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2015.11.25 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(10)

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     今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』を読みながら、考えた事をちょっこし書いてみたいと思う。

    迷うことの意味
     近代社会では、出発地から目的地をいかに効率的に、短時間で結ぶのか、ということを目標に施設設計をするのが常であるし、そのターゲットを実現 することこそが、望ましいことであると暗黙の内に想定している。廻り道が嫌いなのであるし、目的を持たない行為というのは、軽視される傾向にある。

     近代の時代では、迷うことはあまり良しとされていない。迷うことの意味も意義をも認めず、それは無駄であり、時に悪とされる。なぜならば、すべからく人は合理的であり、合目的的に行動するものと思われているからである。そのために、迷わないように様々な仕掛けを作り出していった。新幹線しかり、飛行機しかり、鉄道しかり、学校しかりである。しかし、個人的には迷うことの意味というのは大きいと思う。ヤンシー先輩は、この迷う人々について、次のようにお書きである。 

    特定の宗教を持たない人々のことを、「邪悪な人々」とか「救われてない人々」ではなく、「迷える人々」とみるようにしたら、その人たちとの関係がどれほど違ってくるだろう。「迷える人々」という言葉を聞くと、そうした人々を猛烈に非難してきたリバイバル説教者を思い起こす人たちもいる。しかし、私は「迷える人々」に、それとは異なる、もっと深い思いをこめている。コロラド山中でハイキングをしている時、道標を見失ってコースから外れてしまった経験を何度かしている。うろたえながらもパニックを起こさぬようにして、地図と磁石を見つめる。そなえもなく山で夜を明かすことの危険は分かっているが、すでに貴重な時間とエネルギーを使ってしまっている。(中略)(別の登山者に)追いつくと、その人は親切に私の地図をとって、現在地と進むべき道を教えてくれる。そしてわたしは、もう迷っていないと実感するにつれ、不安が薄れていく。帰り道がわかったのだ
     しかし、そんな風に山で遠回りをしたおかげで、思いがけない宝物を見つけたことも事実だ。ほとんどの人たちが知らずに終わる景色や発見に出くわしたのだ。(『隠された恵み』pp.71-72)

     信仰を持たない人々や別の宗教を持つ人々を「邪悪な人々」や「救われてない人々」と呼ぶのは、日本のキリスト教の一部でもあると思う。尊敬される、大事にされるどころか、軽蔑され、伝道の対象、私たち教会によって救われるべき悲しい人々にされてしまうのだ。これは、耐え難いだろうと思う。事実、ミーちゃんはーちゃんが参加させてもらったことのある教会で、「どうも、このキリスト教の救いの概念が耐えがたい」と言われた方もおられた。「なぜ、あなた方から救われなければならないのだ、助けられなければならないのだ」とおっしゃる方と出会ったこともある。

     キリスト者の側がキリスト者による救済を意識してお話していなくても、聞く方としては、「キリストによる開放」「キリストにおける神との関係の確立」ではなく、「キリストによる救い」は「キリスト者を介した救済」と受け取られる場合も存在してしまい、自らを弱い立場のものである烙印がおされることに耐えがたい人々もいる様である。ある面で言うと、これもまた、近代のもたらした病であり、近代の「人間中心思想」がニーチェの言う迷いを持たない周囲に依拠せず存在している「超人」(傍からすると、痛いだけの自己満足の方にもなりかねないが)概念を生み出したように、全ての人が努力して超人になろうとした結果、そういう人のこころの琴線にキリスト教が触れられなくなってしまっているようにも思うのだ。そして、キリスト教もその近代思想の影響を受け、さらに、世間を自分たちより一段と低く見る傾向から、キリスト者こそ「超人」であり、全てのものを超越した存在で神に一直線、最短コースでつながっている存在であるかのように「事実とは異なる」ことを主張してきたような気がする。その結果、バプテスマを受ければ一丁上がりであるとし、バプテスマを受けた日から、即戦力であることを期待するようなキリスト教の一部の人々も生み出してきた。それではまずいと思うのだ。


    究極超人あ〜る こういう超人ならいいのだけど

     「バプテスマ」を契機とした物語の内に生きることは、N.T.ライト先輩の「クリスチャンであるとは」でも紹介されている。プロセスとしての信仰であり、信じるということでもあると思うのだ。目的地はバプテスマではないし、終末における「天」でもないということであると思うのだ。迷いながらも、苦しみながらも、自分の不信仰さに時に嫌気がさしながらも、神と共に生きることが信じる、ということだと思うのだ。

     個人的には、人間は不信仰の内に生き続けるのである、と思っている。不信仰はペテロ君やトマス君だけの専売特許品ではない。何せ、復活のイエスを見ても尚疑うものがいたのであり、その事をイエスは云々されていない。
    【口語訳】マタイによる福音書
     28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
     28:17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
     28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
     28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
     28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
     なお、信仰者の疑いに関しては、山崎ランサム様のブログのシリーズ 「確かさという名の偶像シリーズ」の第1部          10 が良い。

     なお、最近参加した「信じる」ことに関する宗教間対話のイベントで、ティリッヒという人が信仰の裏側に必ず疑いが存在するというような指摘を最下部で紹介している書籍でしていることを知った。まぁ、疑う以上神の存在を前提としているわけで、その意味で無神論的ではないことになる、ということだろうし、疑うということは神に求め、神を求める作業なので、一種の信じることでもあるようなのだ。

     後、迷うことの中に、他の人の知らない景色を見るという表現が出てくるし、N.T.ライト先輩の「クリスチャンであるとは」でも、その意義が出てくるのだが、その迷っているときに突然藪から棒ににゅっと出てくる感じで突然の他者性をもって神がある人の人生に現れること、即ち聖書の行間や、人々の会話や、時に讃美歌などを通して、啓示されるのではないか、と思うことがある。その意味で、迷いとは、神と出会う極めて重要な機会であり、そこに神ご自身の複雑さと美しさを見る瞬間があるのではないか、と思うことがある。

    途方に暮れている人々
     ミーちゃんはーちゃんは、腹時計と太陽さえあれば、GPSがなくても、カーナビがなくても、大まかな方向を見定めることはそれほど難しくないという特性を持っているので、ナビゲーションシステムがなくても、大抵の場合は困らないが(時に、道路が曲がっており、元の出発点に戻れないことがあるのは、事実であるが)、自分が目標だと思って進んできた結果、帰り道がわからなくなるというのはよくある話かもしれない。それが恐らく聖書のギリシア語におけるἁμάρτημαの意味かもしれないと思う。

     ミーちゃんはーちゃんの大学時代のご学友に品川あたりの方がいて、その方が幼稚園児のころ、三輪車に乗って、東京タワーを目指していってみた話があった。幼稚園児で三輪車で行けると思うあたりが東京人である。関西人には、そういうことは思いもつかない。その品川あたりにお住いのご学友がご幼少のみぎり、東京タワーに本当に三輪車で行った結果、確かに東京タワーにはついたのだが、家に還ろうと思ったら、東京タワーほど大きくなくて、見つけられなくて、途方に暮れてしまった旨のお話をしてくださったことがある。人間とは、このご学友のようなものかもしれない。何か目当てになるものを目指して進んでいった結果、ついてみて、さて、あぁ、こういうところか、とわかったとして、いざ家に戻ろうと思っても戻り方も、どうやっていいかもわからない状態になってしまって途方に暮れてしまった状態かもしれない。

     ヤンシー先輩は、そのような様々な人生での喪失や迷いを経験したバーバラ・ブラウン・テーラーの以下の文章を引用しておられた。

     このように、自分の思いと異なるところにおかれた境遇を、最初は喜べませんでした。しかし今、元に戻りたいとは思いません。迷っていた間に、道を間違えなかったら発見できなかったはずのものを見つけたのです。正気の人なら決して選ばないような人生を私は生きて来ました。そして、人々から見落とされてきた宝物を見つけました。それは思い描いてた人生の報酬にはるかに勝るものでした。こうしたことは、迷うかもしれないけれどもあがらわず、むしろ霊的な訓練としてその道を進むことにした理由のほんの一部です。その時に、聖書は大きな助けになりました。神のために最高の働きをしたのは、まさに迷っている人々であったことを思い起こさせてくれるからです。(pp.72-73)

     ををを、かっこいい。迷った人々が神のための働きをした、ここまで言い切れるところがすごい。近代人である我々は、迷う人を準備が足らないとか、わかってないとか、問題があるとかいいたがるけれども、神は、そのような迷う人をお持ち委になられた、ということは案外大事であると思うのである。信仰の人アブラハムとは言うが、彼はある面迷う人であった。カランを出るかどうか迷い、子供が与えられないことで迷い・・・とまぁ、褒められた人ではない。ダビデもバテシェバの色香に迷った人である。
     

    バイブル・ハンターのバテ・シェバちゃん
    (いのちのことば社、ぎりぎりをついてくるなぁ、と思った。
    フィギィア化したら、売れるんじゃない?と言ったら却下されたw)

