<< いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(15) | main | いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(17) >>
2015.12.09 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(16)

0

     
    Pocket

     今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日はキリスト教徒とその屈折した内実や教会が他の組織と違っている意味などについての関係についてである。


    ファルウェルのグループへの
    潜入取材の本から

     ジーナ・ウェルチというリベラルな家庭で育ち、リベラルな教育を受けた女性のルポ・ライターの方がおられるようである。この方が、ジェリー・ファルウェル先輩(先輩と呼ぶのは気がひけるが、一応先輩)の組織に取材目的であることを偽って潜入して『信仰者たちの土地でーアウトサイダーによる、福音派教会のただ中への普通ではない旅』(In the Lamb of Believer's: An Outsiders extraordinary Journey into the Heart of the Evangelical Church)という本をお書きになられたことを受けて次のようにお書きである。

     このジェリー・ファルウェル先輩は、「核戦争を待望する人々」を扱ったシリーズ

    読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第1回)

    読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第2回)

    読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第3回)

    読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第4回 最終回)

    でご登場いただいた方である。


    故ジェリー・ファルウェル先輩(一応)


    ジーナ・ウェルチ嬢(ツィッターから)

     日本ではあまり話題にならないが、ジェリー・ファルウレルJr(上のファルウレルさんの息子さん)はLiberty Universityの学長らしいが、サン・ベルナンディーノ(現地人は、こう発音する傾向がある)の2015年12月の銃撃戦後のCNNのインタビューに答えて、“I always thought that if more good people had concealed-carry permits, then we could end those Muslims before they walk in and kill,” とまで言い出されたらしい。ソースは、マクナイト先輩のブログ記事である。


    ジェリー・ファルウレル Jr. 先輩(一応)

     ところで、以下はヤンシー先輩がお書きになった部分である。
     『信仰者たちの土地で』の制作上における倫理観の問題はさておき、外部からていねいに分析されることの少ない独特なグループの内実を、ウェルチは魅力ある筆致で知らせてくれている。彼女の本を読みながら、まさにそのような環境、つまり著者とは正反対の環境の中で育った私自身の過去を思い出した。私は厳格な原理主義者しか知らなかったといえる。すぐに決まり文句と化すクリスチャン用語を学ばなければならなかったし、今度こそこの気持ちは本物かといぶかしがりながら何度も前に進み、霊的な祈りに聞こえるように発声練習をし、厳粛な洗礼や聖餐式などが行われているあいだ、自分に感情が伴っていないことに悩んだ。子供のころから教会で育った人々や、真実を見極めようと教会にやってくる人々も、そのような危険に直面する。つまり、現実を偽って伝える姿勢が身についてしまうかもしれないのだ。(隠された恵み pp.142-143)

     この部分を読みながら、まず思ったのは、「外部からていねいに分析されることの少ない独特なグループ」という表現である。確かに、このグループの人たち(ファルウェルのグループだけでなく)は外部に対して余りオープンでないことが多いし、自分たちの主張は伝えることには、以上にといってよいほど熱心である人々が多いが、取材しようとすると、批判されるのではないか、悪いことを言われるのではないか、という怖れを強く抱いておられる方も少なくないらしく(第14回の記事で述べたように世間と比べて、ことほど左様に違うわけではないのだが)、なかなか取材対象にしにくいらしい。とはいえ、もし、自分たちに自信があるのなら、別に恐れる必要はないし、批判されるのを畏れるのではなく、対話をすればいいのに、それができないのはどうしたわけだろうか、と思う。

     一番、あぁ、やはりヤンシー先輩もうそうだったのか、と思ったのは、「すぐに決まり文句と化すクリスチャン用語を学ばなければならなかったし、今度こそこの気持ちは本物かという歌詞がりながら何度も前に進み、霊的な祈りに聞こえるように発声練習をし、厳粛な洗礼や聖餐式などが行われているあいだ、自分に感情が伴っていないことに悩んだ」という部分である。

