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2015.11.21 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(8)

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      今回もヤンシー先輩の書籍『隠された恵み』の中から紹介しながら、ちょっこし考えた事を述べてみたい。

    他者を愛することと神の似姿を見ること
     まずユダヤ人の指導者のことばを引用しながら、少し考えたことを考えてみたい。他者を愛することは、新約聖書、旧約聖書共通する理解である。あなた方の隣人を愛せ、というのは旧約聖書や新約聖書にあるのだが、あなたの民族を超えて愛せ、という記載があることをご存知の方はどの程度であろうか。近時のテロ事件などを考えるに、すぐ爆撃というあたりが頭が痛い。

     レビ記19章部分を受けてかどうかかわからないが、正統派ユダヤ教会(Orthodox Synagogueのことだろうと思われる) で有名な指導者の発言を紹介しながら、聖書理解の根幹にかかわることをヤンシー先輩はお書きである。
     
    イギリスの正統派ユダヤ教会の著名なリーダー、ジョナサン・サックスによると、「ヘブル語聖書(旧約聖書)の1節は『隣人を自分のように愛しなさい』と命じていますが、『他人を愛しなさい』と命じている個所は、少なくとも36あります。宗教としての最大の挑戦とは、私たちの似姿を持たない人の中に神の似姿を見ることです」。(『隠された恵み』 p.49)
     つまり、他者を自分のように愛する背景には、全ての人が、神の似姿に創られているというところにあるということをなんちゃってユダヤ教徒ではない、正統的ユダヤ会堂に属されておられるラビのジョナサン・サックスさんも、ヤンシー先輩も指摘しているのではないか、と思った。


    Jonathan Sacksさん

    神の似姿(かたち)と私たちの似姿
     この神のかたちや神の似姿に関連して、ある学校の先生が、学校は学習のための組織であり、学校に人格形成の外注まで持ち込むな、というブログ記事を、ある方がTwitter上でご紹介されていたのを受けて、教会論の話に発展することになった。

    M編集長
    「学級崩壊した後の学級担任」 ⇒
               
    (ミーちゃんはーちゃん)
    痛いけど、大事なことだと思う。 近代がもたらした学校という制度が、人間形成を外注させたと考えると実につらい。 そして、人間が人間でなくなっていく工場を作っていると思うと。 教会もそうかもしれない。
               
    (KMNさん)
    なんとなく、わかるなあ。それと、人間を人間らしくするのが、教会であるはず。
               
    (ミーちゃんはーちゃん)
    ほんとうに、そうなんですよ。人間を本来の神と共に生きる民として整えるところが教会で、それを毎週体験しつつ覚えるところが聖餐(礼拝)のはずなのに、伝道し、説得するため道具に人をするような教会を教会と自称しておられるところもあるので。
               

    (KMNさん)
    ライトを読んでいるわりに、ライト的ではないですね。福音は人間を神の形へと新創造し、人間を「神のかたち」すなわちもっとも人間らしくするのです。そのための場が教会。

               

    (ミーちゃんはーちゃん)
    いや、個人としては、ライト先輩に賛成なんですが、そうでないような教会が案外多くて、残念。また、ライト先輩をお読みでない方も、その意見に反対の方もおられて、そういう方々とお話したり、そういう教会と出会う度に、頭が…になりそうで。

     ここで、ジョナサン・サックスさんのご主張の、「私たちの似姿を持たない人の中に神の似姿を見ることです」という表現は、極めて大事だと思う。基本的にこれが旧約聖書、新約聖書全体を通して我々に神が示そうとしておられることではないか、と思うのだ。

     聖書の基本的なご主張としては、ある人(クリスチャン)のみが神に創造されて、イスラム教徒や仏教徒、無神論者やリベラルの徒や輩は神に創造されていなかった、などということは主張してないと思うのだ。ミーちゃんはーちゃんは聖書の一部を読み飛ばしている可能性があるので、クリスチャンのみが神に創造されたものであるというような記述があれば諸賢の方々から、ぜひご教示賜りたい。意見を変えることにミーちゃんはーちゃんは、やぶさかではない。

     

     余談はさておき、KMNさんのご意見とジョナサン・サックスさんの主張をミックスし、多少加筆するすれば、
     

     「(鼻で息するものであり、神ではなく罪がある、あるいは満たしがたい欠落部分がある)私たちの似姿を持たない人の中に『神のかたち』を見出し、そして、ともに神にあるものとして、神の似姿、神のかたちとなるべく、神と共に生きるようになれたらいいなぁ」ということを素朴に思う、ということではないか、と思うのだ。
     

