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2015.11.14 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(5)

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     これまでの過去記事に引き続き、今日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介したい。

    宗教と善行のつながりへの懐疑
     イギリスでのある討論会のために行われた、2010年の宗教に関する23カ国の調査結果を受けて次のようにお書きである。
     以下は宗教は善行を促すことができるか?という問いに対する調査結果である。
     調査に協力した人々の52%が宗教は善よりも害をもたらすと判断していた。この調査では、このような反応の背後に何があるかという点は掘り下げていなかったが、例外があるにしても、キリスト教と共に歩んできた歴史のある国々、とくにヨーロッパ諸国において、善行を促す宗教への尊敬の念があまりにも低いことに注目せざるを得ない。対照的に、無心論者の指導者が全盛期に宗教を根絶やしにしようとしたにもかかわらず、ロシアでは宗教を重んじる人々の割合が高かった。またこの調査には、リバイバルを経験しているアフリカや南米諸国が入っていない。(『隠された恵み』 p.29)
    ここで、こういう文書があるとよくある誤用がある。おおむね半分の人が宗教は善より悪をもたらす、と過去の数字を独り歩きさせる方々がおられるのだ。その辺、ヤンシー先輩は、ちゃんと、これは全世界のすべての人を反映してないと、アフリカや南米諸国が不在であることを示しておられる。詳細なデータは、本書をお買い上げいただきぜひご検討願いたいが。

     ただ、この部分はどうも翻訳の精度があまり良くなく、非常に分かりにくい表現であった。原文を手に入れてないので何ともいい難いが、「調査に協力した人々の52%が宗教は善よりも害をもたらすと判断していた」と訳しているが、善行が問題にされた調査項目なのか、善そのものをもたらすか否かが、これこう訳すと分からなくなる。

     当初ミーちゃんはーちゃんは、善の問題って、それ以前の文章にみあたらなかったので、だいぶん探したが、どうも、52%の人が、宗教は善行をもたらさない、と回答していた。位の意味らしい。この部分の翻訳は、読んでいて混乱した。後は、p.30の表は、フォントだけがやたらと大きく、表が本文に比べて大きく、さらに言えば表のタイトル(何についての表であるのかを指し示す表記)がないので、読んでいて混乱した。この辺は改訂があるとして、ぜひご検討願いたい。

     今の教皇フランシスは、南米出身の教皇であるが、その発言は非常に印象深いものがある。おそらく、解放の神学の影響を相当受けているものと思うが、その解放の神学自体は南米という土壌で生まれた神学であり、貧しい人の中にイエスを訪ねる性質を強くもつものであり、その意味で善行と直接結び付きやすいが、その部分を除いてしまって本当にいいのか問題はあるかもしれない。

    対話が生まれない環境
     対話が生まれないのは、キリスト教側とリベラルと呼ばれる人々がそれぞれ自分の安全な砲兵陣地に立てこもり、そこから相手を砲撃している感じがあるように思うのだ。


    第2次世界大戦中の英国軍の野戦砲陣地
     読書会の仲間たちは、人権、教育、民主主義、社会的弱者への配慮といった大義を支持しているが、それらの大半はキリスト教から出てきたものだ。それなのに彼らは今、そうした大義に対する強力な脅威としてクリスチャンを見ている。(中略)この両方(読書会の側のリベラルな人々もクリスチャン側も)の立場の人々も互いから隔絶し、十分な対話やかかわり合いなしに他者をさばいている。(同書 pp.32-33)
     確かにリベラルな人々も、人間が失われるのがたまらなく耐えられないし、キリスト教とも基本的には、人が痛むこと、人が失われることは耐えがたいという面はあるのである。ただ、神の名が語られると、この人よりも神を大事にする人々が多くおられるので、このあたりが変わってきて、人の重みが異様に軽くなる場合がある。これは、キリスト教の内部でも同じように思うのだ。なぜならば、相手と話し合うのではなく、野戦砲ならまだしも、自分たちが極力傷つかないように戦略爆撃機やICBMで相手を攻撃するのに似て、相手の人格とは正対というか対面しない方法で相手を攻撃して終わりにしているのではないだろうか。


    相手から発見されにくいステルス技術満載のB2戦略爆撃機

     まぁ、情報収集は必要なので書かれたもの(つまり、誰かのバイアスやそれによる誤解が入った情報)を見ながら、相手を攻撃して、自分は正義を行ったような気になっていることはないだろうか。

     案外、相手に近づいてみると、その人となりや人格が見えることもあるので、あまり無茶なことができにくくなるというのはある。

     その意味で、アッシジのフランシスコがハンセン氏病者に近づいた時に、ハンセン氏病者に対する恐れがなくなったことや、様々な人々がイエスに近づいていったときに神への恐れが神への喜びに変わっていったことに似ているのかもしれない。恐怖を植え付けることで神に向かって近づけることをイエスはあまりされなかったように思うのである。恐怖を語ることで神に向かわせることは、かえって人を神から遠ざけるのかもしれない、と最近では思っている。

     最近読んでいるRacheal Hold Evansさんの本 Searching for Sunday(2015) p.82に次のような一節があった。お書きになった人の背景はよくわからないが。恐怖を語るで神に近づけようとすることは、人々を逆に神から遠ざけるように思いこませる場合があるのかもしれない例であると思う。紹介しておく。