     いちど、知り合いの小学校低学年くらいのお子さんが、大の大人である伝道者に向かっていわゆるキリスト教用語である「お交わりをお願いします」というのを、他の大人が、「いやぁ、信仰深い」とほめあげるのを聞いたが、個人的には、吐き気を覚えたことを記憶している。どう考えても、気色悪いと思う。まともな日本語も使えない子供が、いわゆるキリスト教の業界用語を使えることをよしとするというのは、英才教育とかいう枠でとらえられるかもしれないが、何なんだろうと、その時も思ったし、今も思う。まぁ、知り合いの穏健なペンテコステ系の教会の牧師さんが教えてくださったことによれば、アメリカでは一時期、5歳児や6歳児の伝道者(要するに純粋な子供には聖霊が働くということが想定されているようである)がいたというのであるから、それから比べれば、まだましとは思う。

     ある面で、霊的なことが豊かにあるふりをすることは、食品偽装ならぬ、霊性偽装であると思う。それってどうなん、って思ってしまう。じゃぁ、親とか、教会の期待をひしひしと感じながらそういう偽装工作をしたことがないか、というと、ミーちゃんはーちゃんもしたことがある。それは素朴に認めたい。でも、そういう霊的ぶりっ子は、疲れるので、めんどくさがりのミーちゃんはーちゃんはあっさり割と早い段階でやめてしまった。だって、自分が自分を、他人に偽るのは、十戒から考えて、どうもモーセ爺さんに怒られそうかなぁ、と思うので。大体、神様はそんなことくらいお見通しであるから、やめたのである。



    ぶりっ子アナウンサーとラベルがはられた方


     ミーちゃんはーちゃんは割と単純なので、特段、霊的に聞こえる祈りをしようと思って、祈る時の特別の節回しを覚えたり、必要以上に聖句を引用し たり、祈りの中で福音を語ったり、ということはあまりないが、海外では、独特の節回し(祈りのことばの抑揚を変える)で祈る人もいたし、祈りの時間が長い人がいたり、国内では、10分以上祈る人の場合、ほぼ聖書メッセージの長さと内容に匹敵する祈りをお聞かせいただいたことはある。

     こういうことを努力して身につけなければならない、一種猫を被らなければいけないキリスト教とは何か、というのは少し思ってしまう。もちろん、形から入るキリスト教を否定するつもりはないし、それはそれで有効性があると思うが、その内実が理解されないまま、形だけ継承されていくこと(これは実は日本の得意技でさらに、外形にあうように内実の解釈を勝手に変えて継承することが多い)は、どうなんだろうか、と思う。

    オートバーグ先輩の
    「神が造られた「最高の私」になる」を読みながら

     上に書いたたようなことを思っていたところ、最近読み始めた、オートバーグさんという方の「神が造られた「最高の私」になる」という本(さちさん、地引網さん、ありがとう)を読んでいたところ、このような表現に目がとまった。
    誰もが、あなたに変わってほしいと思っています。上司は、あなたにもっと生産的になってほしいと思っています。(中略)クレジットカードの会社は、あなたがもっと借金を作ればいいと思っています。テレビ局は、あなたがもっとテレビを見ればいいと思っています。(中略)誰もがあなたから何かを求めています。これは、ほかの人から期待されている自分です。
     この自分になろうとして一生を送るなら、私は決して自由になれません。人々を愛するときには相手を失望させることも分かっていることです。イエスはすべてのひとを愛しましたが、それは、ある時点ですべての人を失望させたということです。ほかの人から期待される自分になろうとしながら生きるなら、それは上辺だけの人生です。あなたがどのように変わるべきなのかを知っているのは、神だけです。(「神が造られた「最高の私」になる」p.43-44)
     ここで、オートバーグ先輩は、他人の期待に沿って生きることは望ましいことなのか、ということを問うておられる。非常に重要な問いであると思う。日本社会のように同化圧力の強い社会であればある程、この問題は重要な問いを生みだす。これが当たり前、あのようにあるのが当たり前、それが人間の理想である。これが世間の常識である、とはよく言われる。しかし、その常識の体系はナザレのイエスの前に通用しなかったのではなかったであろうか。