     それなのに、あぁ、それなのに、自分とちょっと違う考えを持っていると、この人は自分の似姿(それが人間としての思想や信仰、聖書理解の同質性ではなく、神の似姿にいつの間にか変換される これが怖い)をもってないから、教会に来てもらったら困る、とか、神から聖絶指定と指示があるとか(そんなことは神は理由なく、めったに言わないように思う)、ディスりまくっていいとか、炎上させて苦ませればいいとか、悪口言って困らせればいいとか、怪文書をあちこちに送りつけて、その後始末をさせればいいとか(東海地区重のH先生、心からご同情申し上げます)、まぁ、すごいことが起きるのがキリスト教会のようである。

     まぁ、リーダーシップのダークサイドではないが、クリスチャンには、ダークサイドがある。それが、「神のかたち」であるべき人間が「神のかたち」そのものになりえない理由である。

     以前にお伺いしたキリスト教会や、過去にお会いした経験があるキリスト教の信徒の方に、教会や信徒はご自分を含め、音声言語で語って伝道する兵隊や道具のようにしか見ておられないような発言をされる教会やそういう教会の信者の方がおられる。よもや牧師先生や神学校の先生方ががそういうことはおっしゃらないだろうと思っていたら、この前のある所で、ある神学校の先生が、信徒や教会は伝道の道具と誤解する人が出ても、仕方がないかな的な趣旨のご発言(前後のコンテキストをガン無視してその発言を聞いた場合、どうしてもそう聞こえてしまう)があって、ちょっと唖然とした記憶がある。

     勇気を出してずいぶん前にご投稿いただいたCaledonia様のご投稿を受けての記事 あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。 でもご紹介しているが、ある一部のクリスチャンには、自分の似姿(自分と同じ聖書理解をもつ人物)でないと、「切って捨つるに何がある」よろしく「それはリベラルの考え方だ」といって批判されたご母堂様がおられた(おられる)ようである。

     まぁ、ミーちゃんはーちゃんのFacebookにも、そのような形で「N.T.ライトはおかしい」とか、「N.T.ライトの終末論はおかしい」、とか、「間違っている」とコメントを下さる方がおられる。確かに、そういう記述のあるサイトもないわけではない。その時の「おかしい」とか「間違っている」は個人的には、「その方の聖書理解とは一致しない」という意味であるように思う。そう思うことにしている。
     

     まぁ、そういう方のご批判がN.T.ライトの原典(英文)をお読みいただいてのご批判なら、いいのであるが、日本語の翻訳書も読まず(2冊くらいしかない)、どこかに書いてある内容をそのまま引きうつして、コメントして下さる方もおられる。個人的には、かなり残念だと思う。
     

     個人的に、「おかしい」とか、「間違っている」と思うならば、N.T.ライト先輩がアリスター・マクグラス先輩にしたように、英文で正々堂々と反論を出版社を介してなり、セント・アンドリュース大学を通してなりの方法で、ご本人や出版社に英文でお手紙するなり、面談を申し込んで、直接お話しになるべきであり、ミーちゃんはーちゃん風情にコメントするべきではないのである。
     

     ミーちゃんはーちゃんが書いたことで間違いがあったり問題であるとお感じであるなら、それは受けて立ち申す。もし、間違っている、不適切である、と思ったら、本ブログの当初の運営方針通り、訂正いたす所存である。コメントいただけたら、コメントには、コメントでお返しするなり、記事にするなりして基本お返ししているところである。本文と無縁と判断いたした内容は、迷惑コメントとしているところである。
     

     ところで、神の似姿は被造物たるすべての人にあるのでは、というお立場でお取組になられたマザー・テレサや西成で働いておられる本田哲郎司祭あるいは、それと行動を共にされた枚方パーク付近の教会におられる司祭のお話をお聞きすると、この神のかたちを見出すということにいかにミーちゃんはーちゃんが不完全かと思わされることが多い。つい、伝道の対象、説教すべき対象と認識してしまい、愛すべき神のかたちを見損なうことが多いは事実である。それは正直に認める。まず、「伝道せねばならない」という思いが浮かんだときには、個人的に「まず、そこかい」と自分で突っ込むようにしている。
     

    クリスチャンであることもやめたくなる人も
     あんなクリスチャンと一緒にされたくない、ということで、教会を離れる人もいるだろうし、極端な場合には、クリスチャンであることもやめてしまう人がいるのである。

     クリスチャンは、それと反対の行動をとることが多い。自分たちに敵対する人々のことを「世俗的ヒューマニスト」、異端者、背教者と決めつけて悪魔のように見なし、こころの要塞に引きこもる人もいる。数年前の自身の回心について小説家アン・ライスは率直にこう語っている。「私はクリスチャンでいることをやめました…キリストは信じていますが、『クリスチャン』でいることや、キリスト教の一員であることはやめたのです。この喧嘩腰で、敵対心が強く、議論好きで、評判が悪くて当然の集団に属していることに、耐えられなかったのです。」同性愛の人々に対する敵意が、この決断に至った理由であると彼女は語った。(pp.49-50)



