<< いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(11) | main | 2015年11月のアクセス記録とご清覧感謝 >>
2015.11.30 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(12)

0

     
    Pocket

     本日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介していきたい。本日は、人間が生きていく中での経験と信仰と福音との関係についてである。


    人生の経験と神の存在
     神が存在するかどうか、という問題は、無神論の問題と絡んで、西洋の近代において大きな問題であり続けた。このあたりの事にかんして、ユダヤ人学者(不可知論者)とシモーヌ・ヴェイユの主張を議論を引用しながら、人は神に対してどういう関係にあるのかについて以下のように触れておられる。

    「もしも神がいないなら、いや、最初から存在すらしていなかったのなら、なぜ私たちはこれほど神を恋しがっているのだろう。」20世紀の恐怖を振り返ってこう尋ねたのは不可知論者のヨーロッパ系ユダヤ人だ。避けることのできない美、苦痛、悪、死といった普遍的な人間の経験は、深い渇きを浮き彫りにする。
     フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは言った。苦しみと美は人間の心を突き刺す、と。私はその両方がそれぞれ異なって作用し、人を信仰に向かわせるのを見てきた。苦痛は力によって心を貫き、美は賞賛や感謝に似た反応を呼び覚ます。霊的に迷ったとき、私を信仰に連れ戻したのは美であった。自然、音楽、愛の美しさが、全ての善きものの送り主である父なる神とつながっていたいという願望をよみがえらせたのだ。(隠された恵み pp.87-88)


    死後、有名になった哲学者 シモーヌ・ヴェィユさん

     N.T.ライト著『クリスチャンであるとは』では、あまり苦しみの問題は正面切って触れられていないが、美の問題はかなり重要なテーマとして現れる。苦しみの問題については、『クリスチャンであるとは』では次のように書かれている。
     この一時的なはかなさ、別の言い方をすれば、死という現実は、今日では暗い悲劇的意味合いを持つようになった。それは、創造者に対する人間の反抗と結びついている。人間の持つかかわりの最も深い面での反抗であり、結果的に、他の二つの面(人間同士と他の被造物との関わり)も台無しにした。かかわりとそのはかなさはというモチーフは、単一神を奉ずる主要な宗教において、人間を人間たらしめる構造のまさに中心部をなしている。(『クリスチャンであるとは』p.55)
    無論、これだけが苦しみについての記述ではないが。美については、次のような記述がある。
     世界は美に満ちている。しかし、その美は不完全である。美とは何であり何を意味しているのか。そして(もしあるとすれば)何のためあるのかというなぞは、より大きな全体の一部しか見えないために生じる不可避な問いである。
     美とは、別な言い方をすれば、もう一つの声の響きである。それは、私たちの前におかれた手がかりを通して、いくつかの事柄の中のあるものを語っているのかもしれない。(中略)
     美は義と同じように、私たちの指の間からすり落ちてしまう。(『クリスチャンであるとは』p.61)
    美と苦しみと神との出会い
     美と義はつながっているとおもっているのだが、という問題を個人的に考えているときに、もうちょっとプロテスタント諸派の聖餐がもう少し美しいものであるといいのになぁ、と思っていた。そう考えているところに、最近出た、Ministry2015年11月号の中に、次のような文章を見つけたので、思わず苦笑してしまった。
     むろんこれらの教派(引用者註 正教会、カトリック、聖公会)とプロテスタントでは聖餐の神学的理解をはじめ、種々の相違があることは否定できない。装飾性やドラマ性の高い聖餐が、実体変化説のような非プロテスタント的な理解を助長したり、さらには偶像崇拝につながるのではないかといった懸念を持つ人々もおられるのかもしれない。
     しかしそうした「おそれ」(?)を過度に強調するあまり、聖餐の持つ出来事性、体験性、ドラマ性といったものをあまりにもおろそかにしてきたのが、これまで日本のプロテスタント教会の現実だったのではないだろうか。暴論という批判を覚悟で記すが、はっきり言って日本のプロテスタント教会の聖餐のほとんどは「つまらない」のだ。
     この「つまらなさ」には、神学的な意味でのつまらなさ、式文の内容や構造におけるつまらなさ、聖餐における牧師(司式者)や会衆の参与に関するつまらなさ、そしてモノ(パンとブドウ酒・ブドウジュース)とその取扱いにおけるつまらなさなど、いろんな次元が積み重なっている。(中略)
     まずあのキューブ状に切り分けられたパン。頭の中で来れは意味深い大切な営みなのだといくら自分に言い聞かせてみても、「キリストの身体がサイコロになっている」という情けなさ、あるいは苦笑いしそうな思いはどうしようもない。
     (Ministry 2015年11月号  越川弘英の「私の礼拝論 13回」 p.54)
     言語を超えた美というものがあるように思うのである。一種の圧倒的な言語を超えた美というものがあると思うのだ。ある所でことばをかわせていただいた東方教会の司祭の方に、なぜ東方教会に心惹かれたのか、とお聞きしたことがあった。その時の会話にかんして、ミーちゃんはーちゃんの記憶が正しければ、「ある時ご旅行で行かれたギリシアの町々にある正教会のイコンやその正教会の姿が美しいので、なんだこの美しいものは?になってギリシア正教にご関心を持った」とのことである。確かに、正教会の礼拝に参加すると、ギリシア正教の建物とか、賛美歌とか、イコンとか、その様式を通して、美しさという形の言葉によらない伝道をしておられる、というのはあると思う。その様式がある人(ある東方教会の司祭の方)の人生を変えてしまったのである。美しさを通しての伝道は、ある面、一つの立派な伝道方法ではあると思う。

