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2015.11.23 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(9)

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    対話のためのアルテ

     メディアに現われるキリスト教への批判的な視点への対応をどうしたらいいのか、キリスト教自身が批判されたら、あるいは我々自身が批判されたり、攻撃されたように感じたらどう考えればいいのか、ということは、このブログをお読みの皆様方には、明らかであろうが、ヤンシー先輩が書いておられる内容と、そのもととなった、マーティン・マーティさんのことばがなかなか味わい深い。
     多くの著作を持つシカゴ大学のルター派の学者マーティン・マーティは、メディアが発見した新無神論についての記事に反論しないのかと読者に聞かれたことを『クリスチャン・センチュリー』誌に書いている。そして、「自分自身のため、そして関心のある人々のため」の助言リストも一緒に乗せた。その一部を次に記す。
    • うろたえないこと。米国にはこれまで似たようなことが何度かあったが、乗り越えてきた。
    • 記事を書いた人にお礼状を送りなさい。この無関心な時代に論争点を提起し、関心を示しているのだから
    • あざけらないように。このような記事を書く人の多くがあざけっているのだ。そうしたからと言って私たちに何になるのか。
    • 勝ち誇った口のきき方をしないように。97対3で、私たちが彼らよりも数でうわ待っているという人たちもいる。その通りであるなら、信仰者たちにとってなぐさまになるが、だからと言ってそこに何の意味があるのか。
    • 議論しないように。神が存在するか否かの議論は成り立たないー確固たる答えを持っている人が勝者になるからだ。良い質問を出して、それらに答えようとする会話からならだれでも得るものがある。
    • 記事を書いた人たちは、彼らの専門外のテーマについて煽情的な議論をしている。そうした議論に取り合うよりも、その人たちの書いた良質な専門書を読むように。それらの本から学ぶことがあるのかもしれない。
    • 宗教の名で恐ろしいことがなされてきたし、今もなされていることについて、彼らの言い分に同意するように。しかし、それが宗教のすべてでないことにも目を向けさせるように。内部からの宗教批判のほうが鋭く、より重要である。
    • あなたが信仰者であるなら、誰かの言動が宗教に反感を持つ人たちに正当な理由を与え、このような類の本の需要を生み出していないか、よく考えてみるように
    (隠された恵み pp.59-61)
     こういう方法を対話の技法、対話のアルテと呼ぶ。説得(折伏もどき)の技法が得意なキリスト者の方や恫喝の技法が得意なキリスト者の方にお出会いをしたこともあるが、なかなかこういう対話の技法をお持ちの方には出会ったことがない。このあたりのマーティ先輩がご主張様な内容はもう少し考えられてもいいのではないか、とは思う。



    Martin Martyさん

     こういうのを読むと、誠に恐れ入りました。まだまだ修行中でございます、とは言いたくなる。批判には批判を、目には目を、歯には歯をとガチでぶつかりたくなる誘惑ということに人間はすぐ引っかかる。また、確かに旧約聖書はそれを容認するかのような表現もある。しかし、イエスは、目には目をとされたかどうか、を考えてみると、問題をより大きな目で見て、大きくとらえて、それってこういうことでないか、ということを言われているようなのである。例えば、不倫現場でとらえられた女性だけを律法規定を順守して石打にしようとする群衆に向かって、「その石を投げてもいいけど投げたらどうなるか、わかるよね」と言われたように思うのだ。

     キリスト教会関係者に、自分たちの正当性を示すために、自分の信仰以外を持つ他者を貶めてみたり、相手の言うことを聞かなかったり、そもそも相手を何とも思ってない人々も多くおられる。そして、同じ聖書理解の傾向の仲間同士て群れて褒め合い、他者の議論を聞きもせず、さもわかって自分たちが正しいと思い込み、ご満悦しておられる人々も時にお出会いすることがある。実に残念なことである。

     一番困るのは、アマチュア研究家風の人である。アマチュアで研究してはならないということではない。アマチュアでも立派な研究成果を上げておられる人はおられるし、アマチュアでも学問のルールにのっとって研究され、立派な研究をしておられる方を何人も存じ上げているところである。

