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2009.08.29 Saturday

日本のキリスト教会(キリスト集会)について考えた

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    ここのところ、何冊かの本を読んだ、そして考えた。日本の

    キリスト教会というかキリスト集会が特殊ではないか、とい

    うこととその特殊性を考えた。

    まず、最初に隅谷三喜男さんという方の日本の信徒の「神学」

    という本のメタファーが面白かった。日本のキリスト教会は、

    教会が二階建ての家のような構造になっていて、2階では

    高尚な神学がそこに住む学者、牧師、教益者で議論がされて

    いて、その姿を1階に住む信徒はちら、ちらっとみせられて

    いるだけで、1階への影響がほとんどないという現状をモデ

    ルとして提示しておられた。つまり、五臓六腑にしみわたっ

    たような信仰生活を日本のキリスト者が送っていない、とい

    う問題である。ある面、異教社会の中の少数派であるから致

    し方ないという面もあるが、しょせん、プロテスタント派は、

    100年ほどの歴史しかなく、キリスト教的な伝統がなく、

    その世界観が支配していない社会であるが故の問題であるの

    かもしれない。

     このような問題意識は、

    古屋 安雄 著 なぜ日本にキリスト教は広まらないのか

    を読んだ時にも、
     
    中村 敏 著 日本キリスト教宣教史 ―ザビエル以前から今日まで

    をよんだときにも、

    中村 敏 著 著名人クリスチャンの結婚生活 
      ― ルターから三浦光世/綾子夫妻まで ―
    (ファミリー・フォーラム・ジャパン)

    を読んだ時にも感じた。つまり、日本的な伝統をもとに聖書

    を読み、ほかの人々の考えと照らし合わせて考えるという習

    慣がないことが、特殊なキリスト教社会と聖書理解をうみだ

    している様な気がする。

    その結果、「教会生活の疲れ」という問題が出てくるのであ

    ろう。この問題に関しては、

    堀 肇 著 教会生活の「疲れ」とその回復

    でも触れられている。本来的でない聖書の読み方を自己の問

    題として自己批判的に考えず、鵜呑みにしてしまうところに

    問題があると思う。

     本来霊的な憩いの家であり、霊性の回復の場所である、教

    会という場所が、福音宣教という戦場としてとらえられ、霊

    性の成長を妨げている部分が日本のキリスト教会やキリスト

    集会の中にあるような気がする。これは、伝統のなさがなせ

    る結果、日本にキリスト教という一体がしみ込んでいないこ

    とが原因かもしれない。継木型のキリスト教のおかしさのよ

    うな気もする。

     山田耕太著 『ダラム便り』 (すぐ書房)という以前読んだ

    がその内容を十分味わえなかった本を改めて読んだ。イギリ

    スという聖書の理解が多少歪みつつも、生活の端々に根付い

    ている国の姿である。家庭が神の国のモデルとしてとらえら

    れているということになるほど、と思った。そして、ディス

    カッションを通じて、相手の考えを受け入れつつ、自己に批

    判的な目を向け、自分自身の考え方を変えていく柔軟さ、と

    いうことの大切さを感じる。

     聖書の理解が十分体験的に理解でき、基本的な無理のない

    信仰者の姿を作っていくことの大切さを感じる。宣教という

    ことではなく、イエスの精神を手渡していく形、シェアして

    いくスタイルの信仰生活の重要性を感じる。

     その意味で、日本のキリスト教会やキリスト集会という形

    で一般化して語るのは危険だが、それでもあえて言うなら、

    日本のキリスト集会の一部に、ちょこっとだけ二階のある玄

    関だけの薄っぺらな住宅と思える部分があるかもしれない。

    その意味は、神学理解に対して否定的な目を向けるあまり、

    2階部分が非常に弱い。ただ、狭い分だけ、2階と1階の

    間の一体感はある。しかし、歴史を振り返り、信者を成長

    させ、休息を与える家屋のリビングや寝室にあたる部分が

    極めて小さく、とにかく伝道という外に出る玄関のところ

    で、ちょっとだけ休息をとり、伝道しているようなイメー

    ジがある。外に出る玄関だけは大きい。信者の成長のため、

    自分を見つめなおしたり、過去を振り返ることをせず、未

    来にだけ目を向けているような気がする。その意味で、バ

    ランスがかけているのではないか、自分自身を反省してい

    てそう思う。まず、自己の成長のため、教会の成長のため、

    必要なリビングとベッドルームを作ることを考えるべきか

    もしれない。物質的にまた文化的に豊かになった社会にい

    る人々により豊かさを分かち合う教会に慣れれば、と思う。

    ピーター・スキャゼロ著  情緒的に健康な教会をめざして

    (いのちのことば社)をよみながら、まず、自分という信仰

    者の家の構造のおかしさを反省し、自分たちの家の構造の

    薄さや問題点を正確に反省することの大切さを感じた。そ

    して家族とキリスト教会(集会)の在り方についても。い

    たずらに現状の在り方を正当化するのではなく。そして、

    他者を受け入れ、ともに成長するための仕組みというのか、

    神の取り扱いを考えていくことの大切さを感じている。

    イギリス人にとっての家屋のイメージは、何百年も直しな

    がら何世代にわたり、時に所有者を変えながらも使い続け

    変化していくものであるのだろうと思う。日本人の家屋の

    イメージは、建てた人で終わり。スクラップ・アンド・ビ

    ルドの家屋のイメージだと思う。アメリカは、もともと、

    古いものがないので、古いものは高価で取引されるが、

    そうでなければ、どんな豪邸でもスクラップ・アンド・ビ

    ルドに近いと思う。

     日本の教会は、どんな家にこれからしていくのだろうか。

    日本のキリスト集会はどんな家にしていくのだろうか。

    そして、自分はどんなキリストの家を建てていくのだろう

    か。

     いずれにしても、礎石はキリストであることには違いな

    い。とはいえ、どんな家になるかは、建てる人の考えで変

    わるのだろうと思う。建てる人の考え方は重要ではないか

    と思う。礎石は一つでも、いろんな建て方がありえるので。

    パウロが言うように。
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