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2015.11.28 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(11)

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     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から学んだことを考えてみたい。

    モルトマン先輩と教会
     ドイツの神学者、モルトマン先輩とそのお立場、聖書理解の大まかな(必要最低限の)方向性の説明があった後、ヤンシー先輩は、次のようにお書きであった。
     「教会とは、キリストのいるところだ。」モルトマンはそう確信した。目に見える教会は、キリストを受け入れ、福音を信じる人々で構成される。「しかしキリストは、貧しい人々、飢えている人々、病気の人、囚人のいるところにもおられる。『これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、私にしたのです』(マタイ25:40)。それが隠れている教会である。」神が大切に思っておられる、行き場を失った人々、虐げられている人々、差別されている人々、貧しい人々 − つまり、自分が失われている状態にあることを知っていて、見つけてもらうことを待ち望んでいる人々の切実な叫びを聞くことなしには、聖書を読むことはできないのだ。(隠された恵み pp.75-76)
     この部分を読みながら、今年の夏、大阪で開催された宣教学会でお聞きした、本田司祭とあるプロテスタントの元牧師にして元神学校の関係者の方との対話の時の本田司祭のことばが思い浮かんだのである。(詳細は、日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想  でご紹介)
     その一部を以下再掲しつつ、ご紹介したい。

    Q本田先生は、聖書を読み愛しながら読まなくていい、とおっしゃる。聖書を読むよりよりむしろ大切なのは連帯であるとおっしゃる。そして、神が望んである他人を大切なことをしろとおっしゃっておられる。それでは、普段何しておられるのか。礼拝を守っておられるのか。聖書を毎日読んで心の糧にしているのか。

    Aミサは労働者と一緒に労働者のミサというのをやり、オープンコミュニオンとして実施している。火曜日の晩に、趣味のミサと私が呼ぶシスターたちがやっているミサがあるが、これもできるだけ早くなくしたいと思っている。釜ヶ崎に行った当初、毎日ミサをやっていたのだけれども。
     ミサは、日曜日のみにしようとしており、火曜日の趣味のミサも早くなしにしたいと考えている。普段は、主に野宿している人の散髪をしており、1日3時間ほどで30人くらいの散髪をしている。ほかにも、反失業連絡会 共同代表 NPO釜ヶ崎支援機構などで働いている。
    (ここで、質問した牧師が、「聖書をお読みになって、こころの糧を得られているのではないですか?」と言質を得ようと食い下がる。この食い下がったことに関して)
     聖書から今日の指針を読み取ろうなんて、せこいことは考えてない。(会場大爆笑)イエスと会うか会わないかの方がよほど重要であり、人との出会いの方が、もっと大事であると考えている。
     この中で、本田司祭のご発言で一番すごいなぁ、と思ったのは、「聖書から今日の指針を読み取ろうなんて、せこいことは考えてない。イエスと会うか会わないかの方がよほど重要であり、人との出会いの方が、もっと大事であると考えている」という部分である。聖書研究で名をはせたフランシスコ会のトップまで行きながら、ある面、人生の糧を得ようなどというものよりも、より大事なものがあるだろう、というのが、本田司祭のご主張なのだと思う。つまり、キリスト教と言いながら、テキストばかりを扱い、人間を扱っていないではないか、というご批判だと思った。

     つまり、モルトマン先輩は
    「しかしキ リストは、貧しい人々、飢えている人々、病気の人、囚人のいるところにもおられる。『これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、私にしたのです』(マタイ25:40)。それが隠れている教会である。」
    と主張することで、我々は人が集まっている教会という建物を教会と呼んでいるが、教会とはそればかりではないのではないか、といっているように思う。建物とその中だけを教会と限定することで、キリスト者たちのマインドセットが視野狭窄に陥っていないか、ということをご指摘されているのだと思う。

     このあたりの事をお考えになりたい場合には、ジャン・ヴァニエ先輩の「小さき者からの光」をお読みになられることをお勧めする。


    モルトマン先輩

     迷っている人がやってきたときに、自分たちのかたちと違うからといって、本来神のかたちである人々を教会外に追いやって、ある面、お一人様クリスチャンとか、野良信徒というか、教会に属さないキリスト者や、キリスト者となりたくてもなれなくて、キリスト者扱いのスタートポイントですらつかせてもらえない人々、中には、キリスト者2世で、親からまだまだだといわれ、バプテスマを受けさせてもらえなかったため、霊に傷を負う人々もいるように思うのだ。まさに、こういう人にとっては、本来、希望と受容の象徴であるべきキリスト教が、こういう人にとっては、絶望や拒絶の象徴ともなりかねない場合もあるだろう。

