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2015.11.18 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(7)

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    今日もヤンシー先輩のご著書(翻訳版)からご紹介し、拝読しながら、思ったことを本歌取りして遊んでみたい。

    クリスチャンに対する4つの不満あるある
    クリスチャン・トゥディ(アメリカでの英語名はさすがに苦情を言われたようであるが、Christian Postに変わっている)という名の日本の紛らわしい名を持つインターネット・クリスチャンメディアではなく、クリスチャニティ・トゥデー(Christianity Today)での調査を引用しながら、ヤンシー先輩は、次のようにお書きである。


    先にあったキリスト教雑誌 クリスチャニティ・トゥデイ
    クリスチャニティ・トゥデイのN.T.ライト 特集号 
    (以下の引用部分は同号にはない模様)
     
    『クリスチャニティ・トゥデイ』誌の中で、クリスチャンにしばしば向けられる4つの不満を見つけた時、このこと(イエスが他人を愛せと言ったときに他人の見方を真摯に考えなさいという意味が含まれている可能性)をが頭をよぎった。
    • クリスチャンは話を聞かない。
    • クリスチャンは裁く
    • クリスチャンの信仰は人を混乱させる
    • クリスチャンは物事を正すのではなく、間違っていることについて語る。
    これらの不満を顧みて、クリスチャンは人間関係の基本的な部分を無視しているがために、他者とのコミュニケーションに失敗しているのではないかと思った。偉そうに人をさばいたり、行動の伴わない高尚な言葉を語ったり、相手の話を聞く前に一方的にしゃべったりするとき、愛することに失敗している。そして、乾いている世界をいけるいのちの水から遠ざけている。神の恵みという良き知らせが、聞かれないままになる。(『隠された恵み』 pp. 44-45)
    うーん、ヤンシー先生耳が痛いです。「クリスチャンは人間関係の基本的な部分を無視しているがために、他者とのコミュニケーションに失敗している」ですか。反論しにくいです。はい。

    確かに伝統的に採用されていた伝道方法であるイケイケどんどん型(促成栽培型、単発イベント依存型)伝道方法で、伝道する場合、どうしても、コミュニケーションしようとする習慣はないかもしれません。近代における均質社会に近い状態を前提とした社会の中でのコミュニケーションの方法論として、印刷物の配布やイベントによる伝道方法を中心とした方法論の有効性、つまり、マスコミ型メディアのみに依存した伝道方法の有効性という傾向はあったかもしれない。

    なお、この種のマスコミ型メディアに依存した伝道方法は、『目覚めよ』というフリーペーパーで有名な某キリスト教風の団体とか、立正佼成会とかはこれらを配布することで伝道ができたし、それが有効であった時期は確かにあった。

    それは、ある面、印刷物が希少であり、意味のある資源であったし、貴重なメディアであったという背景によるのだと思う。しかし、これだけ、フリーペーパーやら、雑誌やら、ネットが普及し多様化した情報伝達メディアた社会の中で、無料印刷物の効果というのは、かなり限定的になりつつあるように思われる。

    続いて、「クリスチャンは物事を正すのではなく、間違っていることについて語る」という表現の意味は、原著を見てないので何とも言いかねるが、「クリスチャンは(自分たちに関する)物事を正すのではなく、他者に関して、クリスチャンの視点から間違いだと思うことを正す」くらいの意味ではないかと思う。そして、挙句の果てに、「自分たちは神の民だから間違うことがない」と言い張るのであれば、目も当てられない。

    クリスチャンは話を聞かない」という表現は「クリスチャンは一方的に話すばかりで、他者から学ぼうとする気もなければ、素直に話を聞く気がない」という意味であろうし、「クリスチャンの信仰は人を混乱させる」は、「クリスチャンの『信仰』と称するもの聖書の主張には似ているけれども、そうでないものを語るので、混乱させる」という意味かもしれない。

    クリスチャンは裁く」というのは、一番たちが悪いと思う。誰があなた方を私たちの裁きつかさや調停者に任じたのか、とイエスはそういう立場に立つのをかなり積極的に避けたのに、「我ら神と共に在り」と「神は我らと共に在り」のパロディにもつかないことを言う方もおられる。我らが先にあるのではなくて、神が、この不甲斐ない人間どもと共に歩まれていただいているということが抜け落ちている方とも時にであう。かなわないなぁ、と思う。