     また、愛するということと他者を失望させることとの関係の部分を読みながら、ゴータマ
    ・ブッダは、「愛」は「苦」の原因の一つであると言っていたことを、仏教思想のゼロポイントで指摘されていることを思い出した。会う面、ブッダは正しかったのである。まさに、「人を愛する」のは「失望させる」という輪廻あるいは作用・反作用の世界に引きずり込まれることになる、として、愛することに関して仏陀はいった背景がこのあたりにあるような気がする。

     それはそうと、他人が求める自分の姿になることは、人間の自由を束縛するのだ、それは上辺だけ繕うことになるのではないか、と書いた後、さらにオトバーグ先輩は続ける。
     あなたでさえも、自分がどのように変えられるのか、自分で決めることはできません。なぜなら、あなたを作ったのはあなたではないからです。誰かを愛するとは、その人が最高のバージョンの自分になることを望み、そのために援助をすることです。あなたのためにそれを完璧に成し遂げることができるのは、この世界で唯一、神だけです。神にはそれ以外の狙いはありません。(「神が造られた「最高の私」になる」p.44)
     まぁ、ここで、「最高バージョンの自分」という語は、「もっとも望ましい神がつくられた本来の神のかたちとしてのその人の姿」であるということだとは思うが、その人らしい人間のかたちに対して、自分でも決められないし、さらに言えば神でもない人間、鼻で息するものでしかない他人さまがあれこれ言うことではない、とオートバーグ先輩はおっしゃっておられる。なるほど、と思う。さらに、
    (引用者注 ある調査によれば)人々の霊的成長を助けるときに一番困るのは、ほとんどの人が、霊的に成熟するとは聖書の中にある規則を守るために頑張って努力することだ、と思っていることだそうです。(中略)神が規則に従う人を求めておられると考えるなら、霊的成長とは、私の心の願いではなく、義務にすぎないものになってしまいます。
    (中略)
    規則を守り、願いを押し隠し、聖書を読み、感情をコントロールする、そういう独善的な人を生むだけで、それは「私」とは似ても似つかないのです。(「神が造られた「最高の私」になる」p.44-45)
    とお書きであるが、「規則を守り、願いを押し隠し、聖書を読み、感情をコントロールする、そういう独善的な人を生むだけ」とはまさに、山崎ランサム和彦さまが、最近のブログ記事 確かさという名の偶像(24) でお書きであったように、Human Beingである人間をHuman Doingにしてしまったと批判した、まさにボイド先輩のご批判のようである。さらにこのようにもお書きである。まさに、ボイド先輩が、聖書の契約概念は基本的には、人格的関係性であるけれども、それをある一部の人々は法的関係性として理解することで、非常に規則的な平板で人を裁き、おそれさせるものにしてしまったとご批判のこととパラレルだと思うし、ヤンシー先輩は、こういう独善的な人々が、これまで、このシリーズ フィリップ・ヤンシーに学んでみた でもご紹介したように、神の光輝く恵みを消失(Vanising)させてしまった、意図はしていなかったかもしれないが、隠してしまったとご批判であった。そのあたりのことに関して、オートバーグさんは、次のように書く。
    恵みを十分に味わっていないのです。自分の霊的健康度を評価するのに、人々は往々にして、外から見える行動や霊的な活動を基準にします。聖書を読むために、ちゃんと早起きしているか、ディボーションにどれだけ長く時間をとっているか、教会での礼拝にどれだけ出席しているかといったことを基準にするのです。しかし、霊的形成とは、そういうことではありません。(「神が造られた「最高の私」になる」p.46)
     こういう教会出席回数や、毎週来るとか、来ないとかいったことや、遅刻するとかしないとか、朝早く来るから熱心だ、とか、こういうことを基準にするのは、産業化時代、あるいは近代の非常に悪い癖であると思う。それが単に計量がやりやすいためである、ということを忘れているのではないか、と思うのだ。そもそも、何のための霊的形成か、ということを忘れて、やりやすい方法、考えやすい方法で測ることは、間違った問題を一生懸命解くというシステム思考法で言う第三種の過誤を起こしているにすぎないと思うのだが。