    神に近い人はだれか
     神に近い人の逆説について、モルトマン先輩の所説を起点にヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    「〜なものは幸いです」で始まる山上の説教は、モルトマンのいう隠れている教会、つまり現状への不安と不満が鬱積した人々こそが、既に神に近いと述べている。考えてみるといい。豊かな人々は、まるでこの人生がいつまでも続くかのようにふるまうが、貧しい人々は、耐えがたいまでの渇望を感じている。神から切り離され、壊れてしまった世界を嘆いている人たちは、すべてを新しくすると約束している父なる神に引き寄せられていく。平和を作るものと憐れみ深い者たちは、その動機が何であれ、調和のため、また人類という家族を修復するために奮闘する。(同書 p.76)
     まさに、この話は、ルカ 16:19 以下の金持ちとラザロの話と同じである。あるいは、マタイ 15:21節以下のツロ・シドン地方のカナン人の女性との対話と同じである。あるいはヨハネ4:5以降のスカルの井戸のところで、イエスが水を求めたサマリヤの女、イエスを見ようとしたザアカイ、ダビデの子よと叫んだ盲人・・・・と聖書の中に神に近づこうとした、イエスに近づこうとした、多くの人々が出てくる。

     しかし、当時の絶望的な人々は、神に、イエスに、絶望からの開放を求めていった。彼らには、創造者である神がいるということが前提であったからである。しかし、現代の日本では、絶望的だからといって神を求める人はごく少数であろう。なぜならば、創造者としての神があまりに遠いからであるし、その前に立ちはだかるかに見えるキリスト教会よりも、特に難しいことも言わず(本来そうでないはずなのだが)、あっさりとした一時的な関係性でOKとする新宗教、新新宗教を含め、現実の救済を安易に約束してくれる多くの宗教集団や教祖様や宗教指導者の皆さんがおられる。お金を払うことで、現実の救済を求め、現実の不安を解消してくれる存在が極めてたくさん存在し、手直であったりするし、非常にカジュアルで簡単な関係で済むこともある。また、そういうお誘いをしてくれる親類縁者もいるかもしれないし、まぁ、そういうところの話は単純化され、わかりやすいことも多い。しかし、キリスト教はこの世界において時間を過ごす生あるいは人生においての安易な救済や開放を言わないところが多いが(そうでないところもキリスト教にもある)、日本には、それに代わる安易な解決がやたらとたくさんあるので、まさにハードルもどき、障害物走のように、障害が立ちはだかっているためか、そちらに行かれる方も案外多いように思う。まぁ、教会の数が少ないし、また、その敷居が内部者に低く、外部者に敷居は高いので、神に本来近いはずの人も諸般の関係により遠くなってしまっているように思う。


    障害物走 Wikipediaさんから
     
    信仰を持つ人、持たない人
     信仰を持ってても、迷うのである。そうだとしたら、信仰を持たない人を我々がどうして信仰を持たない人を、迷っているとか、つまらないとか、くだらないとか、言えるのだろうか。信仰の父と呼ばれたアブラハムですら、迷うのである。なお、ヘブライ的に言うと、恐らくアブラハムはユダヤ人ではないらしい。まぁ、そうだよね。そもそも出身がそうだし、ユダヤ人の母親から生まれていないし。
     信仰を持っていない人を、信仰を持つ途上で迷子になっている人と見るか、それとも正しくない人と見るか、その違いはとてつもなく大きい。(同書 p.77)
     信仰があっても、正しくないのである、ということをもう少しキリスト者はきちんと認識した方がいいのかもしれない。本来全ての人は、神のかたちを持っている存在であるのだ。それを、正しくないとか、間違っているとか、救うべき対象だ、かわいそうな対象だ、キリスト者にすべき存在だ、というのはどうなんだろう、と思っている。
     まるで、豊作に満足し倉に食物がたくさんあることで満足しきっている金持ちのようではないか、と思う。


    まだまだ続く










    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ---
    (2010-08-20)
    コメント:是非、一読をお勧めしたい。

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