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2009.09.04 Friday

苦しみについて

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     苦しみについて、考えている。

    一つは、精神的にちょっとつらい、ということころがあるから。

    もう一つは、今週末参加する予定の聖書研究会が苦しみについて

    その存在理由について、であるから。この聖書研究会は、創造論

    的な立場からの研究会なので、たぶん、アダムとエバの善悪の知

    識の木の実のところからなのであろう。

    それはそれでよい。

    しかし、最近、ナウエンとかスキャゼロとか、クラウド・タウン

    ゼント(バウンダリーズ)を読んでいるせいか、(たぶん、ナウ

    エンの影響)苦しみの意味を考える。苦しみそのものよりも、苦

    しみを通してもたらされる荒野の経験というのか。荒野にいる、

    ということの意味、荒野で経験する深い神との個人的な霊的交流。

    もちろん、教会では共同体として経験する神との霊的交流がある

    のだが、荒野での個人と神との交流は非常に深いものをもたらす。

    そのことの意味を感じる。

     なぜ、苦しみがあるのか、という問いは、近代人、啓蒙時代人

    であるがゆえにもつことがゆるされる問いではないか、と思う。

    というよりは、近代人だから、啓蒙時代を経た人間中心的な思想

    の結果もたらされた問いだと思う。その背景には、苦しみを悪と

    とらえる思想、死を悪、生を善としてとらえる思想があるのでは、

    と思う。

     聖書のオリジナルの思想に戻れば、本来、死も生も善であるの

    かもしれない。というよりはいずれも価値から中立的な存在であ

    る。神の支配下にあるのだから。死も苦しみも中立であり、その

    まま受け入れるべきもののような気がする。苦しんでいる時はつ

    らい。それはその通りである。しかし、そこには深い神との交流

    がある。それを味わうことができるのは、苦しみを通してかもし

    れない。

     中世人、とりわけ、中世の普通の庶民にとって、理不尽な苦し

    みは日常的なものであったと思う。それでも彼らはそれを受け止

    め、当然のものとして生きてきた。なぜか、そこに神と出会った

    からではないか。彼らの考えを書いたものはない。しかし、彼ら

    に希望を与え続けたのは、共同体としての教会であり、共同体そ

    のものの中の現実の人間のありようだったと思う。

     そのことをもう少し考えてみたい。自分自身の痛みを通して。



    コメント
    ”荒野の経験”って良い表現ですね。励まされます。
    確かに苦しみの中で神様を求める思いが増し加えられます。
    苦しみには終りがあることを信じられたら、その苦しみに意味があることを信仰でとらえることができ、平安に満たされますね。
    40日で終わる。

    1pet 1: 7
    信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
    ほんとうに、荒野の経験というのは、大事かもしれないと思います。イエスも通られた荒野の経験。絶対的な孤独の中で出会う経験です。そして、イエスと出会う経験だろうと思います。

    上沼昌男さんの「闇を住処とする私たち、闇を隠れ家とする神」という本でも、このテーマが取り上げられていました。非常に思いを深める本となりました。

    コメント、ありがとうございました。
    • かわむかい
    • 2009.09.05 Saturday 07:37
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