     しかし、ユースのキャンプとかに行くと、まずもってこういう話題が先に立ち、人間そのものよりも、人間が実施する行動という捕捉しやすい、指標化しやすいことだけで議論が進むという一部の動きはあるようである。残念なことではないか、論理が逆立ちしているのではないか、と思うのだ。そもそも、古代教会の人たちは、まともに聖書など読めないのである。能力もなければ、写本にも満足アクセスできなかった人々である。こんな、聖書を毎日読むなどという習慣は、そもそもやりたくてもできなかった人たちなのであり、その人たちが基本的に無理だったことをしないと言って批判する人々のうちに、「我々は初代教会に近い形で教会運営をしている」とのたまう人々がおられるが、それってダブルバインドメッセージなんじゃない?と思うのである。まぁ、よそ様のことなので、おすきにされたらよろしいとは思っているが。

    毎週集まれる場所がある、
    毎週いける場所があるという魅力

     ところで、普段から教会に行くことがミーちゃんはーちゃんの習い性になっている関係もあり、特段それがありがたいことだ、と思ったことはないのだが、そういう習慣がない人にとっては、毎週末定期的に行く場所があること、また、自分の日常生活と違う価値概念を持っている人が普段の価値概念と違う価値観を共有する人々のコミュニティの存在というのは実は非常にありがたい存在らしい。リベラルの権化のようなウェルチ女史という人がそれを非常に羨ましく感じた、ということは個人としては意外であった。
    ウェルチは結局教会を去るのだが、この話は教会の外の人とコミュニケーションをとる最良の方法を示している。彼女にとって、トマス・ロード・バプティスト教界の教会政治は人を寄せ付けないものであり、その神学は不可解そのものだった。こうした障壁があったにもかかわらず、このコミュニティーには牽引力があった。彼女はこう書いている。「何よりもクリスチャンをうらやましいと思ったのは、神の事ではなく、毎週集まれるコミュニティがあるということでした。教会は、価値観を共有する人々の基準となるところであり、いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所、倫理基準が思い起こされる場所で開いた。孤独から守られる場所があること、自分と同じような人々の存在を感じられるところがあることは本当にうらやましかった。
     教会は、とりわけスモールグループや宣教チームの仲間なので、最も重要なことについて臆せず話せる場所を提供している。職場やホームパーティーで同じことをするのは難しい。(隠された恵み pp.143-144)
     確かに、価値観の話は、居酒屋や職場、食事の場では、場の雰囲気を確実に悪化させる話題の一つであり、激論が起き、気まずい雰囲気を長期にわたって漂わせる爆弾のようなものである。アメリカでも、政治と宗教は話題として避けることになっていたように思う。まぁ、そういう場でも聞かれたら答えてはいたが。

     従来、日曜日に教会に行くことに慣れ過ぎていて、それがありがたいことだ、と思ったことはなかったが(まぁ、空気みたいなものになっているので)、知人から、毎週日曜日行くところがあっていいよなぁ、と言われたときに、そんなものかと思っていたが、どうもそういう環境にない人にとって実は、かなりうらやましいことらしい。この部分を読みながら、そんなものか、と思ってしまった。
     
    Rachael Held Evansの本から
     さらに、Rachael Held Evansは、彼女が教会に行かなくなり始めたころの経験についてSearching for Sundaysの11章 (同書 pp.80-81)では、次のような感じのことが書いてあった。要約しつつ紹介してみたい。
     教会を去ってからの最初の数カ月、主人と私は、異教徒が日曜日にしているといわれてきたことをまさにしたのである。つまり、朝遅くまで眠り、パジャマ姿のままMeet the Pressというテレビ番組を見、パンケーキを焼いては深入りのコーヒーを飲んだのである。その後New York Timesのクロスワードパズルを解いたのである。

     日曜日に教会に行くのをやめたクリスチャンたちが、安息日を体感することは知っていた。実際教会から抜けることは厄介な仕事から一抜けたになることや、インターネットを触らないようにネット環境から外れることと似た効果を持ったのである。一日は長く感じ、非常にカラフルに感じるのである。

