス」、つまり神の御霊の継承者なのだ。パウロはその考えをさらに深め、私たちをキリストの体、そして神の神殿と呼んだ。それは、この地球上に、実際に神がおられることを意味している。キリストはなぜ来られたのか?それはいつの非か、ヨーロッパ、中国、オーストラリア、米国、南米にまで及ぶ教会のない広告を始動させるためだ。そして、それを実現させるのは私たちなのだ。この時代、神は世界にどこにおられるのか。どこにでもおられるのだ。最も大胆で予想外の展開をする第3幕で、神が解き放たれたのだ。私たちのかで、そして私たちを通して。
     (中略)ドラモンドはさらに、イエスの使命を担う普通の人々を通して聖霊は働くという。要するに私たちの任務とは、別の生き方があることをこの世界に示すことなのだ。(pp.155-156)
     ミーちゃんはーちゃんは、この部分を読むなかで、神は意図を持って、毎日、毎時間、毎分、毎秒、信仰者を信じたその時にレフトビハインド状態にするのではなく、意図をもって、この地の管理者、神の似姿としてのわれわれをこの地に置く、ということをお考えであるのではないか、という思いに至ったのである。

     ここでヤンシー先輩が紹介して居られるドラモント先輩の言葉ではないが、神がいるということを示すものとして、生きる。その神がいるということを信じるコミュニティ(個人的には建物としての教会というよりは、その中身としての人々がその役割を担うと思っている)が存在することを通して示す役割があると思うのだ。つまり、不完全であっても、欠点だらけであろうとも、神の息を吹き込まれたものが存在するという実在例を通して物語る、そこに意味があると思うのだ。


    ヘンリー・ドラモンド先輩

     今月初めに、お百姓見習いのトンちゃん様の応答にお応えして という記事を書いた。その中で、「大バカ者」と自分自身を自称した(そのつもりであるし、事実そうである)が、キリスト者とは、世間という世界に向って、突進していくドン・キホーテ(ドン・キホーテ・デ・ラ・ラマンチャ)のようなものであると思うのだ。矛盾を抱えながらも、神の物語に生き、他者から笑われようが、自己満足に見えようが、神と共に生きる神の民としての自覚を持って生きることではないか、と思っている。


    なお、こちらは、日本にあり、ときどきミーちゃんはーちゃんもお世話になっているドンキホーテである。

     神がおられることを示すという役割は、非常に大事だと思っている。現在日本語訳プロジェクトが進行中のN.T.ライトの神学(一般書だと思うが)をしている本の1冊としてスコット・マクナイト先輩がNT Wright vs. Apocalyptic Theology: How Adams Goes Wrong about Wright の中であげられている3冊の本として Surprised by Hope Simply Christian  あるいはAfter You Believe? を例としてあげておられるが、その中でもあげられている本のSurprised by Hope の中ではTheocracyという言葉で示しておられた。このTheocracyという語は、通常の場合、教会というか教会の背景にする人々が政治を牛耳るというイメージがつきまとまっている言葉であるが、本来、キリスト教界は、神が中心であるという意味で、教会を通して神の国の世界、神の支配の世界、即ちTheocracyで存在することを示すべきではないか、というご主張であったと思う。教会やキリスト者が、国家の政治の中で大きな顔をする、ということではなくて。


     なお、個人的に政治の素人であるキリスト者が政治家になったところで、ろくなことが起きないことは、歴史が示していると思う。まぁ、政治にかかわるということは、かなりの力量、アルテ、思考と現実感覚と、経験が求められると思うのだ。
     

    神が用いた変な人の実例
     旧約聖書の人物、士師記に出てくる人物などに関して、教会で語られる時、そのポジティブにとらえることができる側面だけが取り上げられ、その人物のまずい側面は、さすがに意図的にではないだろうが、時間の関係で触れられないことが多い。その結果、これらの人物のスーパーマン的活躍をした側面だけが語られ、その人のネガティブな側面が描かれないことがあるが、新約聖書の人物でも、結構奇人、変人が多いのである。そして、それさえ用いているのである。そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    しかし、自意識過剰で、洗練さにかけた型破りなそういう人々の中に、神の仕事を大きく成し遂げた人々がいたことも認めなければならない。救援団体を作り、飢えている人々に食事を与え、良き知らせを明らかにする。この姿は、聖書が明瞭に示しているものをそっくりなぞっている。すぐに道を踏み外すヤコブ、道徳的に欠陥のあるダビデ、陰気なエレミヤ、かつて暴力的だったタルソのサウロ、大失敗を犯したペテロを神は用いられたのだ。(同書 p.158)
     まともな人であることや常識的な人が神に用いられるというような条件は、ヤンシー先生ご指摘のように、全くない。まぁ、預言者や預言者的役割を担う人の人生には、基本的にろくなことがまっていないので、常識人や、世間からまともだと思われる人ではないことが多い模様である。マザー・テレサは、常識人ではなく、周辺の皆様にとって困った存在であったエピソードには事欠かない。現教皇のフランシス猊下は、周辺の反対を押し切って、結構いろんな想定外のことをなされておられるので、教皇庁の常識人の人は困っておられるのではないか、と思ってしまう。まぁ、半端ない現教皇のフランシス猊下ではあるが、個人的には、こういうのは非常にいいなぁ、と思う。まぁにイエスがしたことは、こういう人を驚かせるようなこと、将に福音とは、常識をぶち破って見せたところにあったのではないか、と思うのだ。


    ローマの少年院の収容者の足を洗いキスするローマ教皇フランシス様


    教皇フランシスが受刑者の足を洗ったことを伝えるCNN報道


     日本でいえば、こういう常識人の枠組みではとらえきれない人物の一人で、大正期から昭和初期には、ガンジー・シュバイツァー博士と並ぶ世界の3大偉人に数えられ、一時はノーベル賞候補にも挙げられたた賀川豊彦先輩がおられる。

     いろいろ楽しいことをシェアしてくれる友人の一人が、「賀川豊彦と神の国」研究に現在取り組んでいるのだが、まぁ、ときどき、お手伝いしているJAさんの前身の組織だの、日常的にお世話になっているコープさんだの何かとかかわりが深い人物ではある。

     まぁ、賀川先輩もある面、「洗練さにかけた型破りなそういう人々」のおひとりではあったとは思う。だからこそ、まぁ、当時の閉塞感をぶち破ったり、ぶち破れたりもしたのであろうが。


    賀川豊彦先輩の活動とお写真(雲柱社さんのサイトから転載)

    まだまだ続く




     
     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:非常に良いと思います。

    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-05-30)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    上野 千鶴子,柄谷 行人,山下 範久,鈴木 一誌
    太田出版
    ---
    (2009-04-02)
    コメント:大変良かったと思います。

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