    "I left church because I was taught from a very yound age that I was an abomination and should be put to death. I tried to kill myself twice as a teen because I felt God would not love and accept me as I was born." -Tim
    一応の日本語変換
     私が教会を去ったのは、私自身が呪われたもので、死ぬべきだと本当に小さいころから教えられていたからです。10代のころに二回自殺未遂したのですが、それは、生まれたままでは、私自身が神に愛されもせず、受け入れられもしないと感じたからなのです。Tim

     恐らく生まれたままではというのは、回心(悔い改めと、それに伴う心が温かくなるような経験)がないままだと、神に愛されもせず、受け入れられない、あなたには生まれ変わり、回心が必要だ、ということを必要以上に言われたのだろうと思う。 


    アッシジのフランシスコ

    炎上体質のネット社会の中での
    異なる意見の人への対応

     ネット社会では炎上しやすい傾向がある。ミーちゃんはーちゃんの友人には、炎上上等でいろいろなことをしておられる方もおられる。とはいえ、ネット上の議論を見ていると、批判といってもある方の発言を読む努力もなく、その背景を考えるべきでもなく、2次ソースにのみ依存した批判をされる方もある。特に炎上の場合は、こういう傾向が多いように思う。

     このような1次ソースに基づかない表面的な『批判』とよばれるものは、本質的な批判といわれるようなものではさらさらない。十分な調査もなく、言いがかりをつけているに過ぎない。非常に表面的なことでの批判で終わっていたり、他者が批判したその表現をもとに、さらに批判を広げていくという非常に不幸な構造があると思うのだ。

     本質的な批判というのは、よりよいものを目指いして自分の内から出てくる内発的なものであるはずであり、相互に尊敬を以てよりよくしていこうとする性質を持つものであり、他者の考えを切り捨てるものではないように思う。

     ヤンシー先輩が体験された炎上について、次のように書いておられる。
     故アンディ・ルーニーの引用を私のフェイスブックに張り付けたとき、この文化戦争の背後にある激しい感情に直面した。ルーニーはいった。妊娠中絶に反対することにした。殺人だと思うからだ。しかし、中絶反対派より、中絶賛成派の人々のほうがずっと好きだというジレンマを抱えている。夕食を共にするなら、賛成派の人々とがいい。」その発言に反応した人々のコメントで、サイトは軽く炎上した。(中略)
     こうした反応も、アンディ・ルーニーの主張を裏書きすることになった。私のサイトに火炎放射器のようなコメントを投稿した人々と夕食をともにしたいだろうか。私は答えた − そして、これが本書に繰り返し現れるテーマである − 重要なのは、私がある人に共感できるか否かではなく、自分とは意見の異なる人をどのように扱うかなのだ、と。(p.33)
     まぁ、炎上する人は何でも炎上するので、仕方がないのだが、しかし、「火炎放射器のようなコメント」ってのが面白いですなぁ。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは基本恬淡とした対応しかしないので、ネット上で炎上はしたことはあまりないが、時々、火炎放射器のようなコメントをくださるからもごくわずかにおられる。対話をしようと思ってこちらからご高説を伺いたい、とお願いしても、どこかのサイトでご高説を述べておられるのをお聞かせいただきたい、とお願いしても、そのご高説を述べられる方は極めて少ないのである。

     リアルでも火炎放射器のような攻撃というか、十字砲火のような言葉をくださる教会関係者の方もおられるが、基本言いっぱなしだったり、陰口のような対応だったりされるので、なんだかなぁ、と思っている。対話ではなく文句でしかないからである。まぁ、一応お聞きはするが。

     しかし、多くのアメリカのキリスト者(そして日本のキリスト者)における火炎放射器のような対応をされる方の聖書からは、震源の15章が抜けているかもしれないので、一応、口語訳聖書の箴言15章(旧約聖書の中にある)の冒頭部を転載しておく。
    【口語訳聖書】箴言
     15:1 柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。
     15:2 知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。
     15:3 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。
     15:4 優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

     まぁ、自分と異なる意見の人にどう対応するか、ということをヤンシー先輩は議論の一つに挙げておられるが、これもまた、聖書の中にあるように思う。基本、あの旧約聖書の律法の中にも、EmbracementというかInclusionということは言わないまでも、サドカイ派であれ、パリサイ派であれ、その重要性を等しく認めるモーセ5書の中に、次のように書かれているのではないだろうか。
    【口語訳聖書】レビ記
     19:33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。
     19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

     確かにイエスは、サマリアとガリラヤの境で、サマリヤ人もガリラヤ人も区別なく重篤な皮膚病をいやしたことがルカ福音書17章に記載されている。また、ツロ・シドンで娘をいやしてくれるように願うカナン人の母の願いを聞いておられる。まさに上のレビ記のような現実をもたらす方として、この地を歩まれたようにも思うのだが、それはミーちゃんはーちゃんの勘違いかもしれない。

     個人的には、違う立場の人の話をきちんと受け止められて、はじめて意味があるとは思っている。

     まだまだ続く



     
    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:是非お読みいただきたい。

    評価:
    Rachel Held Evans
    Thomas Nelson Inc
    ¥ 1,554
    (2015-04-14)
    コメント:ガチの福音主義者だった著者が教会に違和感を抱き、なぜバイブルベルトで教会にけつまづく人が多いのかに関して書いた本。面白い。

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