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2015.12.02 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(13)

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    今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日は罪の問題についてである。

    神は宇宙の警察官?
     日本のキリスト教会の中でお聞きする話の中に、罪の問題をどうも誤解しておられるのではないか、というお話を時々お聞きする。アメリカ合衆国の教会でも同様らしい。ただ、この日本語の『罪』という概念が、話者の側の意味と聞き手の側の意味が時に異なっているのではないか、と思うことがある。一度、ある宣教師の人とはお話したが、対話がかみ合わず、不毛であった。『罪』という言葉にこだわり、Systematic Distorted Communicationをご継続になりたいのであれば、それをお続けになられればよい、とは思っている。
     誤解されがちなキリスト教の罪という概念は、多くの人々を不愉快にしている。実際、罪という概念があることによって申し開きをしなければならないことになるのだが、それは私を愛し、私のために何が最善かを知っておられる神に対して、の事である。これも医者になぞらえると分かる。厳格な教会で育った私はこの善き知らせの”神の知恵”という側面を見逃していた。神の事を私に健康に育ってほしいと願う意思としてよりも、自分勝手な決まりを共用する宇宙の警察官と思い込んでいた。宗教を持たない人々と話をして確信したのは、多くの人が罪について、同じような誤った認識を持っていることであった。罪の核にあるのは私たちにとって最善を計画しておられる神への信頼の欠如である。(隠された恵み p.119)
     神が義であることから、神を不正を許さない警察官的な理解でお語りである方は案外多い。このようなお話をこれまでもお聞きしてきたし、今も時々、このようなことをお語りになられる方はおられる。フーン、そうなんだ、とお聞きすることにしている。

     しかし、罪に関して、「宗教を持たない人々と話をして確信したのは、多くの人が罪について、同じような誤った認識を持っていることであった」ということである。日本では、ほとんどの人が、アニミズム的な信仰を持っているが無宗教と答える人が多い社会の中で、『罪』とは、何か悪いこと、とりわけ人に対して何か不具合をもたらすものの総称としてとらえられているが、実は、聖書の中で罪と言われているものを、ヤンシー先輩は、「神への信頼の欠如」とご指摘しておられる。個人的には、これはある人の「人生における神の不在」の事だと思う。山崎ランサム様がそのブログ「鏡を通して」の記事「確かさという名の偶像(22)」ご指摘のように、「信頼」といっても、自分に益が起きるというような信頼ではなく、人格的に関与するものとしての同行者としての存在を認め、共に在る状態を想うということだろうと思う。 
     マンハッタンで多くの人を集めている教会の牧師ティモシー・ケラーは懐疑主義者やポスト・クリスチャンたちと信仰について対話をしながら、罪を「悪行を働く」というより、「善を絶対視する」ことを表現するようになった。
     恋人と寝ているあなたたちは罪を犯している、という代わりに、ロマンスこそが人生に意味を与え、罪から救い、神に対して求めているものを与えてくれると思っているから、あなたは罪を犯しているのです、と話す。ロマンスへの偶像崇拝は、渇望、執念、妬み、恨みにつながる。ポストモダンの人々も、私が彼らの生活を偶像礼拝に関連付けて説明すると、すんなり理解した。キリストとその救いは、赦しを(現時点で)与えてくれる唯一の希望というよりも、むしろ自由に至る唯一の希望としてあらわされることができるのだ。(同書 pp.120-121)
    救いとは何か
     「罪」に続いて、現代人が誤解している事柄の一つに「救い」という概念があるように思う。以前、「自由」ということに関して現代の日本語での理解による、この種の誤解について触れたところであるが、一般に日本人の救いからイメージされるものは、困難な状況や苦難からの脱出や離脱と理解されているところではある。ある面、仏教的な「救済」というか、悟り・涅槃のイメージが付きまとっているように思う。その意味で、理解されてしまうと、本来的な救済とは若干違うように思うのだ。そこらあたりに関して、ヤンシー先輩は、ユージン・ピーターソン氏の文章を引用しながらこのようにお書きである。
     ユージン・ピーターソンはこう指摘している。「ヘブル語の『救済』にはもともと、広くなること、広々とすること、拡大すること、という意味があります。そこには、抑圧され、閉じ込められ、拘束されていた存在からの開放という意味が含まれています。」神は私たちを自由にしたい、神や隣人との開放的出会いにあふれた人生を遅らせたい、と願っておられる。(p.121)


    Eugine Peterson先輩
    この方は霊性に関する関係の人で、何冊か邦訳書が出ている。

     ここで、注目したいのは、旧約聖書的な救済には、困難や苦しみそのものからの脱出というよりは、束縛されているものからの神による開放という側面があることである。これは、案外見過ごされているのかもしれない。神との制約のない関係、あるいはその関係性の回復が、聖書の言う、より正確には旧約聖書の言う「救い」という概念と結びついているようなのだ。

    苦と信仰

     古代仏教の専門家の人とお話した限りの知識であるが、古代仏教の場合は、基本原理としては、自分自身が良く自分自身の状態を踏まえ、苦(生老病死)の原因となる縛られているものがなんであるかを丁寧に見つめて、それの原因を断ち切ることで、苦の原因から離れることが輪廻から脱出する道、涅槃への道であるとご主張のようであるが、より広い制約のない世界に誰かと出会うために向かっていく、という側面はないと理解している。誤解かもしれないが。
     
     苦を無くすのが聖書の中での信仰の問題ではなく、信仰ということを考える場合、神と出会うための、神と共に暮らすための障害が、既に無くなっている、というのがキリスト教の根本概念にあると思う。だからこそ、イエスが死んだときに神殿の幕も真っ二つに避けたのだ、と思うのだ。単なる奇跡譚ではなく。もう、神とあなたとを隔てるもの、異邦人とユダヤ人を隔てるもの、奴隷と主人を隔てるものがなくなるのだ、ということを神は十字架で完了した、というイエスの発言を通してお示しになられたように思うのだ。

     苦はある。しかし、苦があっても、神もそこにいる。そこに神と人とを隔てるものはない、というのがキリスト教の救いだと思うのだが、それがいつの間にか、キリスト教の救いとは「天国」という宇宙外基地に行く話になっているように思うのだが…。キリスト教が宇宙というフロンティアに行く話に終わっていなければいいなぁ、と思う。

     その意味で、こういう救いの概念とかを、某公党の選挙カーの議員名の連呼よろしく、「神」「神」「神」「罪」「罪」「罪」「救い」「救い」「救い」と連呼しても、現代では、それは逆効果でしかないように思うのだが。だって、発言している側の意味と、受け取り側の意味が違うのだから。特に「救い」という概念に関して、受け取り手と発言者が、苦難からの開放という意味で同じだと思っているのであれば、少しまずいような気がする。



    痛車仕様の自民党さんの選挙カー (現物は路上で見たことないです)

    まだまだ続く。



    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:絶賛ご紹介しております。

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