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2015.12.12 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(17)

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     本日もまた、フィリップ・ヤンシー先輩のお書きになられた隠された恵みからご紹介してみたい。

    賞味期限付きの『繁栄』

     個人的には、『繁栄の神学』とよばれるものが大嫌いである。キリストを信じればすべてうまくいく、キリストを信じたら、祝福がある、キリストを信じさえすれば成功者になれる。そんなバカなことはあり得ないと思っている。キリスト教信仰は、困ったときには、○○書の●章◎節を読めばいい、とか、祈ればきっとかなえてくださる、というような単純化されたハウツーではないと思うのだ。

     もしそんなことで解決がつくなら、そもそもヨブ記はいらないし、ヨナ書もいらない。正しい人であっても、苦しむし、その中で神と向かい合っていく、あるいは格闘するプロセスだし、正しくないものでも、不十分なものでも、神に怒りを発するものでも、神がお持ちいになることがある、とそれらの個所は約束しているのではないだろうか。
     そのあたりに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。

     まるで優れた信仰こそが人を特権階級に押し上げるとでもいうように、社会的地位のある人が、より高い生活レベルや富や健康について大げさな約束をしている教会を訪れたことがある。そのメッセージが奏功するのは、現実に直面するまでのほんの一時だろう。 (「隠された恵み」 p.144)
     個人的には、このようなことを主張する教会があるやにお聞きするが、このような教会は避けて通っている(この辺に関するセンサーというか、感覚が異常に発達していて、避けているかもしれない)けれども、そういうことをご主張になっておられる教会が少なからずあることは明らかである。

     ナウエンは、イエスの人生は下っていく生活であったということを書いている。もともと、神であるものが人間の中にくだり(これは、本来のあるべき神の姿としての権能を放棄し、くらいの意味だと理解している)、さらに、人からうとまれ、忌むべきものと呼ばれ、偽預言者扱いされ、罪びと呼ばわりされ、大工の子呼ばわりされ、罪びとの仲間といわれ、大酒のみの食いしん坊と悪口をたたかれ、挙句の果てに国事犯扱いされ、十字架上で一種の残酷な見世物として刑死するに至る。そして、よみ、あるいは地の深みまで、死後においても下られたようである。

     十字架上で突然復活し、怪我も傷もなく、鞭打たれた跡もなく、茨の冠の後さえ消えていたわけではなく、トマス君に、「ほれ、手のここ突っ込んでいいよ」とお見せになるほどの傷を負って、復活されたようなのだ。詳しいことはあんまり書いてないのでよくわかんないけど、傷を見たということは確からしい。その意味で、イエスさまはスーパーマンでもなく、ファンタスティック・フォーのようでもなく、クリックフィックスしか考えないスーパーグローバーのようでもなかったのである。


    Sesami Streetの登場人物 Super Grover


    Super GroverとComputer

     ミーちゃんはーちゃんは、計算機が不調の時や、書いたプログラム・ファイルが全部消えちゃったというときには、このGrover君のように計算機の周りで叫び声をあげながら走り回ったりすることはある。それで、作成したプログラムが回復したことはないが。

     あるいは、計算機が動かない時や、熱暴走するときには、ワバワバと繰り返しながら計算機の周りをまわって遊んでみることがある。むろん、それで勝手に正常に戻ったりはしない。

     聖書の言葉も似たようなところがあると思う。前にも書いたかとは思うが、聖書は、神との関係を人間が深めていくための文章体系ではあっても、計算機を含む機械と人間の関係を深めていくための書物でない。計算機が故障したときに有効な聖書個所があったら、教えてもらいたい。自分の計算機用に張っておきたいので。聖書の言葉にも用い方があると思うし、いくら聖書の言葉が正しいからといっても、間違った問題(計算機の熱暴走)に対して聖書の言葉「静まれ」と日本語で言おうとも、ギリシア語で言おうとも、ヘブライ語かアラム語で言おうとも無効であると思うのだ。言ったところで、作動しないPCの前でワバワバと踊り狂うグローバー君と大して変わらない。

     ヤンシー先輩もお書きのように、虚勢を張った信仰をもてばうまくいく的な「そのメッセージが奏功するのは、現実に直面するまでのほんの一時だろう」というのはその通りだろうと思う。現実が立ちはだかると、いろいろ理由をつけて、たとえば、「祈りが足らない」とか「聖書の読み方が足らない」とか、「あなたに敬虔さが足らない」とか、(時には「献金が足らない」とか)いろいろある種類の教会ではご教示賜ってもらえるようであるが、聖書にはそれらに対して、「異邦人の祈りのように言葉数が多ければ聞かれると思って祈るな」とイエス語自身が言っておられるように思うのだが。