     たちの悪いアマチュア研究家風の人は、結論先にありきで、それを主張するための何かを繰り出すばかりで、その議論の前提となっている結論がそもそもどうなんでしょうか、という点を考えようとするとそもそも対話しようという気がなく、ほらこんな証拠が、あんな証拠がということを繰り返すばかりで、前提の妥当性、枠の妥当性に関する対話に至らない。そういうのを、研究ごっこというらしい。こちらの研究ごっこのQ&Aがなかなか秀逸であるので、研究ごっこかどうかは、各自適宜ご判断をば。
     
     なお、当ブログは、基本研究ごっこの域を出ないことはお断りしておく。

     なお、本書が、いのちのことば社から出た意義は大きいと思うのは、上のマーティン・マーティ先輩のことばのこの部分と重なるからである。「内部からの宗教批判のほうが鋭く、より重要である。」従来、こういう本は、キリスト教会の暗部を示すものであり、証にならないから、ということで出さないでほしいとかいわれることが多いようで、まぁ、自分に向かって唾するようなものだから、やりにくいのはわかるが、これをあえて「いのちのことば」社という体質の伝道団体が出したことを高く評価したい。まぁ、こういう自己批判を回避する方がよほど証にならんと思っているのは、ミーちゃんはーちゃんの性格と頭がおかしいからだろう。

    くらえ「あなたは間違っています」攻撃
     「あなたは間違っています」はTBSのテレビドラマ「小公女セイラ」のセイラさんのキメ台詞、「あなたは間違っています」というのがあったのだが、まぁ、キリスト教徒の一部に「あなたは間違っています」にちかいことを連発する人も案外多いらしい。そのあたりに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
     宗教を持たない人々に、「クリスチャンとはどのような人々ですか」と尋ねてみれば、「独善的」、「排他的」と言ったことばが帰って来るだろう。クリスチャンは自己防衛するために他者の考えを否定するので、上から目線の裁く人間という印象を与えているかもしれない。同じようなものを自分の中に見るとき、「あなたは間違っている」と人から言われたらどう感じるか、思い出してみる。それは自分の信仰を無神経につきつけるとき、相手がどんな気持ちになるかを知るための強力な手掛かりになる。批判されて信仰の道を見出した人に、私はであったためしがない。(同書 p.61)
    ヤンシー先輩のことばが、またすごい。「クリスチャンは自己防衛するために他者の考えを否定するので、上から目線の裁く人間という印象を与えているかもしれない」ミーちゃんはーちゃんも、そう思います。

     自分の信仰を他者に無神経に突き付けるときの事に関連して、ヤンシー先輩は、「あなたは間違っています」といわれた時の言葉を思い起こされるようにしておられるようであるが、ミーちゃんはーちゃんは、必ず、以下の番組のセイラさんのことば「あなたは間違っています」を思い起こすようにしている。




    何でも聖書に答えがあるといいたがるクリスチャン

     まぁ、ミーちゃんはーちゃんは、聖書無謬論的な教会で育ったために、聖書の中に何でも回答があるという大人(大半は今は物故者)の方々のお話を有難く拝聴してきた。しかし、まぁ、世俗の仕事をするようになってから、それはどうなんだろう、ということを思うようになった。仕事で、さすがに4元連立微分方程式を使うことはなくなったが、聖書の中にはかなり詳しく読んだが、4元連立方程式の解法はなかったように思う。読み飛ばしているかもしれないので、聖書に解法が載ってました、という方はご教示願いたい。あるいは、プログラムの逆アセンブル法も、聖書にその具体的な方法論は記載されていないような気がする。

     しかし、聖書の初心者向けの講演の中では、「聖書の中にすべての解決があります」というような表現が安易に用いられることもあるし、実際にそういう「中年の主張」のようなものを拝聴したことがある。「青年の主張」なら「青いのぉ」と聞き飛ばすこともできるのではあるが…。そこらあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    私たちクリスチャンは、すべての答えを手にしているわけではない。目には見えないが神は存在し、人生には”騒々しさ”だけでなく、大切なものがあること、見かけがどうであれ、この世界は人格を持った方の愛により作りだされたものであると信じながらも、つまづきながら進むのだ。そして、いつしか倫理的な問題と混同して、神の国の優先順位をないがしろにしていることに気づく。私たちには、自らを誇る理由などないのである。(同書 p.62)
     まさにおっしゃるとおりである。「見かけがどうであれ、この世界は人格を持った方の愛により作りだされたものであると信じながらも、つまづきながら進む」しかないのだと思う。自分には受け入れられない食べ物を天からぶら下げられてこれらを食え、と言われた夢を見たペテロ爺さんもいたのである。



