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2015.12.16 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(19)

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     今日も、ヤンシー先輩のお書きになられた『隠された恵み』からご紹介したい。今日は、いかに恵みを注ぐことができるか、という教会編である。


    教会とは何か

     日本語の教会という語(英語でもたぶんそう)には、建物としての教会という側面と、人間の集まりという語としての教会という語があると思う。個人的には、教会というのは、そこを一時的に通過する人としての一時的滞在者としての人々を含む教会というものがあると、確信している。しかし、同じ教会に長くいると、○○教会というと、いわゆる教会の固定メンバーというか、長く教会にいる人々をさす、という印象がある。そこには、一時的な滞在者や、通過者は含まれにくいように思うのだ。そのあたりのことについて、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
     私たちは信仰の“旅人”としての生活を、一人ではなくコミュニティーの中でほかの人々とともに送る。そして新約聖書で描かれているのは、周りの人々をはじくのではなく引きつけるような新しいコミュニティー、すなわち神の国だ。現代における、健全な信仰者のコミュニティーとはどのようなものだろう。(『隠された恵み』p.161)
     個人的には、個々の教会は神の国での完成(Teleiosとしての終末)に向かう乗合船のようなものだと思っている。あまり固定的なものを想定しないほうがいいのではないか、と思っている。ある人々は、ある時期にある地域に存在する特定の教会という乗合船に乗っている。目的地ははっきりしているが、時代や地域の影響を受け、あるいは乗組員やそのそばにいる人々(ある人はおぼれかけていたり、小舟に乗っていたり、あるいは、エンジンが壊れてしまって半ば漂流していたりする人々が一時的に乗ってこられたり、引っ越しや転勤など諸般の事情で別の船に乗る必要が出たり、あるいは自分ののっている船で船酔いして別の船に乗り替える人がいたりと様々な乗組員の人々)によって影響を受けながらも、基本的には神の国の完成に向かって進んでいるのだと思う。その意味で、乗組員であり、”旅人”だと思っている。

    ヤンシー先輩の教会巡礼

     ところで、ある年、ヤンシー先輩は、お住まいの地域の様々な教会(24教会あったらしい)を回って見られたらしい。その時の感覚をこのように書いておられる。
    きまりや期待されていることも何もわからないまま、よく知らない文化の中に足を踏み入れたジーナ・ウェルチが書いた戸惑いを、私も毎日曜日味わった。ときどきこう自問した。この教会に通いたい人などがいるのだろうか。(同書 p.161)
     実はいろいろあって、これに近いことを日本でやってみているし、海外でもやったことがあるので理解できるのだが、やってみてわかったことは、実は、非常に貴重な体験であると思う。ただ、やってみてわかったのは、いきなり、何の準備もなく、外国に行って生活する場所を定めるようなものなのだ。もう少しカッコよく言うと、アブラハムの様な寄留者としての生活をしているようなものだ。アブラハムは、もともと遊牧の民として生活していたのであり、定住していたわけではないし、イスラエルも、基本的には、寄留者であったのが、のちに定住していくことになり、その結果、神に養われ、神に守られていることを忘れ、王でもある神に、神に王がほしいと言い出したのである。ただ、放浪することであるときにのみ見えてくるものはある。

     教会における居留者であるというのは、ある面、個別の教会という殻を自ら脱ぎ去り、剥き身の信仰者としての信仰が問われる、つまり、使徒信条でいう「われ公同の教会を信ず」ということが問われる経験であった。「公同の教会を信ず」あたりに関しては、山崎ランサムさまの小文字のキリスト教 をご参照いただけるとよろしいか、と思う。

     いろいろなご事情から同じようなことをしておられた方も「同じキリスト教といいながら、どうして礼拝の様式がここまで違うのか、と戸惑うことが多い」と素朴にお話しされていたことがあった。教会ごとに、キリスト教会のサブグループごとに礼拝の様式や個人的には、教会史を見ればかなり参考になることもわかるかなぁ、と思っている。つまり、ある教会が「どのような教派から、どういう経緯でどの社会でいつごろ分離したか」はその教会の様式論を考える上でかなり参考になる。このあたりに関しては、 伝統とパターンと近代と聖書理解 でもふれた。