    旅人の集まりの教会

     さて、前回、前々回出たウェルチ嬢の話が出てくる。教会とは何かということに関してウェルチ嬢の言葉を利用しながら、ヤンシー先輩は次のようにおっしゃっている。本来『正しい人々の集まる会員制クラブというより、自分たちと変わらない葛藤を抱えている、普通の信仰の”旅人”たち』なのではないか、というご指摘である。
     ウェルチは、何が人のこころに届くかを明らかにしている。教会に集い続けクリスチャンのことがわかってくると、正しい人々の集まる会員制クラブというより、自分たちと変わらない葛藤を抱えている、普通の信仰の”旅人”たちに見えてきたのだ。”旅人”はプロのガイドではなく、魂の旅の途上にいる仲間である。(「隠された恵み」 p.144)
     ところで、「魂の旅の途上にいる仲間」という表現で、以下で紹介する本が浮かんだのだ。


    『旅の仲間』というとこれが真っ先に浮かんだ

     個人的には最初高校生のころ読んだが、非常に印象深い作品であった。指輪を見つけに行く旅をするのではなく、持っているもの、魅力的であるが、また力があるものであるが、それを捨てに、廃棄するために、非常に多くの困難にぶつかりながらそれをわざわざ廃棄するという現代社会の価値観とは逆方向に向かう物語であると思う。まぁ、最初読んだころは、ルーン文字や妖精などの西洋文化の基礎体力がなかったためによく理解できなかったが、今では、トールキンがなぜこの大作、サーガを書こうとしたのか、ということがわかる気がする。

     生きていくということは、まさに、指輪物語の世界そのものではないが、この世界で経験することと割とよく似ていることが、40歳を過ぎたころから突然わかるようになったのだ。


    まぁ、こういういろんな方々と旅をするのは、結構つらいかもしれない

     「”旅人”はプロのガイドではなく、魂の旅の途上にいる仲間である」というヤンシー先輩のご指摘は、非常に大事だと思っている。結局、迷っている人たちが迷っている人たちと一緒に戸惑いながら歩き回っているというのが、教会の世界だ、とヤンシー先輩はお示しなんだと思う。

     迷っている人々が迷っている人々とともに居ること自体は、ある面、ヨブ記のテーマであると思うし、旧約聖書そのもののテーマであると思う。しかし、近代を経た現代は「超人」、人間でないものを求めているように思うのだ。上で紹介した、スーパーグロバーの様なへなちょこな超人ではなく、何でもでき、何でも持っていて、何でも理解できる著人を求めているのだろうと思う。それを人に求めているように思う。それが、近代人を苦しめ、現代人も苦しめているのだろうと思う。

     近代にも、こういう強いリーダー像が求められた時代があった。お近くでは、将軍様がそうだったとかいう噂はあるし、文革時代の毛主席は北京放送を拝聴していた限りでは、こういうお方だあると放送されていた時期がある。ライブで聴いていた。もうちょっと前にさかのぼれば、ヒットラー総統は、ある時期のドイツ人社会においてそれに近い扱いを受けていたようだ。こういうのを上げるときりがないので、この辺でやめておくが、まぁ、所詮、そういう完璧さを人に求めるのは土台無理だと思うし、少なくともミーちゃんはーちゃんには無理ゲーである。

     牧会者についても似たようなものであると思う。信徒が期待するからとか、そういう風なものとして教会が歴史的にとらえてきたとかいう伝統とか、まぁ、いろいろおありになるのだろうけれども、ミーちゃんはーちゃんが仲良くしてもらっている牧会者の方々は、結構お悩みを抱えておられると御見受けしている。でも、個人的には、そういうところで親近感を覚えたりするし、そういう姿をちらっと見せてくださるのは、個人的には有難いなぁ、と思うのではある。

    神のもとに帰る登場人物として

     先程、指輪物語を紹介し、その深みとか、意味とか、持っている力を手放す物語であることの意味を考えていることを書いたが、ヤンシー先輩は、人間の存在について、このように書いておられる。
     ウェルチの心に残った説教の中心にあったものは、明らかに彼女が神の「メビウスの輪の愛…あなたのすべてが暴かれてもひるまない」と呼ぶものだった。疲れ切った世界は、信仰の”旅人”に共鳴する。私たちはみな人間で、みな痛んでるのだから。病気になり、愛する人々を失い、むなしい仕事につき、誘惑と戦い、子供を怒鳴り、大切な人を傷つけ、間違った選択をする。イエスに従うものは、自分たちが道徳的に優れているなどと主張しない。そうではなく、むしろどうしようもなくなり神のところに行き、絶えず助けを叫び求め続けなければならない存在である。(同書 pp.144-145)
     メビウスの輪とは、一枚の細長い紙を1回ひねって、その両端の端を重なるようにテープでとめると完成する構造体である。「おもて」だと思って進んでいると、いつの間にか「裏」になり、裏だと思っているといつの間にか表になっているという位相幾何学の面白い構造を持つ構造体である。

