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2015.11.16 Monday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(6)

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    これまでの過去記事に引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から引用しつつご紹介していきたい。

    人生への意味と愛されること
    人は自分の人生や自分が生きてきた記録を残したいものである。秦の始皇帝やエジプトのファラオのような人は、でっかい陵墓を作ることに根性を入れる。また、ある人は文学作品を残すことに根性を入れる。土木関係者は、比較的長期に利用される橋や道路、ダムを地表上に構築することで、そのプロジェクトにかかわれたことを無常の喜びとする面はある。
    そもそも、土木工事とか、建設工事とかは、一時的にせよ現場が存在するので、そこでの作業は、一定の時期にわたる多様な人からなるコミュニティが形成されることとなり、それはそれで面白いのである。
    少なくとも日本では墓碑銘に刻まれたり、自分の所有地を示す境界標識に名前を刻んだりという形で行われたり、銅像を作ったりということでこういう名前を残すということが割と行われている。それは、後世に自分の生きたことを伝え、自分の生きた意味を後世に伝えようとしているのではないか、と思う。
    人間には、本能的に探し求めているものが二つあると私は確信している。私たちは「意味」を求めている。自分の人生が周囲にとって重要である、と感じたいのだ。そして、コミュニティーも求めている。愛されていると感じたいのだ。(『隠された恵み』 p.40)
    誰しも、自分の人生が意味あるものであると思いたいのは、そうだろうと思う。もし人生が虚仮であり、一切が空であるのだとしたら、生きる意味はなくなるのである。これはクリスチャンの信仰でもそうであるように思う。

    N.T.ライトのSimply Chrisitanの副題はWhy Christianity Makes Senseなのである。人は意味のないことをすると発狂しそうになるが、意味があると思えば耐えられるのであり、現代のようにクリスチャンであることに価値をあまり置かない西洋脱近代(西側のヨーロッパの近代時代を過ぎた時代)において、クリスチャンが価値を持つとはどういうことか、ということを考えることは案外重要な気がする。

    ラッセルのこころの中の空洞
    無神論者で、批判的な精神で富むことで知られたモダン時代の最後の大英帝国の思想家あるいは哲学者というか警句家バートランド・ラッセルが神で探し求めていたことがあったとは知らなんだ。ラッセルの娘の証言(たぶん伝記的書籍)を引用しながら次のように書く。
     
    有名な無神論者バートランド・ラッセルの娘は、父親についてこう述べている。「父は一生涯、神を探し求めました…父の頭の片隅に、心の奥底に、魂の深いところには、かつて神によって満たされていたのだけれども、それを外の何かで埋めればよいのかわからない空洞がありました。」(中略)いったい何がこの哲学者を信仰から引き離したのか。
    ラッセルの娘は一つの理由に触れている「(中略)人生から喜びを吸い取り、反対者を迫害する盲信的なクリスチャンや冷淡なモラリストを、父は嫌というほど見てきました。彼らが隠していた真理を、父は見ることができなかったのです。」(同書 p.41)
    この部分を読みながら、『人生から喜びを吸い取り、反対者を迫害する盲信的なクリスチャン』とバートランド・ラッセルの娘さんは書いておられるが、まぁ、こういう方は大英帝国や日本のキリスト教信徒の中に皆無か、と言われたらそうではないことは認知しているが、そうではないキリスト者もいることはそれと同時に確かだと思う。ただ、少数の例外的存在(例外的存在であると期待したいが)に前回記事で紹介したような火炎放射器のような炎上コメントをするキリスト者にやいのやいの粘着質的にやられたら、同じキリスト者であっても、いや、同じキリスト者であるがゆえにかなり食傷する。



    1938年頃のラッセル Wikipediaさんから

    自分たちが信仰を持っており、聖書を読んでいるがゆえに自分たちが正しい、正しいことを知っていると思い込み、他者に正しいことと自分が思い込んでいることを強要し、挙句の果てに他者から喜びを吸い取り、そして、自分に反対するならまだしも、反対ではなく、自分の主張に同意しないものを排除し、迫害する盲信的なキリスト者という存在は、確かに耐えがたい。

    こういう対応することで、本来、魅力あるものである福音や、福音そのものが持つその魅力が消し去れらてしまう、ひかりを失ってしまう(Vanished 本書の原文タイトル)ようにも思う。本書は、隠された恵みと日本語タイトルがついているが、英文タイトルのVanishedは、ラッセルの娘さんが使ったvanished という語が使われたのではないか、と思う。

    非キリスト者には分かりにくい表現である『証になる(福音やナザレのイエスが世の中の人に知られるきっかけになる位の意味)』という語があるが、キリストを一生懸命示そう、『証しよう』と思って『正しいこと』と思ってやっていること(他者を批判し、おかしいと言い募ることや炎上するような言辞を弄すること)が、かえってキリストの福音を隠しているのではないか、ということが、ここでフィリップ・ヤンシー先輩が言いたいことのように思われる。

    神から人々を引き離す教会

    それを実証するように、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    悲しい事に、私の知る多くの求道者が、バートランド・ラッセルと同じように、教会の中に、コミュニティーの本来の意味も問題解決方法も見出すことができなかった、と語っている。教会はその様な人々を、神に向かわせるどころか引き離している。教会は退屈で、堅苦しいことだらけの閉鎖された場所で、教義は排他的に聞こえる。(同書 pp.41-42)
    教会が信仰共同体、イエスを神とする共同体であると主張しているにもかかわらず、ああしろ、こうしろ、こうでなければならない、立派でなければならない、立派であるようにならねばならない、と主張されれば、それについていけなくなる人も出てくる。教会が家であると主張しながら、マスクをかぶり、いい子であることを求められるとしたら、あるいは、安心して、自分自身の思いを言える場所でなければ、それは家ではなくて、針の筵になるのではないだろうか。