    キリスト者は、「いつしか倫理的な問題と混同して、神の国の優先順位をないがしろにしている」というのは痛い表現だと思う。性倫理(同性愛とか)生命倫理(人工中絶)の問題を聖書理解の問題にすり替えて神の国の人を愛する、神のかたちを他者の内に見るという最も大切なものを忘れて、同性愛者とか人工中絶経験者の相手の事情も知らずにディスりまくるとかまぁ、ややこしい人も中にはおられる。

    引用文の最後に、「私たちには、自らを誇る理由などないのである」という表現があるが、個人的には、そのヤンシー先輩、「御意。禿同」と申し上げたい。自分たちに「豊かさ」を与えてくれた神を誇りたいという発想からかもしれないが、いつの間にか自分たちの与えられている「豊かさ」の自慢大会をされる方もおられるし、自分たちの倫理性(それがどういうものであるか、本当にあるかどうかはもう少しよくご吟味された方がいいかもしれないが)を与え給うた神を誇りたいがゆえに、ご自身の「倫理性」を誇られるようなことを公言される方もおられる。こういうご発言を拝聴させていただくたびに、主客逆転するのは、どうしたものだろう、と思うのである。短絡的な発想や、単純化の結果であるとは思うのだが。


    ナウエンの伝道 探し求める伝道

     ミーちゃんはーちゃんは、ナウエンの読書会をリアルで開催するほど、ナウエンの著作が面白いと思っている。日本語に翻訳された本はほとんど集めまくった。本は陶器と同じで、出会ったときが買い時であるが、ナウエンの本の場合、時に翻訳であちゃーという思いを持つ本がある。
     そういう本が多いのではあるけれども、内容は非常に良い。従って、読書会では英文テキストで読んでいる。
     司祭のヘンリ・ナウエンは、南米への宣教旅行の中で謙遜を学んだ。貧しく学のない人々に自分の知識を伝えようと思って南米へ赴いたが、半年間の滞在中に、こう結論する。(中略)「謙遜こそがキリスト教の真の美徳です。救うことができるのは神おひとりであることに気づくとき、私たちはのびのびと奉仕するようになり、真に謙遜な人生を生きることができます。」ナウエンの伝道は、「真珠を売る」ような、あるいは良き知らせを触れ回るといったやり方から、愛すべき人々の中にすでにある「宝を探し求める」姿勢へと変化を遂げた。宗教ではなく、恵みを選ぶように変わったのである。(同書 pp.62-63)
     私たちは、どこかで神に成り代わり、人々を救うと思っているのかもしれないが、ナウエンはこういっている。「救うことができるのは神おひとりであることに気づくとき、私たちはのびのびと奉仕するようになり」という指摘は大事ではないか、と思う。そんなことは、わかっていると諸賢は言うかもしれない。それならばよいのだが、案外、「神」とか「神のこと」という看板というかブランドをかさに着て、どこぞの両替商みたいになっているかもしれない。

     真珠を求める真珠商の話が聖書の中に出てくるが、我々は、それを他者に高く売りつけるために、神に高く売りつける様なことをしているのかもしれない。神がそこにおかれた一見価値が低く見える真珠に価値を見つけて、それを宝とし、生命をかけてくだらなく見える人間を買い取ろうとしたイエスの姿を我々は忘れているのかもしれない。


    まだまだ続く





    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:絶賛お勧めしております。

    評価:
    ヘンリ J.M.ナウエン
    聖公会出版
    ---
    (2009-07)
    コメント:これ、いいんですよ。でも今、絶版ですか。頭が痛い。恐怖の国において神の愛を見つけることについて書かれています。

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