     あるいは、西ヨーロッパに行って、教会堂に触れ、その教会堂を研究しているうちにキリスト教に出会った人もいる。これは、教会堂が伝道した例であろう。

     美というのは、ある面、神と出会う場所にもなるし、痛みや苦しみ、悲しみも神と出会う機会になる得るように思うのだ。痛みや、苦しみの中で人は叫び声をあげる。それはその痛みの中にある人にとって望ましいことではないように思う。楽しくはない。しかし、その中で神と出会うこともあるのだ。


     それとは別に、至聖所の美しさの中に、神を思うこともあれば、丁度エリヤが得意の絶頂からどん底に突き落とされた時に神と出会ったように苦しみや痛みの中で神と出会うこともあるようにも思う。アドベントを迎えたが、アドベントとクリスマスは、そのことの象徴でもあるように思う。

     異国の軍隊に席巻され、自らの聖地に外国軍が本拠地を置き、おまけに徴税のための国勢調査までされていく絶望うずまくユダヤの地にひっそりと弱きもの、痛むものの姿をとり、ナザレの大工の息子、ナザレのヨシュアとして生きることになり、さらに言えば、エジプトへの流浪の民となるとともに、その誕生で多くの生後間もない子供たちが殺されていくことになる中で生きることを強いられ、その出生には喜びというよりは悲しみが満ち溢れていたのである。完璧なヒーローを求める現代にとっては出生からしてナザレのイエス、キリストと呼ばれた人物は、ヒーロー的なものを持っていないのである。


    ジョージ・マクドナルドの引用から

     ヤンシー先輩は、ジョージ・マクドナルドという方の書籍から非常に印象的な文章の引用がなされていた。それは、美とキリスト者の生き方とのかかわりに関する本である。
    宗教を考えようとするとき、最大の困難は、神がつくられたものに対する私の美しい思いや愛を放棄しなければならない、と考えることだった。しかし、気が付いた。それ自身が罪深くないものから持たされる幸福は信仰によってます、ということだ。神は美しいものの神である − 信仰は美しいものへの愛であり、天国は美しいものの故郷である。自然は義の太陽の中では10倍も輝き、私の自然に対する愛は、クリスチャンになってからの方が、より強まっている。(同書p.89-90)