     そして、最初の数週間は、趣味を始めてみたりするのだが、そのうち、気がついてみれば日曜日の朝に人気番組をネットの動画サイトで見るようになる。移行するのは案外早いのである。そして、日曜日には、知人に会わないように10時から11時の間にスーパーに行ったのであった。
     まぁ、そんな感じになってしまうのだろう。

     ところで、ヤンシー先輩は、教会が、「いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所」であると語っておられるが、個人的な経験から言えば、としか言えないが、日本の教会の多くでは、とりわけ、親しいコミュニティになればなるほど「いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所」という経験をお持ちのことは案外少ないように思う。不用意に自分の直面している問題について率直に語ったら、『食らえ、御言葉攻撃』だけならまだしも、相談した本人自身に関するあらぬうわさが『祈りの課題』ということで流されてしまい、あとで、火消しするのが大変だからである。『お祈りのうちに覚えてください』とでも、教会で言ったことについて、尾ひれがついて、しばらくして、ひょんな人から、とんでもないことになっていることにある、という自分自身の状況についての話を数ヵ月後に聞くことになり、その誤解を解くのが大変なことも少なくなかった。万人祭司だ、とご主張なら、もう少し、祭司としての心得(他人の秘密やプライバシーに関しては守るという基本原則)が守られればよいのだが、とは思うのである。

     かえって海外のスモールグループでほうが、「いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所」ではあったように思う。情報が漏れたことにも気づきにくいという側面もあろうが、ミーちゃんはーちゃん自身が言っていたスモールグループでは、情報漏れはほとんどなかった。たまたま、いいスモールグループだけだったから、というのはあるかもしれないが。

     ある面、スモールグループで語った内容がフローで流れている問題として理解してもらったという部分もあるし、せいぜい滞在期間が1年と限られたこともあったのだろうが、問題を抱えていることで、判断されることはなかったように思う。別のところで何か言われて驚くほど長期にいなかったというのもあるが。まぁ、基本アメリカ人は平均7年で住宅をころころ動く(そして、自分で手を入れて、不動産価値を上げて売りぬけをし、利益を得るような、地上げ行為を居住者自らが行い、小金を稼ぐのは普通のことであることが多い)ので、漏れたところで気にならない、というのもあるかもしれない。ところが、日本で3年以上教会に通い続けると、ほぼ数十年、その教会に通う人が多いため(まぁ、最近では会社の都合による転居も昔に比べて頻繁にはなった)、多少は楽になっていると思う。

     まぁ、教会でも、聖書理解の共通理解がないと、かなり込み入った聖書理解の点で違いが出てくることになるし、それが様々な教会運営の場などで出てくることにもなりかねず、居心地の悪い思いをする場面も出てくることになりかねない。同じ神を礼拝しながらではあるが。

     そのため、空間的に離れていることや主に利用する言語の違い、民族的な違いもあったからではあるが、西方教会と東方教会は分裂し、西方教会の中でもカトリック教会とプロテスタント派は分裂し、プロテスタント派はその中でさらに再分裂していく。聖書理解が違うと、同じキリスト教会に分類されるとはいえ、ここまで違うか、というくらい、教会グループ間で違いがあまりに大きいと思う。それは、教会を簿っ介しておられる牧師さんの聖書理解の個人差というよりは、どの時期にそのキリスト教グループがもといた教会群から分離したのか、の影響が強いように思う。そして、それが歴史的に再生産されて固定化されているのではないか、と思うのだ。


     まだまだ続く



     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めいたしております。

    評価:
    ジョン・オートバーグ
    地引網出版
    ¥ 2,592
    (2015-11-10)
    コメント:非常によろしい、と思う。お勧めする。

    評価:
    Rachel Held Evans
    Thomas Nelson Inc
    ¥ 1,564
    (2015-04-14)
    コメント:英語も読みにくくはない。中身が読ませる。内容が面白い。同性婚反対問題で教会と対立し、教会を離れることになった熱心な元福音派クリスチャンの思いが素直に表れている。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM