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2015.11.23 Monday

良い本の良い書評のご紹介『市民K、教会を出る』(2015:新教出版社)

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    時々拝読している北の国のお百姓さんのトンちゃんがまた、すごいことを書いておられた。

    その記事はこちらのリンク

    金鎮虎著/香山洋人訳『市民K、教会を出る』(2015:新教出版社)

    (クリックで表示されます)である。

    ここまで、当事者感覚がミーちゃんはーちゃんにはないので、基本書けないことではあるが、トンちゃん様は過去当事者であった経緯もあり、ミーちゃんはーちゃんにすれば、トンちゃん様が「ここまでお書きになるか」という印象を持った。なお、新教出版社の『福音と世界』誌で同書のオリジナルの一部が紹介中のころ、本ブログでもその一部をご紹介した。

    以下の部分だけでも

     まず、以下の部分だけでもお読みいただきたい。これが、この書評の核である。
     何もよりも福音派にとって重要な意味を持つこの本は、福音派によっては書かれませんでした。良い謙虚な心で書かれたこの本を、韓国の福音派の人々は――そして、日本社会で生活する福音派の韓国人宣教師たちは――どう読んだのでしょうか。日本の福音派は、韓国におけるような大きな歴史的・社会的意味を持ちませんから、日本には福音派教会を視野において「市民J、教会を出る」を書く福音派以外の人はいないでしょう。また、韓国においてもそうであるように、福音派の中からそういう自らの歩みを、批判的に真摯に振り返る書物を期待することも難しいでしょう。しかし、あの教会成長運動、そして、その後アメリカや南米や韓国から押し寄せた幾つもの宣教のための流行の波を、そして、そういう波とは一線を画して歩んだ私の神学校の恩師たちのような方々をも、この本ほどではなくとも、この本と同じような社会学的方法で歴史化することが、これから福音派が神の国の前進のために用いられるために、どうしても必要だと思います。そのことなくしては、福音派は、かつてグラハム伝道会が行われたのとは違う新しい時代において、なおかつてと同じような意識でグラハム伝道会を行い、どこかの国に新しい波乗りのためのビッグウェーブを求めて、知らずしらずに衰退の道を歩み続けて行くしかないように思います。
     社会学的に分析するかどうか、社会学的方法が有効かどうかの議論をさておき、少なくともここで紹介されている『市民K,教会を出る』的な自己批判をする必要があると思うし、それこそ、本ブログで最近ご紹介しているフィリップ・ヤンシー先輩のご主張だろうと思う。ビッグウェーブを追う教会運動の事を、最近読んだRacheal Held Evansの本で、Seeker Sensitive Modelと呼ぶことを最近知ったが、そういうのを追うことは、基本ヲワコンをオッカケすることであり、参加者の方には高揚感があるかもしれないが、結果として一時的なものであり、表層的なものであり、本質的に日本の宣教(そこまで大げさなものでなくても)を変えるという内生的なものといえるのかどうか、ということは少し考えた方がよいかもしれない。


    昨日までやっていた大伝道大会の開催アナウンスの写真
    注 写真は、本文と関係ないかもしれません。

     しかし、「日本の福音派は、韓国におけるような大きな歴史的・社会的意味を持ちません」ですか。そのとおりです。言葉がありません。

     なお、基本的にトンちゃん様は現在絶賛紹介中のフィリップ・ヤンシー先輩とほぼ同様の問題意識をお待ちのようである。

    韓国でプロテスタント人口が減っている?
    これは知らんかったけど、そうなんだ、と思った。
    最近の韓国の国勢調査によれば、カトリックや仏教は信徒数を増やしているのに対して、プロテスタン教会からは信徒が離れる趨勢にあることが知られます。
    韓国でもこういう傾向にあるのが、何とも。

