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2015.09.30 Wednesday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その14

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    今日も木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』の第12章からご紹介したい。本日はキリスト教と社会福祉を扱った章の第2回目である。

    社会派・教会派論争
     福音派の中だけにいると、この種の論争は、社会派的存在の人々はリベラル鳩有難いラベルを張ってもらえるので、その中から追い出されることが多いので、この種に議論の存在をご存じない牧師の方が結構おられるので最近もびっくりしたことがあるが、実は、社会の弱者救済ということは、福音派というマインドセットの中では、あまり意識されることがないらしい。福音派では、日本キリスト教団=日本キリスト教団というひとくくりであり、その中の教会の味わいというものは無視される傾向にある。リベラル≒日本キリスト教団という認識が成立していて、全部リベラルというラベルを張っておしまい、となる傾向が強いので、「社会派、教会派」何それおいしいの、となる傾向が強いように思う。
     キリスト教と言えば、一般にカトリックとプロテスタントと二つに分類されているようだが、その二極化よりも、今日の日本のキリスト教会は、教会の社会的責任を重視する「社会派」と伝道を優先する「教会派」に二極化する傾向にあり、両者の間は疎遠になってしまっている。神学議論はさることながら、こうした状況は、宣教ということから言えば、悲劇であり、聖書が示す教会の姿からもかい離していると言わざるを得ない。ローザンヌ誓約(The Lausanne Covenant)の社会的責任(第5条)の観点からも、このことを正面から問う必要がある。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 p.164)
     しかし、東方正教会系(ギリシア正教会とロシア正教会のOrthodox系)がガン無視されているのが、実に日本的であるが、日本のキリスト教の多くが、米国や英国、ないしは西洋から伝わってきた経緯を考えると仕方がないのかもしれない。

     社会派、教会派論争は、前にも紹介した1900年頃最下部に紹介した本の著者のラウシェンブッシュの活動から起きたアメリカ国内でのキリスト教界内のキリスト教とは何かにかんする理解の対立が、日本にそのまま持ち込まれ、戦争中のキリスト教界としての戦争責任問題などと絡み、戦後、キリスト者として大東亜共栄圏への加担をどう考えるか問題(これは以前に、ブログ緊急公開 歴史に学ぶことの大切さ で日本を愛するキリスト者の会問題に関連して触れたところである)が議論され、それにどのような結論を出すのか、という問題とも重なって、議論の焦点化した。それがさらに、当時のベトナム戦争、日本での米軍脱走兵問題、べ平連運動などに非差別問題をどう考えるかと、ありとあらゆる論点が学生運動のうねりの中に持ち込まれ、焦点化した大阪万博でのキリスト教館への関与問題に絡んで、日本基督教団を大きな混乱を巻き起こした論争でもある。しかし、この日本基督教団総会のサブタイトル「教団の一致はいずこに? −御霊の導きを渇望しつつー」というのがすごい。つまり、この一致していなかったということであるし、「渇望」せねばならぬほど、同教団内での状態がひどかった、ということであろう。実に残念なことである。


    この写真なんかはまだかわいい方だと聞いている

     この時代、福音派は福音派で、いわゆる聖書無誤論(無謬論ともいう)をめぐる論争に明け暮れ始めていたころであろうし、イスラエル建国に伴い、もう終末は近いという終末待望論、あるいは終末研究の本が量産され、ハル・リンゼイなどの本が出たのがこの時期である。このような風景の中で、世の中にかかわることなんてとんでもなくて、世の中にかかわる余裕すらなく、そんなことをするよりは、伝道をすべきだ、とイスラエル建国、中東戦争、オイルショックと世界の安定性が失われたこと(そもそも、世界は安定的であったことがあれば、歴史家はすべて失職するし、そんな時期はあったためしがない)に伴う社会不安心理に乗ったような伝道も一部にみられたようである。その面で、2000年代に入るまで、福音派が社会にかかわるといっても個人ベース、あるいは個別の教会ベースにかぎられたものであったといえよう。福音派全体として取り組む、という問題意識は現在においても濃厚である、とは言い難い雰囲気がある。
     しかし、ローザンヌ誓約が出され、ジョン・ストット先輩はある面ゴリ押しに近いような形で社会的関与への方向付けをしたこともあり、次第に日本でも、神学的な考察対象の問題として、漸く福音派キリスト者としての社会関与の問題が最近話題になり始めた、という状況であろう。

    明治維新以降のキリスト教と福祉

     明治維新以降、キリスト教と福祉は、くっついたり、離れたりしながら、進んできた。そのあたりの事に関して、木原さんは次のように書いておられる。

     明治以降の福祉をめぐる国家とキリスト教(教会)の関係を整理すると、
    〔声4からの石井十次、山室軍平らのキリスト者の先駆的ボランタリズムの躍進の時代
    第2次世界大戦後の福祉国家成立による公的責任の下で、キリスト教は補完的役割となった時代
    そして2000年の社会福祉基礎構造改革による市民的公共という発想により、教会にも社会福祉事業として新しい可能性が出てきたという時代
    の三つに区分できる。
     ,了代には国家は福祉にあまり関与しないため、その代わりにムシロ協会が積極的に福祉に関与し、福音と福祉を一体化した宣教が体現された時代であった。ところが、△了代では、福祉国家体制が整ったことで、逆に教会は福祉へのかかわりから離れていった。こうして「教会派」「社会派」の二分化が強化された。(同書 pp.165-166)


