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2015.12.07 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(15)

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    今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日はキリスト教徒と創造的な働きの関係についてである。

    ヤンシー先輩によるN.T.ライト先輩の本の引用

     キリストに従うものも、地上で生きる。そのために仕事をする。様々なことをたしゃのためにする。それが、キリストの言った神の国の民に求められていることだ、とライト先輩は言っておられる部分をヤンシー先輩は引用しておられる。
    N.T.ライトはそれを(引用者註 他者に仕えることによって神による神の国を建て上げることへどう関与していくのか)具体的に説明している。「現在あなたがしていること、絵を描く、説教、歌う、縫物、祈り、教える、病院の建設、井戸の掘削、正義を求める運動、詩を書く、困っている人を助ける、隣人を自分自身のように愛することは神の未来にも続くだろう。これらの事は、私たちがこの世を去るまで、単に現世での痛ましさを和らげ、耐えられるようにするばかりではない。神の国を建て上げるものの一部なのだ。」付け加えるとしたら、それらは、この世界に恵みを示すという私たちに託された使命の中心にあるものである、ということだ。(隠された恵み p.129)

     この部分は、N.T.ライト先輩のSurprised by Hopeの12章Introductionからの引用であるが、原文はこうなっていた。[]内は、引用されていなかった部分である。
    [God will raise it to new life.  What you do with your body in the present matters because God has a great future in store for it  And if this applies to ethics, as in I Corinthians 6, it certainly also applies to the various vocations to which God's people are called. ] What you do in present--by painting, preaching, singing, sewing, praying, teaching, building hospitals, digging wells, campaigning for justice, writing poems,caing for the needy, loving your neighbor as yourself--will last into God's future.  These activities are not simply ways of making the present life a little less beastly, a little more bearble, until the day when we leave it behind altogether [ (as the hymn so mistakenly puts it, "Until that day when all the blest to endless rest are called away"]). They are part of what we may call building for God's kingdom. (Surprised by Hope, p.193, Capter 12, Rethinking Salvation: Heaven, Earth, and the Kingdom of God, Harper One )
     なお、ライト先輩が引用しておられる歌詞 Until that day when all the blest to endless rest are called away は、多分これだろうと思う。以下の動画の3分41秒あたりに出てくる。イタリックは原文のままである。

    N.T.ライト先輩があげておられる讃美歌、Christ is our corner stone(キリストはわが礎石).

     実は、このヤンシー先輩がN.T.ライト先輩のSurprised by Hopeから引用されていた部分は、非常に印象的な文章とご主張の内容であったので、ミーちゃんはーちゃんも原著を読んだ時に、ものすごい衝撃を受けた印象を持っていた。ヤンシー先輩もあぁ、同じところを大事だと思われたのだなぁ、ということを改めて思った。もちろん、ヤンシー先輩の方が比較にならないほど優れていらっしゃるが。

    この地に生きるキリスト者であるとは

     ところで、ヤンシー先輩が引用していなかった部分の中で、現在のこの地での生活が問題であり、それは将来につながるのだ、そして、第1コリント6章における倫理とつながっている、というご主張は案外大事ではないか、と思うのだ。この第1コリント6章の倫理は、通常、性的不品行や教会内のもめごとに関することとして理解され、語られている側面があるが、パウロが言っていることは、そんなちっぽけな(もちろんそれは大事であるが)ことではなく、もっと重要な終末理解と深く関係しているものではないか、というのがライト先輩のご指摘のように思う。

     そのことを考えるとき、ヤンシー先輩がおっしゃっておられることとは、本来、地の回復をもたらし、人を人たらしめること、それが恵み(終末における地の回復と人を人たらしめるという神のご計画)を運ぶはずのキリスト教ではないか、ということを想う。