    たしかに、「神に向かわせるどころか引き離している」と言われても仕方のない教会もあるだろう。神から引き離している本人たちは、神に向かわせようとして、結果が神から引き離しているということになってしまっているところが実にかなわない。


    閉鎖社会としてのキリスト教会
    さらにヤンシー先輩は、ある人のことばを引用しながらキリスト教界は閉鎖社会化、秘密結社のようなところであるといっている。
    また、別の知人は、クリスチャンは「この世VS自分たち」という考えを助長させていると激烈に批判した。クリスチャンは、人生のいろいろな問題に対する唯一の正解を持っていると自負し、傲慢で人を見くだしているように見えるのだ。彼女の眼に映る教会は会員制のクラブ、しかも会員になりそうな人しか重視しないクラブだという。「人々を改宗の『ターゲット』とみているなら、誠実な人間関係を台無しにしていると思います。」(p.42)
    この部分を見ながら、特に重要かなぁ、と思ったのは、「彼女の眼に映る教会は会員制のクラブ、しかも会員になりそうな人しか重視しないクラブだ」という部分である。なかでも、会員になりそうな人しか重視しない、というのは案外あると思う。キリスト教会に異形の人物が入ってきたり、ある面、異性装とわかる人々や、麻薬中毒患者という印象を与える人々が入ってくると、それだけで教会の中がわわさわと動揺することがあるのではないだろうか。もちろん、安全性の確保の問題、というのはあるかもしれない。

    この前のAll Saint Dayにご訪問したある英語でサービスがあった教会で、様々な聖人(列聖されたり、守護聖人とされたりした過去のキリスト教徒)とされる人々で、とりわけ奇妙の人々が紹介されていたが、ある聖人は意図的に奇妙な格好をして教会に入ってきて、みんなから嫌われていたもののその裏では、病人を訪ね、貧しい人々に分け与えていた、という話があったが、まずもってこの列聖されたような聖人は、以下の動画で示すような、現代の会員制クラブのような教会の入り口にいるBouncer見たいな人に、入れなくされてしまうのだろう。


    United Church of ChristのCMの動画 クラブのような教会をうまく表している。

    正直な批判と愛
    伝道することが目的になっている教会の場合がある。特に米国でのリバイバル運動、とりわけ大覚醒運動を経た後の教会では、もともと信徒であろうが何であろうが、主に野外や野球場やスタディアムで開かれたリバイバル大会(反知性主義で紹介されているような)に寄せ集め、手を挙げて回心した人の数で成功、非成功を判断するような性格の強い教会や運動体では、回心者として手を上げさせるための「伝道」がメインになる傾向があるように思う。本当にキリストと出会うのではなく、キリストに出会っている人をさらに「回心」させることに意味が出てきてしまうのは、なんかプロテスタントでありながら、はい、告解したい人、って手を上げさせるようなことと似ているような気がするのは私だけであろうか。(個人的な趣味を言わせてもらえば、最近本人作が米国で疑われているようなブログ記事まで出たグ▽ハ△2世(爺さん 今回の本が33冊目の本だそうだ)もどうかと思うし、それを担いでいるグ▽ハ△3世君もどうかと思う。)

    「わからないことがまだたくさんあります。でも、正直な批判は大切だと思います…。私は愛をもって批判するのがどういうことか、探っているところです。」彼女はそう語りながら、図らずも、伝道しようとするクリスチャンにとって最も重要な問題を指摘していたのかもしれない。それは、私たちはいつでも愛をもって伝道しているわけではない、という問題だ。信仰を恵み豊かなやり方で伝えようとするとき、その出発点に欠かすことのできないものが愛である。(同書 pp.42-43)


    この部分を読みながら思ったことは、「私たちはいつでも愛をもって伝道しているわけではない、という問題だ」というヤンシー先輩のご指摘である。牧師がメッセージの中で、「伝道しなければならない。それが教会の意味だ」という説教を聞けば、ミーちゃんはーちゃんやRacheal Hold Evansのように「それ、マジすか?」とかいわない人が大半だと、「あぁ、そうか、伝道することは大事なんだなぁ、伝道というのは、教会の中心的な課題なんだ」と素直に思い、以下の動画(Jesus Campから)のように、だれでもいいから、問答無用で縁もゆかりも人間関係もなく伝道しまくりのちっちゃなエバンジェリストをつくりだしてしまうように思うのだ。


    Jesus Campからボウリング場で伝道する少女

     果たしてこういうような関係も何もない人々に人間関係もないまま、一方的に信仰を伝えることとしては望ましいことなのか、と思うのだ。たしかに、伝道することは、キリスト者としての使命であるとは思っている。それは、イエスが言ったことの中の一つではある。しかし、聞く気もない人に、耳を引っ張りながら伝道せよ、とか、聞く気のない人にもラウドスピーカ―で伝道せよ、とか、受け取る気のない人の手を開いて、ほれ、これを受け取れとばかり、その人が持ちきれないばかりのものを渡すことをイエスは望んであるのだろうか。イエスは、次のように言われたのではなかったか。「聞く耳のあるものは聞きなさい」と。

     ところが、キリスト看板の皆さんみたいに、聞く気のない人々にラウドスピーカ―の大音声で、「やぁやぁ、我こそはイエスキリストの僕なり、我こそに真理あり」と源平合戦の富士川の騎馬武者対決のように呼ばわれとは、言っておられないように思うのだが。

     その意味で、現代の日本のキリスト教は、もう少し一方的に人々に絨毯爆撃のような形で呼びかける伝道や何でもいいから伝道するという方法以外の方法、人間関係に基づく方法を考えた方がよいのかもしれない。


     まだまだ続く

     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:絶賛お勧めしております。

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