    Anne Riceさん

     調べてみたら、このAnne Riceさん、女子が好きそうなバンパイア物も書いているし、魔女物も書いているし、なんか官能小説もお書きの模様である。こういう書籍類に興味は全くないので、詳細な内容はよくわからないが、まぁ、こういう書籍を公刊する人にとっては、キリスト教会は居心地はよくないだろう。だって、教会で、「いやぁ、バンパイア物書いてます」「魔女物を書いています」「官能小説を書いています」とか正々堂々と言ったら、「何考えとうねん」と突っ込みの一つや二つ、あるいは、集中砲火を浴びるだろう。アメリカだと生卵とかRotten Tomato(映画やビデオの評価雑誌ではなく、もともと腐ったトマト)が地域によっては投げられることもあり得る。

     ライスさんは、「この喧嘩腰で、敵対心が強く、議論好きで、評判が悪くて当然の集団に属していることに、耐えられない」とお書きであったが、それはそうだろうなぁ、と思う。内部にいて批判を受けない分には、耐えられないということはないにせよ、いったん批判を帯びたら、かなりねちねちと、それも正々堂々とではなく姑息な手段で批判を受ける状態が、米国でも日本でも待ちうけているからである。まぁ、それに関しては、 Ted Haggardを受け入れることができるだろうか? でも触れたところではある。

     なお、このRiceさん、最近ではどうした風の吹きまわしか、イエス伝をお書きのようである。日本では発売されていないようだけど。

     実は、いま読んでいるSearching for Sundayの著者Racheal Held Evansは、同性愛者ではないが、同性愛者の友人がおり、その人のことを考えると、教会の前庭に掲げてあった、同性婚を認めないテネシー州法(南部バイブルベルトで、スコープス裁判という進化論を公教育で教える問題の当否を扱った裁判がおこなわれるなど、かなりガチな保守的な方がおられる州の法律)の制定に賛成すべし(住民提案1号だったらしい)という立て看板が教会にデカデカとおいてあることにショックを受けて、もともといた教会に行かなくなり、もともといたその教会から去った人であるが、まぁ、それまで集っていた教会から彼女が教会を去ったら、あらぬうわさを流された話が出てくる。以下で紹介する。

     まず、教会を去った時に何が起きたかというと、以下のようなことを直接言われたらしい。
     神の道は我々よりいと高きものであって、我々は疑問を持つのをやめ、神に信頼すべきだ。
     あなたの生き方の中にある罪がつまずかせているのではないか。悔い改めれば疑いは消えるだろう。
     聖書以外のものを読むのをやめるべきである。あなたの読んでいる本があなたを迷わせている。
     私の教会に来るべきだ。
     ご自分のプライドをチェックし、神に従うべきではないか。

    "God's way are higher than our ways. You need to stop asking questions and just trust him."
    "There must  be some sin in your life causing you to stumble. If you repent, your doubts will go away."
    "You need to avoid reading anything beside the Bible. Those books of your life are leading you astray."
    "You should come to my church."
    "You should listen to Tim Keller."
    "You need to check your pride, Rachael, and submit yourself to God."

    (Searching for Sunday p.52)
    と言われたそうである。日本でも、そんなもんだとは思う。この記述以降の部分には次のような記述があった。教会に行っていないときにもブログを書いていて、教会に対する疑問に格闘していることを書いた時にMe too(私もそうなの)とコメントの言葉が非常にうれしかったことを書いてあった。そのような内容の後に、目をくぎ付けにされた次のような文章があった。


    Rachael Held Evansさん Wikipediaより
    (日本語変換)

    私が思っているようなことを書くことは、受け入れがたい意見を放送するようなもので、それは、服からちらっと赤いブラジャーを見せるようなものだ。悪い噂は、町中では、それがさらに増幅されて伝わった。参加していなかった(あるいは、参加してはならんと言われた)日曜学校(引用者註 米国では大人の聖書クラスがある教会も多い)で繰り返しに話題にされたし、両親のところには、私が聖書の無誤性に疑問を呈しているという言葉が寄せられた。フェイスブックのメッセージには、誰かから聞いた人からの情報として、これまた誰かから聞いたこととして、「レイチェル・ヘルドが仏教徒になったらしい」と聞いた、というメッセージが寄せられた。
    「仏教徒?でも、私はまだ仏教徒になるほど修行ができてないの」と返事をした。
     あとお定まりの文句は「祈ってます」であった。