     と、ここまで書いていて思ったが、この内容は、まるでギリシア正教の世界観である。

    下心を持って仕えるフリするキリスト者たち
     すべてのキリスト者がそうだ、というわけではないが、恵みを誤解している人々や伝道という下心を前提にというか、伝道を視野にボランティア活動をしてみたりする人々も聞いたことがある。そんな援助側の根性や思いは行動の端々に出るので、簡単に援助を受ける人々からは見透かされてしまうのだ。
     私がシカゴで通っていた教会派、スラムの公営地区の近くにあり、もともと歴史のある大きな教会のアウトリーチ活動の拠点だった。ところが、このスラム地区の教育プログラムが、聖書以外の教材も使って子供たちに読み書きを教えていることを知った母教会は、一切の財政的支援を打ち切った。教会の地下室に子供用のビリヤード台を設置していたことも災いした。母教会は恵みの在り方を見失っていた。恵みを運ぶ人たちは、自分たちが神から受け取ったものに「感謝」して(感謝〔gratitude〕とは恵み〔grace〕と同じ語根を持つ言葉である)、彼ら自身の溢れるものから与える。回心者を出そうという下心を持って仕えるのではなく、全体が良くなるために仕える。神が意図されたように、人間が反映することを願いながら。(隠された恵み p.130)
     この部分を読みながら、思ったのは、聖書中心主義、聖書ならOKだが、それ以外のものなら受け入れかねるという心の狭さの問題である。例えば、聖書アニメや聖書を題材にした映画の話ならば教会で受け入れるが、それ以外のものは一切NGというような心の狭さというか、精神の狭隘さのようなものがキリスト教の世界にはある。キリスト教とかかわらないものであれば、一切教会には入ってはならん、あるいは教会が関与する以上、それでないと許さない、みたいなところがないわけではない。もちろん、それは教会の御意志なので、それはそれでよろしいとは思う。とは言いながら、それは教会が本当に他者理解をしようとしている、あるいは教会として他者の受容をしていることを示すことになるのだろうか、という問題があるようにも思うのだ。

     つまり、救いの対象としての他者はOKであるが、教会が反対するもの、教会が”救い”を宣べる対象とならないものをも他者として愛することができないものとして勝手にきめてしまっているのではないのか、という問題と共通するものである。実は、これは、かなり難しい問題を含むのである。ある面、教会の覚悟を問う問題に直結する可能性が高い。

     ある禅宗の僧侶の方とお話したことがある。「一見ややこしそうな人がお寺に何とかしてくれといって、来られた時とかはどうするんですか?」と友人がこの僧侶にお尋ねしたら、「そんときゃ、まぁ、いったん座ろっか。ちょっと落ちつこう。」といってから、受け入れるかどうかはあまり考えずに「問わず語りで語ってもらうかなぁ。でもあんまり来ないけど」といっておられたことが非常に印象的であった。

     この辺の奥行きの深さはキリスト教にはないかもしれず、新来会者が来るといろんな意味で、教会に緊張が入り、あたふたするのが、教会の通例のところが案外多いように思う。まぁ、カトリックと、ロシア正教、アングリカン・コミュニオンには、この辺のあたふたさがなくど〜〜〜んとしていて、「あぁ、こういうのはいいなぁ」と素朴に思ったものである。新来会者として知らないところの教会にいくと、信者の方からの事情聴取があったり、あるいは妙になれなれしくお話しするために寄ってこられる方がいたり、帰り際牧師先生があわててご挨拶されようとされたり、このあたりの新来会者の方を迎え入れようとするお気持ちがそうさせるとはいえ、それがあまりにこなれてない、あるいは身についていない為にあたふたさ加減が見え隠れすることがある。言葉ではいろいろとお伺いはするが、身体的なあたふたさ加減に下心があることを新来会者に身体性の点において雄弁に語っているようにも思うのだ。

     案外、言葉以上に、身体的所作が雄弁に語ってしまうこともあるように思う。この辺の奥行きの深さを持つキリスト教が教会に定着するとよいかなぁ、とは思っているのであるが、日本のプロテスタント派では、当分無理かもしれない。

     尚、ミーちゃんはーちゃんは、伝道しようという下心を持って、奉仕しては絶対にならない、とは思わないし、しても別の問題はない、とは思っているが、ただ、相手には、それはすぐ伝わることが少なくないので、それは、却って神と伝道しようという思いを持って仕えたはずの人との関係を遠ざけるのではないか、とは思うのだ。

    犯罪の巣窟としてのアメリカの公営住宅(Project)

     ところで、ここにアメリカの公営住宅の話が出てくるが、アメリカの公営住宅といえば、そもそも、ジョンソン大統領時代に海外では、Vietnam Warをしながら、国内的にはWar on Povertyという政策としてHUD(Department of Housing and Urban Development)という汚職と非効率、官僚主義の温床のようなイメージ(あくまでイメージ)を持つ組織が建設しており、また、その住宅も今では50年以上たち麻薬と窃盗、性犯罪の温床、青少年ギャングの根城、犯罪の巣窟のようなイメージが付きまとう。もともと、都市のなかでも、最も貧しい階層であった、アフリカ系アメリカ人、ラティーノと呼ばれるヒスパニック系アメリカ人、あるいは新規に移民となった人々がその住民の大半を占めるうとという側面があるのはどうしても否めない。

     ところで、下記の白黒写真は、シカゴ・トリビューン紙から拝借しているが、写真のタイトルとして、Prison for Poorというキャプションが付いていた。ここで育って、本物のJailやPrisonに行く人々も多いらしい。


    Robert Taylor Homes Public Housing Projects シカゴトリビューンから借用

     このあたりの、公営住宅での犯罪率の高さがあり、アメリカのLaw and Orderなどでも、若者の人種別ギャングの抗争、麻薬を巡る争いなどは日常茶飯事というイメージで、Project(公営住宅)は描かれている。

     そのあたりの都市の一定の地域に住む貧しい人々と若者の学習の意味に関して、Freedom Writers(邦題もフリーダム・ライターズ)という映画があるが、公営住宅の住環境としての問題を知る機会としていただけるとともに、若者への教育の持つ意味を考えさせるいい映画だと思う。一度ご覧になるようにお勧めする。



    Freedom WritersのTrailer

    地にタラントを活かし
    『恵み』を運ぶ具体例
     具体的な事例として、ヤンシー先輩はヤンシー先輩が言っておられる教会で取り組んでおられる具体的な取り組みをご紹介しておられる。個人的にはどうかと思うが、一つの奉仕の方法ではあると思う。
    私の通うコロラドの教会は、「ハンズ・オブ・カーペンターズ」というミニストリーを開始して、未亡人やシングルマザーのために塗装、大工仕事、家の修理をするボランティアを募った。間もなく、別の必要を見つけ、「ハンズ・オートモーティブ」を開き、こうした人々に車のオイル交換、車検、カーウォッシュを室生で提供した。余裕のある人々には通常の代金を請求し、その仕事の資金にしている。(p.131)
     車検制度がなく、カーパーツショップがやたらとあるアメリカで、平気で1940年代とか1950年代のフォードのピックアップトラックが走っている社会であれば、確かにハンズ・オートモーティブは役に立つと思うし、普通の民家であれば、検査制度がほとんどなく、法規制がめちゃくちゃ緩いアメリカであり、水道工事から、配電工事まで素人がやるのが当たり前の国であるからこそ、まぁ、住宅のリフォームから建て替えくらいまでほぼ個人でやる人がいるし、Home DepoやLawe'sとかいう、日本のホームセンターがかわいらしく見える巨大なDIY Shopがアメリカの都会地では3マイルか4マイルごとにあるようなモールには必ずある。両方あるモールもある。



    Home Depot  アメリカのホームセンター


    Lowe's アメリカのホームセンター

     まぁ、以前も書いたかもしれないが、個人宅の電球の交換を牧師にお願いするお家もおありのようだ。牧師は電気屋じゃぁあるまいし、シルバー人材センターでもあるまいし、ダスキンさんの家事お手伝いサービスではない。もし、上でヤンシー先輩がご照会のようなサービスが必要なら、教会でボランティア組織を作ってやればいいだけの話でしかない。何でもかんでも牧師先生、というのは違うような気がするなぁ。

     教会と手の関係については、Rachael Held EvansのSearching for Sundayという本の中に、Handsという一章があって非常に印象深い。その中にこういう一節があってちょうどこの部分と重なった。
     Ultimately, all are commissioned. All are called. All belong to the holy order of God's beloved.  The hands that pass the peace can pass a meal to the man on the  street. The hands that cup together to receive Christ in the bread will extend to receive Christ in the immigrant, the refugee, the lonely, or the sick.  Hands plant, and uproot, and cook, and caress. They repair, and rewire and change diapers, and dress wounds. Hands tickle giggling children and wipe away tears.  Hand rub heaving bellies of big ugly dogs. Hands sanctify all sorts of ordinary things and make them holy. (Searching for Sunday p.98)

     究極的にいえば、我々信徒は既に神から役割を与えられているのだ。我々は召命を受けているのだ。神が愛された人々の世界に属しているのだ。平和を運ぶその手はホームレスの人々に食事を運ぶ手でもある。パンに象徴されるキリストを受けるためにカップ状にする手は移民の人々や難民、孤独で病んだ人の中におられるキリストを受け入れるために広げられることになるのだ。植物を植え、植え替えをし、料理をし、そして治療をする手。この手は修理をし、電線を張り替え、おむつを替え、傷を隠すものである。子供をこそばして笑わす、そして、涙を拭いてあげる手である。また、その手は、醜い犬のおなかをさすってやる手でもある。そして、手は、様々なごく当たり前のものを聖なるものにするためにもあるのだ。(普通のパンが、聖なるものとして分け与えられるものにするのも手であることを指していると思う)

    まだまだ続く





    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:非常に良い。お勧めする。

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ---
    (2010-08-20)
    コメント:非常に良い。一読をお勧めする。

    評価:
    Rachel Held Evans
    Brilliance Corp
    ¥ 1,895
    (2015-04-14)
    コメント:教会あるあると思いながら、思わず笑いが漏れながら読ませてもらった。女性らしい視点から思いやりにあふれつつ、重要な指摘をしている本である。

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