    「迷っていた間に、道を間違えなかったら発見できなかったはずのものを見つけた」というのは、案外あると思う。近道と思って、そこにたどり着いていたと思っていても、そこで見落としていることが案外多いのではないかと思う。聖書を読んだスピードを競う人々がいる。1年間で、3回読んだとか、10回読んだとか。それって意味が全くないとは言わないが、そこで見落とされているものが多いかもしれない。個人的には、そう思う。

     しかし、迷いの中にある中で見えるものがある、とは思うのだ。ある面で、迷うことを意図的に考える場合もある。それは、prayer labyrinthというものである。意図的に自分自身を迷いの中におき、そして様々なことをゆっくりと歩きながら、思いを巡らす時間をとるためのものである。一種、Googleも講演者として呼んだティク・ナット・ハーンのマインドフルネスともつながる概念であると思う。ゆっくりと歩きながら、こころを巡らせ、呼吸を整えながら丁寧に生きることを考える、というのは、実は、開発者にとってみて案外大事なのだと思う。結果に目指して一心に合目的的に進みながら、その目的や結果にばかり目を合わせていってしまうために近視眼的な思考にとらわれることから、開発者が脱出するためには、かえって迷いの中に自らを置き、そして、そこから考えるという作業は案外重要なのだと思う。


    Prayer Labyrinthの一例


    Googleでの講演 ティク・ナット・ハーン

     なお、Googleがティク・ナット・ハーンを呼ぶ気持ちはよくわかる。なぜなら、仏教とシステム開発の技法は非常に良く似ており、細かなところまで神経を張り巡らして、丁寧に作っていくことが良いシステムの必須条件であるからであり、普段からこの種の訓練をしておくことは、システム開発者にとって有効であると思う。マジな話。

    家に帰る物語としての聖書
     聖書の物語は、家に戻る物語である。放蕩息子の話もそうだし、アブラハムのロトの救出物語もそうであるし、失った銀貨の物語もそうだし、1匹の羊のもの譬えもそうだし、ザアカイの話もそうである。本来あるべき場所に戻す、というのが聖書の物語である。ヤコブは、ミイラにされても何でも、カナンの地に戻るのがその物語であるし、バビロン捕囚にしても、哀歌も、イザヤ書も、本来あるべき場所にあるべきものが戻る話ではある。そこらあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    私は長年にわたり聖書を研究しながら、聖書全体を貫く重要なテーマ、すなわちこの壮大な書物を一言で言い表すと、どのような言葉になるかを探ってきた。そして、こういう結論に行き着いた。「神は、ご自身の家族を連れ戻す。」聖書が全巻を通して語っているのは、痛ましいほど長く複雑な過程を経て、強情な子どもたちを家に連れて帰ろうとする神の御姿である。確かに聖書は、黙示録における大家族の再開で終わっている。
     イエスのたとえ話の中心テーマは失われた状態であり、それは放蕩息子のたとえ話において最も感動的にとらえられている。(pp.72-73)
    ヤンシー先輩ご指摘のように、「痛ましいほど長く複雑な過程を経て、強情な子どもたちを家に連れて帰ろうとする神の御姿」はバビロン捕囚でもそうだし、出エジプトもそうだし、旧約聖書自体がそうである。それを象徴する言葉が、怒りでもなく、心地よい風のように語りかけられた「あなたはどこにいるのか」である。

     神が言われたのは「あなたは、間違っている」「あなたは道を迷っている」「あなたは逆らった」「あなたは私の怒りを買った」でもなかった。人間の存在場所を知っていても、あえて「あなたはどこにいるのか?」と神との関係を求めていることが聖書の中心テーマであると思う。その意味で、神と人がともに住むことを示している黙示録は、確かに終末であるし、人間の回復がなされるという神の目的が達成されていることを象徴的に示している聖書の部分であるということがふさわしいように思う。破壊や悲惨を神が目的としておられるのではなく、まさに、神が人とともに住み、もう神が「あなたはどこにいるのか」「あなたと時間がすごせなくて残念であると思う」ということが終了する世界こそが、神が望んでおられるような気がするのだ。悟りを開くことでも、精神が鍛えられ、超人になることでもなく。


    まだまだ続く。








     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    ティリッヒ
    新教出版社
    ¥ 1,080
    (2000-07-01)
    コメント:かなりよさそう。全部読んでないけど。

    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-05-30)
    コメント:お勧めしております。

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