    先日も福音主義神学会西部部会に行ったのであるがその基調講演中、神戸の改革派神学校の吉田校長という方が、「魂の医師」としての司牧の役割をお話であったが、「病人どもを癒してやろう」という立場で接するのではなく、イザヤ預言で言われた「苦しみと病をともに担うイエス」に従うものとして、魂に触らせてもらうという虞をもって対応することの重要性を解いておられたが、これまでは、「オレたち、神の民だから俺たち健康、お前たち不健康」と言ったような態度の方もお会いしたことはあるが、そのような態度については、個人的に遺憾であると思う。何より、この発言が改革派神学校の校長先生の口から出てきたのには驚いた。それは、神学ALG「少子高齢化を神学する」でも、この吉田先生からのご発題では、通奏低音が流れていたので、あぁ、やはり、とは思ったが。

    人間の議論の勝ち負けを気にしてはいない神

    これもまた、福音主義神学会西部部会で改革派神学校の吉田校長が言われていたこととつながるが、キリスト教史の中で、とりわけプロテスタント系以降に生まれたキリスト教理解では弁証学とか弁証論を大事にしてきた。つまり、自分の正統性を言葉で示すことがある面重要視してきた部分があり、そのため議論の勝ち負けが、信仰理解の正当性の保証と深く関係してきた部分があった。それ故に、議論に勝つことが最重要課題であった時代もあった。それが、表面化したのがScopes裁判と呼ばれる学校において進化論を教えてよいのかどうだか問題を話題にしたまるで茶番劇のような裁判である。
    そのような勝ち負けを争う信仰のスタイルについて、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
    私たちが議論にどれだけ勝利しているかなど、神は記録されて居られないだろう。実際神が記録しているのは、私たちがどれほど多くを愛しているか、かもしれない。クリスチャンという言葉を聞いて、どんな言葉が思い浮かびますか」という質問に、「愛」という言葉が返ってきたことは一度もなかった。それでも愛が、間違いなく聖書に書かれている正しい答えなのだ。(同書 p.45)
    日本でも結婚式を非キリスト教徒でも教会ないし教会もどきでしてもらいたがるほど、キリスト教界は愛や平和を象徴する記号(シニフィアン)である。それは以下の結婚式及び葬儀場運営会社のCMに良く表れている。


    BellcoのCF

    しかし、その教会が指し示しているはずのシニフェとしての「愛」を教会の中にいる人々のイメージとして真っ先に上がってこないという米国の状況と、もちろん日本の状況は違うだろうが、一体現代の日本ではどうなんだろうか。もし米国と同様であり、日本人のクリスチャンイメージに愛がほとんどないとしたら、愛がキリスト者のシニフェでないとしたら、内容(クリスチャン)と外側(愛を示す教会という建物)に違いがあるということでなり、看板に偽り…とならないだろうか。その辺の事は、少し考えた方がいいかもしれない。だからこそ、中身には「愛」が期待されていない以上、外側だけあればいい、ということにもなりかねず、結婚式場運営会社の経営するなんちゃってキリスト教会での愛が誓われても、我らは口をつぐむしかあるまい。

    愛は「マザー・テレサ」や「マキシミリアノ・コルベ」司祭の専売特許なのだろうか。もちろんこれらの方は愛にあふれていたであろう。それは尊いことではある。我らは、それらのキリスト者の代表的な方に目を向けさせるだけで、いいのだろうか、ということを、今のところ考えている。ただ、基本的にこういうマザー・テレサやアッシジのフランシス、クラスの徳性が大きく欠落しているミーちゃんはーちゃんがこういう人のまねをすることは、ウサイン・ボルトをまねて、100mを競技場で走るようなものなので、無理だとは思っており、ミーちゃんはーちゃんらしい方法で、ミーちゃんはーちゃんに内住しておられるはずのキリストの愛を示す方法というのはないものか、とは常々思ってはいる。

    ちなみに、キリスト教と愛との関係で日本で一番有名な人物の一人であるバレンタインはカトリック教会からは列聖されなくなったが、日本のお菓子メーカーの一部からは、列聖されているように思える。

    先にあるべき人間関係
    生まれつき個人的に友達を作りやすい人というのがおられる。個人的にはうらやましくも思うが、それはミーちゃんはーちゃんにはそういうのはない。まぁ、興味を持った人には突進していく猪武者のようなところはあるが(ご迷惑をおかけしております。お付き合いいただいている方には心からの感謝と御礼申し上げます)、ちょっとした面識があると割と素直に短時間で親しい関係に入れる人はおられる。ないものはないのだから、しょうがない。伝道向きに創造されていないということなのだろう、と思っている。