    生き生きした教会、陰鬱な教会

     いろいろな教会を巡っていると、実に説教者の型の説教は実に多様ではある。聖書だけを読む教会、信徒の関与が多い教会、2時間弱ずっと立ちっぱなしの教会、フレンドリーな教会、高齢者名多い教会、静かな教会、若者しかいない、ノリノリな教会、毎週意図的に雰囲気を変えている教会、一見フレンドリーなんだけど、なんとなくフォーマットでやっている感が漂う教会、実に多様な教会がある。
    “善良で感じがよく面白みに欠ける男が、善良な人々の前に立ってもっと面白みに欠ける人間になるように促している”場所として教会ががかれているのを読んだことがある。うまく説明できないのだが、私は5分いると、その会衆が”生き生き”しているかどうかを、直感で感じ取ることができる。(中略)生気という要素は、神学とは無関係だった。保守的な部類に入る二つの教会では、説教中、信徒たちは陰気に背を丸めて座り、最後の祝祷がゴールであるかのように形だけの礼拝をしていた。(同書 p.162)
     確かに、ヤンシー先輩が言うように「生気という要素は、神学とは無関係だった」というのは、実感として思う。ご老人が多い教会で、さすがに生気にあふれた、という感じのない教会もあるし、保守的な神学の教会でも生気にあふれた教会もあった。その人らしさが出ている自然な教会はいいなぁ、とは思った。そう思っていると、ある教会の教会案内に、「そのまんまでお出かけください」ということを書いておられる教会があって、「あぁ、これがいいよなぁ」と思ったのである。”えさのいらない猫”を被る必要もない教会、って本当にありがたい存在であると思う。ある面、まったく知り合いのいない教会は、初めての教会では一種緊張することはあるが、猫を被る必要がないのは、楽でいいなぁ、と思う。

     ところで、ヤンシー先輩は「最後の祝祷がゴールであるかのように形だけの礼拝」と書いておられたが、中道先生の御講演 ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2 でも紹介されていたが、関西では愛餐会の「おうどん」、八木谷さんがお好きらしい関東で愛餐会の定番「カレー」がゴールのような教会員の方もひょっとしたらあるのではないか、と思うのだ。そういう方は少ないだろうけれども。


    関西の愛餐会の定番 炊き込みご飯とうどん

    関東の愛餐会の定番 カレーライス

    ビジョンの境界線はどこか

     日本の福音派の教会とそうでない、福音派がよくリベラルとラベルを張る教会との違いは、政治的な傾向性よりも、世の中の貧しい人との距離の取り方ではないか、と思うのだ。中に集まっている人の違いというよりも。まぁ、福音派は庶民的というのはあるかもしれないし、福音派がリベラルと一括してラベルを張る教会にも庶民的な教会もあれば、高踏的というか割とお金持ちが多そうな教会もあるし、何とも一概には言いにくいところはある。

     ただ、決定的に違うなぁ、と感じるのは、米国福音派での終末論論争の影響もあるのだろうが、この地の弱っている人々で教会に来ない人々の問題に対して福音派は割と冷たいところが少なくなくて、教会に来る弱っている人には対応はするけど、それよりも聖書聖書というところがあるような気がする。ある超教派団体の集まりに参加したときに、あるキリスト者の20歳代の若い女性の方が、「なぜ、(福音派の)キリスト教会は、炊き出しとかしないのだ。困っている人を助けないのだろう?」と素朴な質問をしておられたことを思い出す。

     どうも彼女は、カトリック教会の炊き出しや関学の関係の教会による炊き出しなどの協力を知らなかったようのなので、「そういうことをしておられる教会もありますよ。ただ、多くの場合、福音派の場合『神のことば』をより大事にするのでそういうことには積極的でないことが多いようですが・・・また、確かにそういうことに関係していくといくつかややこしいことも起きかねませんし…」とだけ申し上げておいた。なぜ、こうなるかの背景は、藤本満先輩の『聖書信仰』を見ればある程度想像がつく。聖書信仰、聖書を重要であると理解するがあまり、神のかたちとしての人間の存在が軽くなったのではないか、と思っている。まぁ、これもリベラルとの対決が影響した側面もあったのではあるが。

     そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
     讃美歌や主の祈りまで差別のない表現に書きなおすほどリベラルな教会は、地域のため、世界のために、積極的な活動をしていた。(中略)私の教会巡りの中で、最も嘆かわしいグループは、自分たちのビジョンが教会建物と駐車場の外から先に広がっていない教会であった。(同書 p.162)
     ヤンシー先輩がおっしゃるような、「自分たちのビジョンが教会建物と駐車場の外から先に広がっていない教会」に派、あまりであったことがないが、「自分たちのビジョンが(ことばによる伝道以外を除けば)教会建物と駐車場の外から先に広がっていない教会」ということを思い出した。

     ミーちゃんはーちゃんとときどき遊んでいただける中澤さんという牧師さんがこんなツィートを乗せておられた。ご主張には、基本的に賛成である。



     ただ、多くの教会の場合、その『傾ける耳』『涙する目』『差し伸べる手』が教会敷地内に入ってきてくれる人だけに向けられていて、その外に出ていないようなところにあると思うのだ。実に残念なことであるが。つまり教会外に対して、「きかざる・みざる・手を出さざる」になっているのではないか、と思うのだ。


    聞かざる・手を出さざる・見ざる の像(日光に行くとあるらしいです)

    神の恵みの管理者としてのキリスト者

     キリスト者の性質、あるいは、本来的にいうと、「神のかたち」としてのアダム、地のチリから作られたものとしてのアダムは日本語では「地を支配」と訳してあるが、本来的な支配者というのは、大統領が護民官からきているように本来、市民や住民、国民をケアし保護する存在なのだ。わがまま勝手、やりたい放題するのは、地を「支配」するということとは違うと思う。神の国(神の支配とも訳せる)は、神が思い通り、好き勝手にして自分の利益を得るためのブラック企業というか、ブラック国家のようなものであるなら、そこに集まるキリスト者というのは、どっか精神が倒錯しているに近いのではないだろうか。この辺、自然に関してなど『支配』の意味をかなり誤解しておられるキリスト者の方は案外頻繁にであう。
     24の教会すべてを訪ねた後、健全な信仰者の集まりとはどのようなものか、くっきりと見えてきた。健全な会衆は、ペテロの言う「神のさまざまな恵みの良い管理者として、そのたまものを用いて互いに仕え合」うこと(Iペテロ4:10 強調ヤンシー先輩)を自分たちの働きの中心にしているように思えた。(同書 p.163)
     その意味で、ヤンシー先輩が言っていることは、本来の「人間の姿になる」あるいは「神のかたち」としてのアダム、すなわち地をケアするものとして生きることをお示しなのだろうと思う。それがたとえ、人間が不十分で不完全なものとしても。つまり、聖書をあける手はあっても、地に神の義をもたらすための手はない、とあたまの片隅で言っているミーちゃんはーちゃんがどこかにいるのではあるけれども。それをどうバランスさせるのか、考え続けている。

    バーバラ・ブラウン・テイラーのことばが刺さる
     最後に、バーバラ・ブラウン・テイラーのことばが、ミーちゃんはーちゃんにとって刺さって仕方がない。まぁ、神にささげるものが1歳の傷のない子羊であったことを前提に、完全なものを神が求めておられる、教会は完全な人の集まりであるという聖書理解があることは十分承知しているし、まぁ、そうお考えになりたい人々はどうぞそうお考えいただいたらよいし、そのお考えは尊重するところであるが、個人的には少し違うかなぁ、と思っている。神は不完全なものに神の息吹、神の霊を吹き込むことを求めておられるのであるように思う。そもそも、神の目からしたら、人間の完全さなどは、チャンチャラおかしいような気がするのだ。子供が必死になって完成度の高いものを作った気になっても、大人からしたら、どうしようもないものにしか見えないのと同じなのではないか、と思うのである。
     そこで、突き刺さってきたバーバラ・ブラウン・テイラーの記述であるが、以下のようなものである。
    「これらの傷ついた人々が暗夜を過ごす場所として、また悲惨な結果を持ってこられる場所として、教会を思い起こしてもらえなかったことが残念でした。」(同書 p.164)
     クリスマスの時期だからそう思うのかもしれないが、神の子は、宿するところなく、放浪する旅人の子供として、暗闇の中(寒空だったとは、羊飼いが外にいることから思うと思えないが)、ごろつき同然に近い、むくつけき羊飼いのおっさんたちにまずその生誕を祝福され、その後に異国の魔法使い(博士と一応訳されているが原文では、Magi)と出会うのである。そして、その後”政治”難民としてエジプトに脱出する。ろくでもない出生である。そして、暗闇を過ごす場所、最後の助けとしての教会が思い起こされないという現実は、厳しい。


    暗闇の森の中


    Facebookで紹介されていた上記の画像で
    イエスが政治難民であったことに気付いた


    まさにこんな感じであったのであろう。


    Huffington Postでの Egypt as a Place of Refuge for Baby Jesusから
     Anabaptist Mennonite Biblical SeminaryのSafwat Marzouk先輩の投稿から

     むろん、交代でいのちの電話や、電話対応サービスをしておられる教会もあるのは承知しているし、北九州の『軒の下の教会』として知られる奥田先生のような働きをしておられる方もおられることは存じ上げている。

     こういうことを書くと、すべての教会がなにがなんでも、こういう人を受け入れろといいたいのか、という疑問を持たれる方もあるだろう。しかし、そういうわけではない。その人たちが訪れる可能性のある場所としての教会が思い出される身近な存在の一つであってほしい、と思っているだけである。

    まだまだ続く




    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:大変よろしいと思います。

    評価:
    ---
    いのちのことば社
    ---
    (2015-12-03)
    コメント:誤植、発音これはないやろ、もいくつかあるが、まぁ、日本のキリスト教福音派の神学史の一断面を見せている。

    評価:
    バーバラ・ブラウン テイラー
    キリスト新聞社
    ¥ 2,376
    (2014-03)
    コメント:大変良い。お勧めしています。

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