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2015.11.11 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(4)

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     これまでの過去記事に引き続き、今回もヤンシー先輩の本『隠された恵み』からご紹介していきたい。

    対話の必要性

     まず、今回の話は、キリスト者がポスト・クリスチャンの社会の中で、どういう扱いを受ける存在になっているのか、を我々がもう一度きちんと受け止め、ディスって終わりにするのではなく、対話をしていくことの必要性について、ヤンシー先輩がお書きとめになった部分からである。
    クエーカーにこんなことわざがある。「敵とは、私たちが話を聞いたことがない人のことである。」「ポスト・クリスチャン」と意思疎通を図るには、まずその話に耳を傾け、それを手がかりに、彼らがこの世界をどのようにみているか、そして私の様なクリスチャンをどう見ているのかを知らなければならない。そうした会話から、本書のタイトルが生まれた。神の恵みは驚くほど素晴らしいものだが、クリスチャンとポストクリスチャンが分かれている米国で恵みの需要は減少しつつあるように見える。(隠された恵み pp.24−25)
    この部分を読みながら、本書のタイトルを『隠された恵み』と訳すのはなぁ、とちょっこし思ってしまった。本書の英文タイトルは、Vanishing Grace、すなわち、Vanishingとは、消滅しつつある、あるいは、絶滅に瀕する、といった感じのことばである。隠されたというよりは、絶滅に瀕する恵みである。とりわけ、隠された恵みと訳してしまうと、この部分は全く意味とインパクトを失ってしまっている。

     原文を手に入れていないのだが、おそらく「米国で恵みの需要は減少しつつあるように見える。」の日本語の英文は、In US, the needs for grace seems vanishing というくらいの英文だろうと思う。ここの部分は、明らかに表題とひっかけていて、にやにやとして読む部分なのににやにやとして読めなくなっているのは実に残念だ、とは思った。

     それよりも大事なのは、以上の部分で重要なのは、「意思疎通を図るには、まずその話に耳を傾け、それを手がかりに、彼らがこの世界をどのようにみているか、そして私の様なクリスチャンをどう見ているのかを知」るということである。実は、本連載第2回で紹介した部分いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2)でもふれたように、これは、福音派のキリスト者が相手がどう思っているか関係なく、壁に向かっても相手の興味や地域や前提とは全く関係なく壊れたレコードのように同じ言葉で同じように福音を語るように語るという福音派の一部の人々の伝道における柔軟性の欠如をある面お示しなのであろう、と思う。イエスは、必ずしもそうはされなかったことを見れば、福音書の当意絶妙さを見ればかなり明らかであろうと思うが。


    教会から追い出された人々
    教会を去った人々

     教会に失望して去る人は少なくない。日本でも、それはそうであろう。ヨーロッパでも、日本でも教育機関と深くかかわっているキリスト教諸派は多い。その数例を、ヤンシー先輩はあげておられる。
    厳格なプロテスタントやカトリックの学校、偏屈な聖職者への不満を聞いた ― ジョン・レノンは少年時代、不適切な時に笑ったという理由で教会から追い出されたのではなかったか?スティーブ・ジョブズは、「なぜ神は、飢餓に苦しむアフリカの子供たちを助けないのか」との質問に答えなかった牧師を見て教会を去ったというが、それとよく似た話をする人々もいた。(同書p.25)
     まぁ、教会に限らず偏屈な人はいるが、それが宗教と化学反応を起こすとき、それは絶大な力を発揮し、暴力を生じることがある。おおむねカルにおいては、この化学反応はかなり見られるようであるが、カルト全般が偏屈な人と宗教というこの化学反応の結果ということではないようにも思う。どちらかというと偏屈な人と宗教の化学変化がめちゃくちゃひどくて、行きつくとこまで行ってしまって、オリジナルの宗教のそもそもの目的(つまり人々の渇きをいやす)という美点を失ったものがカルトなのであろうと思う。

     伝統教派でも、どこでも、社会の中に偏屈な人がいる程度に偏屈な人はいるし、ミーちゃんはーちゃんは自分自身が偏屈だということくらいは理解しているつもりなので、化学反応を起こし、急な爆発的反応を起こさないように気をつけている(つもり、の範囲は出ないが)。

     しかし、ジョン・レノンの笑いを受け止めて笑い返すとか、一緒に笑いあうとかいうような司祭や牧師はいなかったのであろうし、スティーブ・ジョブスが「なぜ神は飢餓を許すのか」ということを問うたとき、正直に「わからない。残念だけど。しかし、それを含めて神の支配の中にあると思う」と答える牧師がいれば、禅的な影響の決勝でもある初代のiPhoneは生まれなかったろう。まぁ、基地外の多いAtari社の中でも異彩を放っていたらしい仏教的な天上界(ときどき体から臭いにおいが漂う人がいるらしい)にお住まいだったかもしれないスティーブ・ジョブスにまともに答える気持ちになれなかったという気持ちもわからなくはない。

    反感の販促活動に勤しむ教会
     アメリカにいた時以降から感じたことだが、アメリカには意図的に反感を売って歩くようなキリスト教関係者が一部にいることは確かだと思う。本人は自己の正当性、キリスト教の正当性、聖書の主張の正当性を示すためにやっている、とか思ってやっているので始末に負えない。やらなきゃいいのに、やっちゃえって、他者の思想信条のよりどころを焚書したりする。それを見るたびにナチスの焚書事件を連想する人々がいるにもかかわらず。


    1933年のナチスによる焚書事件


     そのほかの最近の事例をヤンシー先輩はあげておられる。
     残念ながら、あちこちの教会が反感の種をまいている。この章を書く手を休めてテレビをつけると、ノースカロライナのある牧師に関するニュースが流れていた、その牧師は、すべての同性愛者を160キロかそこらの巨大な囲いの中に集め、食料を空から落としてやればいいと主張していた。そして、やがて彼らは絶滅するだろう、子孫を残さないのだから、と勝ち誇るように言ってのけた。同じ週に、インディアナ州のある教会では、「ゲイは天国にいかない」という自作の歌をうたった7歳の少年に教会の人々が大喝采を送っていた。またコネティカット州で起きたサンディフック小学校銃乱射事件の時、福音派の有名な広報担当者は、同性愛やiPod、学校で教える進化論、学校での礼拝に反対する判決を下した最高裁判所のせいでこんな事件が起きたのだ、と言った。
    ということで、証拠映像を上げておこう。


    ゲイを社会から排除して囲い込めしたら、と提案した事案



    子供が同性愛者は天国に行けないと歌ったとされるシーン
    (映像が酔いそうになるので視聴注意)

     ちょうどこの記事を書こうかと思っているころ、聖書の中の儀をどう考えるか問題に関する山崎ランサムさまのボイド先輩という方の著書を紹介しながらの記事 確かさという名の偶像(13) があった。

     同記事では、法律的概念として理解してきた神とのかかわりの中での問題がとらえられてきたことに伴う問題が取り上げられてきたが、おそらく、ヤンシー先輩の記事で取り上げられてきた社会に喧嘩を売るようなご発言の方は、基本神との関係に関して、法律論的な理解に凝り固まっているあまりの御発現だったり、そういう中で育ったために子供にまでそれが影響して、同性愛者は天国に行けないという歌につながったのかもしれない。

     しかし、「同性愛やiPod、学校で教える進化論、学校での礼拝に反対する判決を下した最高裁判所のせいでこんな事件が起きたのだ」ということに似た言説はミーちゃんはーちゃんの付近でもお聞きする。他人のせいにして、終わりにするのは、昔から見られたことであり、女性に教育したから碌でもないことが起きたとか、奴隷を解放したから社会に悪がはびこったとか、飲酒があるから社会が荒廃するのだ、とか、まぁ、極端なことをおっしゃる方の例は掃いて捨てるほどある。

    教会あるある
    恵みを語る手段としての地獄とさばき

     二つのものを対比させて(それが妥当なものであっても)議論を単純化することはよくやる方法であるが、これは本来の関係性を見誤らせる。
     本来、3次元空間で議論すべきものを1次元空間に縮約してしまうものだからである。距離を測定するということは、実は3次元的な関係を距離という1次元空間に落とし込んでしまうこととよく似ているのだ。例を考えてみれば、鉄道で移動する時間距離を考えてみれば、関西から群馬県に行く例では、東京経由のほうが圧倒的に時間は短い(コストはかからるが)。あるいは、Vの字の上側の両端点間距離は、Vの字の形状に沿った線分の長さの総和よりはるかに短い。つまり、距離を測る軸を最短距離で定義することによって失ってしまった部分があるのだ。それと同じように、裁きと恵み(Grace)を対比させた議論に縮約してしまうことは、大きな問題を持っている。その具体的な例とをヤンシー先生はある人からの手紙を紹介しながら、お書きである。
    母親の葬儀でのクリスチャンの振る舞いに怒りを覚えた不可知論者の友人から、最近手紙をもらった。彼女は、「恐怖を利用して、イエスのもとに来なさい、と言って講壇から布教活動するグレース(皮肉にも恵みの意味)コミュニティ何とかという大きな教会の牧師について書いていた。そして、こう付け加えていた。『ベンチ席を乗り越えて逃げ出さなかったのは、ただ母の信仰を尊重していたからでした。」また、葬儀に参列していた幾人かにこう言われたという。「このお葬式に拠ってキリストを受け入れた人が一人でもいたら、お母さんの死に意味があったことになりますね。」(同書 pp.26-27)
     個人的にはミーちゃんはーちゃんは、同じような場面に遭遇したことがある。それも、自分の親族の葬儀で。まぁ、キリスト者の親族であっても、あまりにショッキングであって、その親族の死が汚されたような気がした。そのことに関しては、この記事 書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その3)最終回 で書いた。

     キリスト教的な意味論から言えば、福音宣教に成功したら何でもいい、というのはあるのだろうが、それはろくでもないことだと思う。ちょうど葬儀に関して知りあいのある牧師の方ががFacebookで書いていたら、案の定、そこにこんなコメントが付いていた。

    牧師は厳粛なご葬儀を伝道のチャンスと考えてはいけないと思う。
    牧師が伝道のチャンスであると公言して困っている。
    火葬場で、ハレルヤと大きな声で言い、拍手をしたので、隣の他の火葬をしている家族から、不機嫌そうな顔つきをされたのを、しっかり覚えています。

     クリスチャンの家族で意味を知っていても、これは嫌だろう。憐れみの心、旧約聖書でいうヘセド
    d,s,jがないにもほどがある。まぁ、内村先生も愛娘るつ子さんの御葬儀では、ハレルヤと言われたらしいから、まぁ、何ともいい難いところはあるが。拍手や万歳や死後のおどろおどろしい裁きを語る必然性はないだろう。
     
    クリスチャン、
    暴力的で非論理的な帝国を立上げる人
     しかしまぁ、その極めつきが以下の文中でヤンシー先輩が書いていることである。ある批評家の以下の表現は実に、キリスト者集団の一部のある側面を描いている。「クリスチャンとは非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人だと思っている。クリスチャンはすべての人々を改宗させたがり、同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせないことが多い

    いまや、人々は何よりもこだわらない事を大切にしている。そして、真理を知っているのは自分たちだけだと主張する宗教は、すべて疑いの目で見られている。そのことを、他者の振る舞いをさばいているというクリスチャンの評判とあわせて考えてみれば、反対意見が激化するのももっともだ。ある批評家が言ったように、「私のであったほとんどの人が、クリスチャンとは非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人だと思っている。クリスチャンはすべての人々を改宗させたがり、同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせないことが多い」。(同書p.28)
     確かにアメリカの一部のキリスト教関係者、そしてその影響をたっぷり受けた日本のキリスト教の関係者の一部に、「非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人」と呼ぶにふさわしい人はいる。まぁ、同じ保守的でも、まだ、聖書理解において保守的ということまでは個人的には容認できるが、自分たちの生活文化に保守的であるが故に聖書理解をそれに合わせるかのごとき聖書の切り貼りをしてご提示されるようなご発言の皆さんもおられないわけではない。そうなると、「暴力的で非論理的な帝国を立上げる人」という称号を差し上げたくなるミーちゃんはーちゃんがいる。

     「クリスチャンはすべての人々を改宗させたがる」人は、時に福音宣教や福音伝道熱心な人として教会内で称賛され(何が福音かが抜けていることはないかという反省も時に入ると思うのだが、それが問われる、それを考えることはまれ)、「同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせない」のであれば、キリスト教国に移転するしかなくなるのだが、日本という特殊事情ではそれは無視されたまま、あたかもアメリカでは主流であり、世界で主流であるが故にそれは正しいという議論が無批判になされることが多い。(そもそもキリスト教が主流であるというのは、嘘である。世界の1/3はムスリムであることを忘れており、また残りの1/3は仏教を含むそれ以外の信仰形態であるし、この連載の冒頭でふれたようにキリスト教国では、すでにポストキリスト教世界に突入しているのである。そのことの証拠として、英国のEvangelical Alliance 福音同盟って感じの組織らしいが作った動画を紹介しておきます。Taka牧師のブログ記事での御紹介、ありがとうございました。)





     最後の極め付けがこれである。「同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせない」。教会あるあるなのである。結構炎上をしかける体質のややこしい人はキリスト教会内に多い。ミーちゃんはーちゃんもその一人であることは素直に認めておこう。大体、このヤンシー先輩の本を紹介することも、基本的には炎上要因ではある。

     この前、ある宗教間対話の下働きで参加したときに、参加しておられた方が、プロテスタントって、いろいろあって何がよいのか分からない、というご質問を作業中に受けたのだが、そら御尤も、と思った。プロテスタントは、日本国内だけで少なく見ても、100以上のグループに分かれているのだから。それも同じキリストを一応は信じていると言いながら。大体、同じキリストを信じていると言いながら、それだけ分かれるということは、「同じキリストについての信仰を持っている人でも平和に暮らせない」ということでもあるのだ。それも、同じ、使徒信条、われ、公同の教会を信ず、と言いながら。


    一応、新聖歌にある使徒信条を上げておく。
    我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
    我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
    主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬ら れ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者と を審(さば)きたまわん。
    我は聖霊を信ず。
    聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
    アーメン
     尚、このあたりのことについては、山崎ランサムさんのこの記事 小文字のキリスト教 がめちゃよいので、お勧めしておく。

     まだまだ、この連載は続く





    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:大変よろしいか、と思います。

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