     この『市民K、教会を出る」の良さは、まさにトンちゃん様ご指摘の通り。一種の内部者としての自己批判意識を持って自己の反省を含めて書かれているところですね。本当に。
    ただ批判する筆致ではなく、学問的に醒めた眼で、歴史の中に生まれた初期祈祷院運動のようなものには共感すら込めて、著者自身や民族が信じて歩むべき教会形成の道を真摯に求めています。そういう良い心で書かれていることが、私にはとても貴いことのように思えました。
     確かに、このような視点をミーちゃんはーちゃんも一層の研鑽を持って持ちたいものであると思っている。

    模範としての韓国キリスト教

     確かに韓国のキリスト教は日本のキリスト教の模範とされた時期があったし、模範にするようおっしゃった韓国人伝道者もおられた。
    私たち日本の福音派は、とりわけ80年代から90年代にかけて、韓国におけるキリスト教会の隆盛を羨望の眼差しで見つめ、それを教会成長の(教会繁盛の?)模範として来ました。
     うちのキリスト者集団の中には、いまだに、韓国のキリスト教徒の皆様を模範とする傾向があるのは、10年から15年遅れだからだろうか、と思ってしまう。まぁ、この辺の事が、言語格差により隠されているからかもしれないが。まぁ、個人的には、韓国のキリスト教徒の皆様に悪感情があるわけではないが、もう少し思い込みで語るのではなく、第2次世界大戦以前と1980年代以降の日本の宣教の歴史をきちんとお勉強された方がよいのではないか、と思うことは過去何度かあった。

    教会成長運動という限界
     まぁ、教会にはもともと、教会の席が埋まり、新しい教会が生まれれば祝福だ、と思い込む部分があることは否めない。話し手としては、人があふれんばかりに集まるのと、やる気のない人がパラパラと集まるのでは、話し手のテンションとしてはどちらが高いかはご想像の通りである。そして、教会成長運動の影響を受けずに過ごすというのは、よほどのことがない限り難しい。

     以前、このブログでご紹介したBlueBelle様の教会も、トンちゃん様曰く「西海岸の神学校の教室に端を発する教会成長運動」の申し子であるのかもしれない。
    また、牧師になってからは、韓国と同じようにアメリカ西海岸の神学校の教室に端を発する教会成長運動の影響下にありました。当時、教会のビジョンと言えば、教会の5ヶ年計画や10ヶ年計画を、信徒数の増加、献金額の増加を、教会堂建築を含んで、右肩上がりのグラフに描いて提示することでした。よく「幻なき民は滅びる」と言われました。
     しかし、最近も「幻なき民は滅びる」ってどっかで聞いたぞ、と思うけど、どこで聞いたかよくわからない。

    ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの時代とキリスト教

     今の30代からすれば、「へぇ、そんなこともあったのか」という感じを抱かれるかもしれませんが、バブル経済に踊っていたころ、ソニーはアメリカの映画会社を買うは、三菱地所という日本の大手不動産屋はロックフェラーセンターをかって、アメリカ人から総スカンを食らうことになった。そんな時代には、こういうことも言われたらしい。
     日本経済がバブルの時代に入ると、日本人にも韓国人にも、集会でよく聞かされた言葉があります。「福音は、エルサレムに始まり、ヨーロッパとアメリカを経て、今神は日本の経済力を福音宣教のために用いようとしておられる」というメッセージです。
     まぁ、この間も、日本のキリスト教は成長することなく、対人口でも人数でもその数値を減らし続けた。そして、今は、どの教会に行っても「若者」は昔の「金の卵」よりも希少な存在である。


    毎日新聞ニュースの映像

    時代の子、環境の子としてのキリスト教

     トンちゃん様のご指摘で大事だな、と思ったのは次の一文である。
    読み終えて想うことは、私たちは誰もが自分の背景を持って生きる、時代の子であるということ、そしてキリスト教とは何か(何でないか)ということです。
     現在の日本でも、ある面、大真面目に『普遍的なキリスト教』とご主張になりながら、実は、環境依存的な、時代依存的なキリスト教をそのようなタイトルでご主張の向きもないわけではないような気がする。環境依存的であること、歴史依存的、時代依存的であることを無視して、あたかもこれが『普遍的』であるとするなら、「君が言うならそうなんだろう。(僕はそうは思わないが…)」とぼー読みでいい、()内の部分のことばをそっと飲み込んでいるミーちゃんはーちゃんがいる。