     George MacDonald

     本ブログは、孫引きの孫引き状態であるが、George MacDonald, quoted in Williams Reaper, George MacDonald: The Major Biography of George MacDonald, Novelist and Victorian Visionary(Batavia, Ill, 1987,62)がオリジナルの出典らしい。)

     ある面、個人的にショッキングだったのは、そして、このことはもっと知られてよいと思うのは、「宗教を考えようとするとき、最大の困難は、神がつくられたものに対する私の美しい思いや愛を放棄しなければならない、と考えることだった。しかし、気が付いた。それ自身が罪深くないものから持たされる幸福は信仰によってます、ということだ。神は美しいものの神である」という部分である。

     というのは、知り合いの美術関係者が進路選択の際に、「芸術は、美しいものを追うので、美しいものを追った挙句、それが偶像になってもいかんから、そういうことはいかがか」とある教会の責任ある立場の人から言われたという事件が未だに引っかかっているからである。もう3昔以上の前の事であるが。個人的には、違うと思いつつも、聖書の理解が十分に進んでいなかったし、さらに、『わが故郷天に非ず』(現在絶賛されつつも絶版中)もまだ読んでいなかったし、神が与え給うた才能をどう生かすのか、教会の教理の理解のためにこういうことを放棄してもいいのか、ということの理解が十分できていなかったからである。最も画期的にこの考え方を変えたのは、N.T.ライト先輩のSurprised by Hopeを読んでからである。

     あるいは、知人にアイルランドの詩人William Butler Yeats の研究者がいるのだが、その知人に、Yeatsがクリスチャンかどうかを尋ねる教会人が時々いるらしい。キリスト教中心主義もいい加減にしたら、と最初その話を聞いた時には開いた口がふさがらなかった。

     だとすれば、キリスト者の経済学者が研究しようとする経済学はすべからくキリスト教経済学者が生んだ経済学や経済であらねばならず、本来その要素の極めて薄い日本経済は研究対象にしてはならず、キリスト者の哲学者が研究するのは、キリスト教的哲学でなければならなくなる。これだと、キリスト教的ななにかを偶像にしていることに他ならない可能性があるところにお気づきでないところが実に残念である。

     
    William Butler Yeats
     
     先にも触れたが、お伺いしたことのある東方系のキリスト教会は、日本人に合うかどうかは別として、非常に美しいし、東方系のキリスト教会の礼拝はフルで参加すると時間が長いが(それだけの事を再現して見せているということはあるから致し方がないのであるが)、一つ一つの行為と式で表現される象徴が聖書を忠実に再現しようとしていることを知ると、極めて味わい深い。

     ある面で、引き算で極限まで装飾性と象徴性を排除した結果のみをそのまま持ち込んで、日本という文化コンテキストの中で再現しているプロテスタントの教会の礼拝が、越川先生のMinistryでお書きの事ではないが、「はっきり言って日本のプロテスタント教会の聖餐のほとんどは「つまらない」のだ」と言われても仕方のない部分はあるよなぁ、と思ってしまう。
     
     このブログの読者で教会には行ってない、何らかのご事情で教会には行けなくなっているけれども、美しいものにひかれるという皆さんは、個人的には東方教会(日本ハリストス正教会)の教会に一度行かれることをお勧めしたい。司祭のおられる教会では、毎週のようにイエスがこの地を歩いたその姿が非常に視覚的にも聴覚的にも美しく再現されている。ただ、ある面、アメリカへの文化依存の影響の結果が強く表れている日本人の感性とはかなり違うので、その点への留意は少し必要であるけれども。

     まだまだ続く






    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしております。

    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-05-30)
    コメント:これまたお勧めしています。

    評価:
    ---
    日本キリスト教書販売
    ¥ 1,620
    (2015-11-17)
    コメント:良い。今回は、高齢化と教会がテーマとして取り上げられている。非常に良かったと思う。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM