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2015.11.07 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2)

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     前回に引き続き、いのちのことば社刊 『隠された恵み』からご紹介したい。

    クリスチャンが悪臭を放つ?

     クリスチャンと社会との関係に関して、ヤンシー先輩は次のように書く。ミーちゃんはーちゃんが書いているのではない。
     ジャーナリストという職業がら、私は様々な場所に足を運ぶが、クリスチャンが芳しい香りを放っているところもあれば、悪臭を放っているところもある。(いのちのことば社刊 『隠された恵み』 p.18)
     まぁ、10月31日は、宗教改革記念日であったが、宗教改革前後の欧州では、あまりに悪臭を放つほどのグループがカトリック教会にいたからこそ、ルター先輩はそれに耐えかねて、大学の掲示板(たまたま教会の扉でもあった)に95カ条の堤題をお張り出しになり、カトリック教会の内部では、それとほぼ同時にロヨラ君たちがイエズス会を立ち上げることになった。英司祭の御講演(リンクはこちら)によると、どうも当時はラテン語が読めない司祭たちも結構いたらしい。

     しかし、宗教改革から500年たった現代の米国や日本や世界中のあちこちで、ときどき、クリスチャンが悪臭を放つ場所もないわけではなさそうである。

     いつもスパークリングな記事を紹介してくださるfuminaru_kさんのブログ記事 悔い改め・牧師への信頼度・中国の宗教事情でご紹介されている韓国の事例などもある。韓国に関しては新教出版社から出た最下部で紹介する『市民K、教会を出る』はその背景を示しているようだ。この本は、韓国の社会における韓国のキリスト教会の状況を自己批判的に書いている書籍であるが、『福音と世界』連載中は、この連載を楽しみに読んだものである。とはいえ、こういうことをお書きになられる人がおられるというのが、ある面、韓国キリスト教界が一定の自己批判意識を持っており、極めて穏当な体質をお持ちである、ということの証左であろうと思う。

    相手をロボット扱いするクリスチャンと人間関係
     この本の中で、ある教会スタッフをしていた人の次のような証言が出てくる。福音派のクリスチャンは、人間を人間として見ていない、という彼のバリスタ経験からのある個人が福音派に対して持ったという個人的観察の結論である。 
     福音派の減少傾向の背後にあるのは何か。シカゴ在住の友人ダニエル・ヒルに気づかされたことがある。ヒルは全米最大の教会のひとつ、ウィロークリーク・コミュニティ教会のスタッフとして働きながら、副業として地元のスターバックスでバリスタをしていたことがある。思えば、真の牧会訓練はそこで受けたものだという。
     宗教の話題が出た時、一人の客が言った。クリスチャンはまるで相手が意思のないロボットであるかのようにふるまいます。あらかじめ伝道する意図をもって話しかけ、相手がそれに賛同しないと、もう用がなくなるのです。(同書 p.19)
     結局、(福音派の)クリスチャンは、話す相手を人格的存在として人間として見ているのではなく、あくまで、伝道の対象ならまだしも、救済の対象で会ったり、自己実現のための存在として見ている可能性がある。それが、ヒルさんの顧客がヒルさんに言った『意思のないロボット』という表現は、要するに人間として見ていない、ということなのだろう。


    別にR2D2に伝道しているわけでないレイヤ姫

     これは一種のメサイア・コンプレックスが福音派の中に底流として流れているということであろうし、また、その文化的背景に関しては、Johnathan EdwardsやGreat Awaking(大覚醒運動)以来の滅びに落ちる罪人のイメージが、どこかに凝り固まっているのだと思うし、もう少しいえば、自派のあるいは、自分の所属するキリスト教会、めっちゃサイコー、という一種の視野狭窄が働いている可能性はゼロではない。

     とはいえ、アメリカのキリスト教会(福音派を含む)の中には、超教派的な特性を持つところもあり、自派のみで固まらない柔軟な人々もおられることは確かである。とはいえ、過激な人々は、確かに、伝道しなければ、という思いに取りつかれているような印象を与える人々もいて、特にメサイア・コンプレックスをお持ちの方は、何がなんでも滅びに至る人々を正さねば、何がなんでも伝道しなければ、という思いでお話しになられるので、異論でも一言話そうものなら、こちら側の対話しようとか、こちらがもう少し何考えているかお話してお伺いしようと思っても、取り付く島もなくなられるような感じの方も多い。リアルでは、こういう方に日本でも結構出会う。ツィッターなどでは、もう炎上覚悟である。しかし、このブログをご訪問になる方の大半はそうではないが。


    ポスト・クリスチャンと
    ポスト・クリステンドム
     この本の以下の部分を読んだ瞬間、この本は、N.T.ライト先輩の”Simply Christian”(日本名『クリスチャンであるとは』)とパラレルだ、と感じたのである。
     カフェで働きながらヒルが聞いたのは、信仰に対する明らかに異なる二つのアプローチだった。「プレ・クリスチャン(クリスチャンになる前の人々)」は、宗教の話題に抵抗感がないように見えた。彼らにはキリスト教への敵意がなく、自分たちもいつか教会とつながるだろうと思っていた。対照的に、「ポスト・クリスチャン(かつてクリスチャンだった人々)」は、宗教に対して悪い感情を抱えていた。教会の分裂、支配的な親、性的虐待の罪を犯した牧師や神父、教会がうまく対処できなかった泥沼化した離婚など、傷ついた過去の記憶を引きずっている人々もいた。過激な原理主義者やスキャンダルまみれのテレビ伝道師といった、メディアの作った否定的なステレオタイプを信じこんでいるだけの人々もいた。(同書 p.20)
     このポスト・クリスチャンは、ヨーロッパ大陸のその延長にある英国社会でいえば、ポスト・クリステンドムと言い換えることが可能であると思う。つまり、キリスト教(その内実は実に多様であるが、国によって、地域によって、時代によって、宗派によって実は違いがるとはいえ、キリスト教的な何か)が社会に大きな影響力を持っていたし、自分たちはなんとなくではあってもキリスト教徒であるという意識が共有はされていた時代というか社会(映画「戦場のアリア」で、クリスマス休戦の時にヨーロッパの士官クラスの共通言語であったラテン語ミサがささげられる世界というか社会)が、2回目の大戦を経る中で、キリスト教界が変質し、まともなキリスト教徒もおかしくなっていく経験をした後、キリスト教界がヲワコン宣言(意味のない、無意味になってしまってあまり相手にされないコンテンツであるという宣言)されてしまった社会がポストクリステンドムだろうと思う。その中で、キリスト教がなお意味を持つ、というのを説いたのが、N.T.ライト先輩で、そのことを書いた本が、『クリスチャンであるとは』だと思うのである。

     これに対し、個人としての「ポスト・クリスチャン」は個人として、キリスト者であること、クリスチャンであることにヲワコン宣言した人であると言えると思う。つまり、意図的にクリスチャンであることをやめてしまった人であるように思う。あるいは、神との霊性という水道のバルブを自らしめてしまった人であるといってもいいだろう。あるいは、神とのバルブは開いていたいのに、教会や他のキリスト教徒の関係で、神との間のバルブをあけ続けることが困難になり、キリスト教との関係を主体的に切らざるを得ないため、神との関係を主体的に切っていった人々はおられると思う。

     まぁ、マスコミのヲワコン宣言(主として、メディアの作った否定的なステレオタイプ)を信じ込む人々は、どこにでもいる。普段は、カトリックなど目の敵にするキリスト者の人々が民放の番組でカトリックのシスターが取り上げるや否やあたかも旧知の関係のごとく非キリスト者の友人に語る人々や、日本キリスト教団の関係者を蛇蝎の如く目の敵にしながら、国営放送ではないというものの予算が国会で審議されるという実にわけのわからない某放送局で流れるや否や、普段蛇蝎のごとき扱いをしている教団に連続ドラマで取り上げられる主人公が所属していたことは無視して、キリスト者である点だけをもとに話をする人々(時に、それも蛇蝎のようなことをご発言になっておられる教会の中でお話しされる方々)もおられる。こういう方を見れば、メディアを利用しているように見えて、メディアに振り回されている人々と大して変わらない。そんな鼻で息するものに依拠しなければならないほど、われらの神は非力なのか、と思わざるを得ない。

     過去の偉人やテレビで取り上げられた香り良いと思われている人物に依拠することなく、自らの生きるその姿、それがいかに無様なものであろうと、その生きる姿をキリストにあるものとしてお示しになられればよろしいと思うのだが。そのほうがよほど真実味がある、と思うのは、ミーちゃんはーちゃんの性格が歪み、曲がっていることの証左であろう。

    プレ・クリスチャンと日本人
     以下の文章で、ヤンシー先輩が言っておられるプレ・クリスチャンという概念は、日本のような異教社会の中でのコンテキストではなくて、従来キリスト教世界に神話的であったアメリカ的な文化コンテキストの中でのご発言である。

     同じプレ(前の、とかそれ以前の、という意味がある語)でも、日本の場合は、異教としてのキリシタン史があり、プレでも、キリスト教に一種の偏見つきの地域と歴史が日本という国にあって、また、信仰(あるいは信心)であれば何でも同じジャンルでくくるという精神世界の傾向が日本にはあるかもなので、ヤンシー先輩の議論には、日本のある地域と歴史的時間にあっては不適合を起こすように思う。その部分を引用してみたい。
     一方で、米国南部と中西部には、信仰に偏見を持たない地域が多く、「プレ・クリスチャン」と言える。宗教色の強い南部で育った私は故郷に帰るたびに、宗教に関する温度差を感じている。バイブルベルト〔訳注・キリスト教原理主義者と言われる人々の多い米国南部と中西部〕はおおむね福音の枠組みは受け入れている。神は存在し(米国通貨が「われらは神を信ずる」と宣言しているではないか)、私たち人間は罪を犯した存在である(今でも南部では、納屋や看板に「悔い改めよ」)」や「イエスが救ってくださる」というスローガンを見かけることがある)。(同書 p.20)
     確かに、以下の図で示すように、10ドル札の裏側の建物の上には、In God We Trust(我らが信頼をおく神の名において、〔この通貨を発行する〕)とは書いてあるし、裁判所の入り口や裁判所の法廷内にはたいていこの文字が書いてある。こういうものに触れている社会で、基本キリスト教の信念に基づき建国の父たちが国家の基本設計図を作ったことは影響していて、基本アメリカ人はキリスト教が影響していた時期の遺産を引き継いでおり、キリスト教に対して親和性が高い(だから、アメリカ人に生まれたからキリスト教徒という人が一定の割合を示す)人々である。


    10ドル札、 この札の裏面(下側の図)には、 In God We Trust って書いてあるし



    裁判所の入り口上部に掲げられている In God We Trust


    「イエスは救う」
    という主張をしているアメリカのインターステート付近でよく見る種類の看板

    Repent! Jesus is coming soon
    「悔い改めよ、イエスはすぐ来られる」の看板

     ここで、ヤンシー先輩の構図というか、そこで紹介されているヒルさんの分類のアメリカ型のキリスト教にまつわる分類学的な構図はこんな感じかもしれない。もちろん、その人の背景、つまり、地域や民族的背景によって異なる。

    アメリカ型

     プレ・クリスチャン      
     (なんとなくクリスチャン文化的)
       
     クリスチャン

     (個人的経験や個人として信仰をもったクリスチャン
     +特に反対する理由もないのでクリスチャン)
      この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
      おひとり様クリスチャンなども含まれる
       
     ポスト・クリスチャン

     (教会に飽きてしまったり、教会に失望した結果、
      意識的にクリスチャンであることをやめた人々)
      社会の少数派を自覚的に選択することになる
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ところで、これが日本だとどうなるか、ということを考えてみた。



    日本型
     日本型のキリスト教的な構図はこんな感じかもしれない。

     プレ・クリスチャン
     (なんとなくキリスト教的なものに距離や納得できないものを
      根底のところで感じている人が大半の非キリスト教文化的)
      ↓
     クリスチャン
     (個人的な経験や個人として信仰をもったクリスチャン・
      第1世代は確信犯的にキリスト教徒になったという印象が強い)
      この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
      おひとり様クリスチャンなども含まれる
      ↓
     なんとなくポストクリスチャン
     (若いころに教会に行ってたなぁ、と明確に、拒否的でも、否定的でもなく
     なんとなく離れているだけの元キリスト教徒)
     社会の多数派を何となく無自覚に選択
      ↓
     ポスト・クリスチャン
     (教会に飽きてしまったり、教会に失望して、確信犯的に意識的にクリスチャンであることをやめた人々)
     社会の多数派となり、宗教性をあまり意識しない

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    日本型(クリスチャン2世)
     日本のクリスチャン2世の場合、こんな感じかもしれない。

     プレ・クリスチャン      
     (なんとなくクリスチャン文化的)
      ↓  
     クリスチャン
     (個人的経験や個人として信仰をもったクリスチャン
     +特に反対する理由もないのでクリスチャン)
      この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
      教会嫌いなクリスチャン、おひとり様クリスチャンなども含まれる
      ミーちゃんはーちゃんは今ココ
       ↓
     なんとなくポストクリスチャン
     (若いころに教会に行ってたなぁ、と明確に、拒否的でも、否定的でもなく
     なんとなく離れているだけの元クリスチャン、あまりプレクリスチャンと差はない)
      ↓
     ポスト・クリスチャン
     (教会に飽きてしまったり、教会に失望して、確信犯的に意識的にクリスチャンであることをやめた人々であるがそれほど批判的でもない元キリスト教徒)
     社会においても、教会においても少数者

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     まぁ、単純な図式化や一般化は危険であることは十分承知しているが、そうはずれてもないようにも思う。


     欧米型の場合、どうポストクリスチャンへのアプローチをしていくのか、日本型の場合、何となくポストクリスチャン、元日曜学校や教会学校の生徒、元ミッションスクールの生徒や学生に、特に、教会であまり愉快でない思いを経験した人々にどう対応していくのか、ということが現在のところ、求められているのかもしれない。


     次回へと続く







    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:めちゃくちゃいい。

    評価:
    金 鎮虎
    新教出版社
    ¥ 2,592
    (2015-02-20)
    コメント:韓国のキリスト教の韓国人の視点からの解説。

    評価:
    ジェイムズ バード
    教文館
    ¥ 1,944
    (2011-03)
    コメント:翻訳であるが読みやすい。

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