    福音派左派ジム・ウォリスをどう考えるか

     個人的には、ジム・ウォリス的なので、まぁ、以下のように書かれても仕方のない部分があることは認める。
    ジム・ウォリスが語る宣教の言葉や、アメリカ社会の保守的な福音派に対峙する預言者的な言葉は、豊かな白人エリートの新しい生き方を求める言葉で、貧しい人々が生きるための言葉ではなかったのかもしれません。
    確かに、返す言葉はない。白人はどうしてもアフリカ系アメリカ人にはなれないし、アジア人としてのミーちゃんはーちゃんはアメリカ人にはなれないのだ。小さくされた人と共に生きたいと願いつつ、それができていないし、完全にそこまで下っていっていないことは素朴に認める。その意味で、葛藤の中にあるといってよい。

    イベントを消費する日本の福音派?

     個人的にはラブソナタというイベントをされたい方はされたらいいと思っている。でも、個人的には何とはなく違和感を感じていたが、その原因をトンちゃん様の次の記述で、ハタと気づいた。

    「ラブソナタ」のような催しをするには、多くの熱い祈りと、時には深い心の傷を乗り越えることも必要かもしれません。しかし、そのようなイベントとしての屈折した愛のエクスパンションが、本当に韓国と日本の教会の真の協力、対話、この時代における神の宣教の実りにつながっているかを、私たち福音派は、ただ祭りを消費するだけでなく、今こそ真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
     これはそう思う、としか言いようがない。しかし、「屈折した愛のエクスパンション」って、一生懸命されている方には申し訳ないが、素朴にこれはそうだよなぁ、とは思った。イベント依存に終わっていないか、ということはもう一度検証されてもよろしいのではないか、と思った。

    福音派は「なんちゃって福音派」?

     ミーちゃんはーちゃんの福音派的なキリスト者集団の隅っこにおいてもらっている人間が言うのは何だが、日本の福音派は、大変失礼ながら、『なんちゃって米国福音派もどき』である場合が多く、宗教改革者たちの集まりほどの預言者性を持つマクグラス先輩が言うような意味での『福音派』といえるのか、ということを、お百姓になってしまわれたトンちゃん様は問うておられるように思う。
     福音派であることを自負して来た私たち福音派は、伝統的な意味でも、今本当に自分たちを福音派と言えるのか。私たちは、本当に「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)て生きているのか、宣教をしているのか。それはただ聖書釈義や観念的な神学的認識の課題ではなく、この時代と社会にあって、神の栄光を求めて、キリストにあって、御霊に導かれて御父のみこころを歩むための、私たちの切実な霊的な課題です。
     今年の宣教学会での本田司祭のご発言(特に福音派の元牧師で神学教師の方との対話 詳細はこちら 日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想  でご紹介)といい、枚方のカトリック教会の元修道者(現在は司祭)の方からお聞きしたリアリティといい、この種のリアリティを、どう、この地で結んでいくのか、それが問われているような気がしてならない。

     こういう認識が福音派でくくられるキリスト者集団の牧師の方にしみこみ、信徒の方にまでしみこんだと思ったら、その時は、日本に福音派の教会がなくなっていた、ということにならねばよいのだが、とは思っている。まぁ、無くなったらなくなったで、それも神の支配の中にある、と思うことに最近はしている。

     



    評価:
    金 鎮虎
    新教出版社
    ¥ 2,592
    (2015-02-20)
    コメント:お隣の国のご事情を知るには、大変よろしいか、と思います。

    評価:
    Rachel Held Evans
    Brilliance Corp
    ¥ 1,920
    (2015-04-14)
    コメント:大変面白い。英語もそうよ見にくくはない。

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