    (原文)
    Blogging about these things meant airing my unpopular opinions like red bras on a clothesline, which meant talk around town only amplified.  I became a recurring topics of conversation in the Sunday school classes I did not attend (or so I was told). Word got back to my parents that I'd been questioning biblical inerrancy on my blog. I received a Facebook message from a friend who had heard from someone, who's heard from someone else, that I'd become a Buddhist.
       "A Buddhiest?" I wrote back. "Oh, I'm not disciplined enough to be Buddist."
      "Praying for you" is all I heard in response. (Searching for Sunday p.62)
    とろくでもないことが起きるのである。まぁ、こういうブログを書いているから、こういうことはミーちゃんはーちゃんも時にある方からお伺いするが、とりあえず、私のブログの記事を全部お読みになってから、書面にてご意見を伺いたい、と申し上げることにしているし、実際にそう申し上げたことが数度あるが、実際にそうされたうえで、直接書面でご意見をお寄せいただいた方はまだない。

    敵対関係をあおり、
    立場の違う「神のかたち」をあざける人々

     米国では、さまざまな問題を政治的に考える風土、これはもう風土としか言いようがない。なんでも政治的な参照枠を先に置き、実際の問題をあることへの賛否に単純化させ、それに対して賛成か反対かを論じあうことが民主主義であると思っている部分が多分にアメリカ人にはある。もちろんそれは民主主義の一形態ではあるが、民主主義の中の熟議的民主主義は含まない。

     その典型が裁判で、訴因に関してのみ、賛成か反対かを言い募り、全員が納得して、一つの結論に達するまで議論する。もちろん、全員一致が原則であるので、全員一致とならない場合がある。その場合は、裁判長が、Mistrial (審理無効)を宣言し、裁判はやり直しになる。そして、小学校のクラスから、大学院くらいまで、また新聞、テレビ、日常会話など日常生活の端々にまで、この対立する二つの軸を作りだし、その対立軸間での論争に問題を落とし込む議論の進め方の構図がごくごく普通である。

     そして、これはアメリカ合衆国でのキリスト教の世界にもこの様相が持ち込まれるのである。そして、どちらが正しいか、どちらが間違いか、という問題に問題が矮小化され、議論が進められていく。全体的にどんな風に間違いであるか、ではなく。
     政治はとりわけ、愛の反対である敵対関係をけしかけ、対立する文化が繰り広げる喧騒に介入するクリスチャンは、考え方の異なる人々を「リベラル」とか「不道徳」とまでいってあざける傾向にある。(同書 p.50)
    こういうことがおこなわれる世界では、最初の問題の立て方というか、考えるべき内容がどのようなものであるかをきちんと定義し、議論の参加者がそれを共有し、合意したうえで議論することが極めて重要である。この問題の立て方をいい加減にしてしまえば、膨大な時間と労力と知力の損失と堂々巡りが発生してしまう。しかし、それは往々にして起きる。問題解決のアートでは、この問題設定の重要さを忘れた議論を問題解決の第3種の過誤としてMitroff and Fotheringhamという人が次のような定義をしている。「考慮すべき内容(問題)を誤って定義して、不適切な定義による設定された内容(問題)を一生懸命解こうとする」として知られていることである。案外、日常生活では、この種の議論が多い。

     まぁ、4年前のブログ記事 あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。 や いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた でも取り上げたが、Caledoniaさまは、ご親族やその関係の取り巻きの方から、自分とは考えの異なる人々(自分の似姿でないもの)というレッテルをはられ、責め立てられ、必殺祈り攻撃を受け、大変厳しい思いをされたようである。実に残念なことである。

     この自分の似姿でないものの「内容」としては、教会に持ってくる聖書の種類、教会に来る時の服装、ふだん読んでいる翻訳聖書の種類(アメリカでKJVがデフォルトの教会にNIV持って行ったら実際に白眼視された)、教会堂でのお茶の入れ方、教会堂の掃除の仕方から、クリスマス会などのイベントに対する考え方や内容、伝道と称される行為についての方法、伝道で用いる用語、講壇から司会などでの話すスタイル、教会堂の建設計画に至るまで、「その教会の人々の似姿(とその理想形)」と一致しているかどうかを問われることがある。その乖離の程度がどの程度かによって、立ち話によるご高説拝聴とか、牧師とか教会役員やその家族による呼び出しとか、必殺祈り攻撃にあうとか、怪文書が出回るとか、教会での吊るし上げとか、いろいろあるようである。個人的には、そんなことまで聖書は規定しないと思うし、KJVとかにこだわるなら、どうせなら、ギリシア語のテキストとか、ヘブライ語のテキストにこだわればいいのに、キンドルかPCもって教会に来られたら、とは今では思っている。
     
     前述のような厳しい経験をRacheal Held Evansさんは経験をされて、教会に行きそびれたものの、いろいろな教会巡りをした挙句、よい教会に巡り合われ、そこに定着しておられるようである。



    まだまだ続く


     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしております

    評価:
    ゲーリー・L・マッキントッシュ,サミュエル・D・ライマ
    いのちのことば社
    ---
    (2013-06-06)
    コメント:非常に大事なことが書いてあるので、一読をお勧めしたい。

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