     まぁ、メビウスの輪の愛とはよく言ったものである。人間は表や裏だと勝手に決めているが、実際には表も裏もなく、全体がそのものであることをうまく示していると思う。


    メビウスの輪

     ヤンシー先輩がお書きの、この部分を読んだとき、あぁ、まるで旧約聖書の世界だ、と思ったのだ。旧約時代の人物にもろくでもない人が多い。次回紹介するが、ヤンシー先輩もそのことに触れておられるが、「病気になり、愛する人々を失い、むなしい仕事につき、誘惑と戦い、子供を怒鳴り、大切な人を傷つけ、間違った選択をする」人々が、旧約聖書の登場人物像のある側面であるのだ。旧約聖書は、教会で取り上げられることはあまりないらしい。まぁ、解釈が多様で、解釈しにくいから、という面もあるのかもしれないが、個人的にはそこに含まれているメッセージは非常に重要だと思うのである。

     知り合いの英国在住者が教えてくれたことであるが、ある教会で、たまたまイサク(Isac アイザック 英語圏では割とよくある名前)がいけにえとして神の山でささげられる場面の話をしていたときに、ある英国人が入ってきて、「今、話がされているアイザックって、この辺にいるどのアイザック?」とその教会の教会員に聞いたという話があるが、英国でも旧約聖書の知識というのは、かなり普通の人から遠い話になっている模様である。

     ある説教者の方が、日本のキリスト教は新約聖書詩篇つきの信仰だ、とご自身の過去と現在を揶揄しながらお話ししてくださったことがあるが、文字通り、新約聖書と詩篇だけを読むという人はまぁ、あまりいないだろうが、旧約聖書を読むのは、実は案外骨が折れるのである。無味乾燥に思える出エジプト記の一部、申命記、民数記、奇妙なことがいっぱい書いてあるレビ記、残虐行為にあふれているに見える士師記、結構現代の感覚からは触れにくい部分が多いことは確かである。それで説教してくれ、と言われたら、個人的にひるんでしまいそうになる。時に残酷、時に愚かしさ、時に正義、時に混乱を感じる単純でない世界が旧約聖書の世界だと思う。それを理解しやすい部分だけ読み、それを聖書理解とするのは、どういうことだろうか、と思う。

     ここで、ヤンシー先輩がお書きであること、即ち「むしろどうしようもなくなり神のところに行き、絶えず助けを叫び求め続けなければならない存在である」というのは、まさに旧約聖書の物語であり、その旧約の民に、「イスラエルよ、われに戻れ、我に来たれ」、といい給い続けたのが、父なる神であったように思う。それは今も変わっていないと思うし、ふがいないキリスト者に「われと共に生きよ」「われともに住まわん」と聖霊を改めて神の民に与え、吹き込まれ給うたのが、神ではなかったかと思うのだ。

     この間、ある勉強会で、「からだとたましい」ということに関してディスカッションする機会があり、旧約聖書における「からだ」あるいは「たましい」をどう考えるかというが話題になった。נָ֫פֶשׁ (ネフェシュ)という語の用法から我々の「たましい」理解に潜む問題を取り上げてくださったK先輩がいて非常に面白かったのだが、将に、我々というか、神のかたちとしてのわれわれであるנָ֫פֶשׁ (ネフェシュ)が神を求めて生きることや、あるいは”霊の体”の理解と、この נָ֫פֶשׁ は非常に深くかかわっていると思ったのであった。その意味で、我々のLife after life after deathをどう考えるか問題に、この語が深くかかわっていることをおもった。また、谷川のシカが求めるように求めているのは、まさに、神の臨在であると思い至った。非常に良い半日を過ごさせてもらいました。K先輩ありがとうございました。

     なお、この問題は、オートバーグの最近の翻訳書 「神が造られた「最高の私」になる 」の主要テーマである。この本もいいので、いずれ紹介したい。

    まだまだ、続く




    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    J.R.R. トールキン
    評論社
    ¥ 756
    (1992-07)
    コメント:非常に印象深い本であった。

    評価:
    ジョン・オートバーグ
    地引網出版
    ¥ 2,592
    (2015-11-10)
    コメント:人間になるということはどういうことかを聖書から考えた本

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