    余談はさておき、人間関係がない環境での伝道は、路傍伝道とか、要するに大衆動員型のリバイバル大会とか、伝道大会とか、そういう形で実施されているように思っている。それは伝統的に生まれてきた伝道方法なので、しょうがないかなぁ、と思っている。前回の記事の最後で、紹介したJesus Campのワンシーンにあった、あの10歳前後の少女のように、身も知らぬ関係のない人に(ある種の)義務感だけで、伝道していくというスタイルのように思えた。あるいは、大人や他人からの評価を背景とした伝道であるように思った。まさに人間関係を気付くことなしに、その人への愛や思いもへったくれもなしに、まさに藪から棒に伝道するような方法である。そういうのは、実は不適切なのではないか、とこれまたTim Keller先輩からの引用をしながら、ヤンシー先輩は次のように書く。
    人が変えられるということの多くは、友情の結果として生じるものだ。費用を投じ、よく練り上げられた伝道計画や教会成長計画がもたらした成果も、友情の結実の一部にすぎない。ティモシー・ケラーは言う。「伝道を条件とした友情など考えてはいけない。友情を条件にして考えるのだ。あなたの伝道は、作り物ではなく自然なものであるべきだ。多くの問題点を箇条書きにし、顧客を獲得しようとしているマーケティングの担当者がするというような会話の始め方は不適切だ。」(同書 pp.47-48)
    まぁ、ミーちゃんはーちゃんは学生相手に今年からマーケティング関連の科目の講義も担当しているので、マーケティング部門のテクニックはある程度は承知しているが、基本、人々の購買意欲を増す方法の一つにどうしようもないことや、ほとんど起きないかもしれないことに対する恐怖をあおるマーケティングというのがある。例えば、しわがあるとみっともないとか、髪の毛が残念な状態であるとみっともないとか、という見栄えの問題で恐怖をあおってみたり、みんながそう思っているのに、それをしていないことは時代遅れである、と主張することで行動変容を起こし、顧客を獲得するなどということは、マーケティングでは当たり前の世界だし、現代の米国や日本では、ごく当たり前に行われている。

    そして、テレビではそういうマーケティングの方法論に乗ったCMで、これでもかこれでもかと商品が紹介され、我々はそれにならされているのかもしれない。

    その結果、地獄に行くかもしれないという問題点、不幸になるかもしれない問題点、と問題点を列挙するような伝道方法をとる人々もおられる。ただ、それはどうなんでしょうねぇ、ということをTim Keller先生はおっしゃっておられるようである。


    信徒獲得、伝道の対象、個性のないサカナ(それはおサカナさんに対しても失礼かもしれないが)のような形で人を見るところはあると思う。果たしてそれでいいのだろうか。戦闘機パイロットが撃墜マークを戦闘機の機体に描くように、伝道して信者にした人数を誇り、それを評価の対象にするような伝道の在り様は本当に適切なんだろうか、と思う。


    第2次世界大戦中の戦闘機パイロットと撃墜機数を示すマーク

    今読んでいるRacheal Held Evansの本”Searching for Sunday”の71から72ページに、一生懸命奉仕をし、巨大教会(メガチャーチ)のリーダーシップの階段をのぼりつめようとしたカウンセラーの女性信徒の話が出てくる。彼女は、その教会の階段を上り詰めることはやめて、キリストの貧しさと謙譲に触発された彼女いわく『下方への移動』 をしていくことに取り換えたことが書かれていた。そして、様々な問題を抱えた人々が集まり、ごたまぜに交流していく中にかかわっている組織の紹介があったあと、この組織にかかわっている女性が、自身完璧主義者で管理マニアであることから、この組織にかかわることにより、様々な人と出会う中でゆっくりとした回復途上であるが、この問題を抱えた教会というか組織自身、不安定なもので、ドラマに満ち溢れたものであり、Seeker Sensitive Model(恐らくであるが、人気のあるメガチャーチの牧師のオッカケをする人たちに乗っていくモデル)ではないことを言ったという。その彼女が言ったとされる言葉が痛烈である。”most people don't go to chuch to get annoyed” (誰も教会にいらいらする経験をさせられるためにはいかない。)

    確かに『罪』の問題は重要である。しかし、『罪人だ、それを認めよ』と責められるように言われるのと、『あなた自身が感じておられる言い知れぬ空虚感を埋められるものがあると聖書が言っているかもしれないですがねぇ』と言われるのではだいぶん違うのではないか、とは思うのだ。この二つ『罪人だ、それを認めよ』と『何か言い知れぬ空虚感をお持ちなのではないですかねぇ』というのとは基本的に同じなのではないか、と思っている。それは、ミーちゃんはーちゃんの勘違いかもしれませんが。

    まだまだ続く。







     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:絶賛お勧め中である

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