     明治期からの国家と教会と福祉をめぐる問題であるが、結局、明治期には、諸外国の手前、近代国家のふりをしなければならないため、実態的に封建的制度で運営されている社会のうえに、西洋諸国の制度を見よう見まねで急ごしらえで作ったどんがらだけの近代国家制度を乗せた社会を構築したのだ、と言って僧間違いはない、と思っている。その意味で、いわゆる、明治日本はなんちゃって近代国家であったように思う。だって、坂の上の雲目指して歩んだのが明治国家だ、って司馬遼太郎大先生書いておられる。

     そのなんちゃって近代国家において福祉といえば、仏教徒やキリスト教の信徒、あるいは宣教師たちの同情心にすがった福祉制度や人間の素直な心情のゆえに発露された困窮者への救済の概念によるしかなく、その意味で、ボランタリーな組織に依拠せざるを得なかったのであろう。もちろん、救世軍の山室軍平や、石井十次、賀川豊彦等、様々な人々の個人的な検診による部分も大きかったし、何より、この時期の社会福祉や、日本における伝道を心ざいた人々の中に、案外George Mullerとその影響を受けて海外伝道、とりわけ中国伝道に従事した、OMFの基礎を作った人物であるハドソン・テイラーの影響を受けた人々が多いのだ。大体、1840年代に英国で孤児院をやった、ジョージ・ミュラーの時代、英国政府は孤児問題をほっぽらかしていたので、ストリートチルドレンがあまりに多いので、ジョージ・ミュラー先輩が、信仰によって、孤児院運営をしながら、やたらと、やれ、これが足らん、こういうものが要る、と、支援者に手紙送付大作戦をしていたのだ。

     まず間違いなく、日本に明治直前にきたギュツラフ先輩にしても、現関西学院大学の基礎を築いたランベス先輩にしても、日本伝道隊を始めてしまったバクストン先輩にしても、直接間接に影響を受けているようである。ある意味で、ヘボン式ローマ字で知られるヘップバーン先輩にしても、間接の影響を受けていたようである。その意味で、アジアにおける伝道の情熱にそもそもの火をつけたのは、ジョージ・ミュラー先輩に触発されたハドソン・テイラー先輩なのである。まぁ、ロマン主義もあるだろうけど。

     このところ、いちゃもんつけ、みたいな記述が多いが(もうしわけない)、どうせなら、木原さんには、賀川豊彦先生の事を半行でよいから書いてほしかった。賀川先生は、戦前ノーベル平和賞候補になりながらも、帝国陸軍参謀本部の用語で、大東亜戦争を我が国が始めてしまったおかげで、立ち消えになり、戦争中戦時体制にご協力した関係で、アメリカを中心とした西洋諸国からは、失望の対象とみられてしまった。ところで、神戸には、イエス団という賀川先生由来の社会福祉関連に熱心な法人がある。もう一つ有名なのは、コープこうべという今はスーパーのようになった、そもそもは貧困者のための共同購入組織である。その意味で、木原さんが,如賀川先生の取り組みが書かれておられなかったのは、賀川を一時期マークしたミーちゃんはーちゃんとしては少し残念に思った。

     また、明治期のこの時期は、カトリック教会も、孤児院運営やハンセン氏病者への対応に極めて熱心に取り組まれていた時期であるが、ある時期からこういうことに手を出すことを躊躇するようになっておられたようである。しかし、第2バチカン公会議以降、とりわけ、教皇フランシス時代からは、こういう分野に一層積極的に関与しておられるようである。多分に、解放の神学の影響も考えなければならないが。

     ところで、の2000年の社会福祉構造改革は、市民的公共と書かれているが、これは別の業界用語では、「新しい公共」と呼ばれたり、「ニューパブリックマネジメント」という語で語られることの多い語である。これは、要するに、冷戦期のような東西に分かれて、福祉分野でもどちらが優れているかの制度的競争が、東側(共産主義側)が崩壊したことに伴い、「どっちが福祉国家であるかどうか競争」する意味がなくなってしまい制度的競争の結果、財政負担が重くなってきたのもあって、「もう、国とか政府で全部の事はできないし、そういう時代でもなさそうだから、皆さんで、やりたい人がやってくださいよ、皆さんのうちにできる人、やりたい人もいるでしょう」って感じの中で出てきた概念だと思うのだ。その意味で、従来の政府概念を放棄した時代に我々が来ているということを、こっそりと突きつけたのが、2000年頃から言われだした「新しい公共」「市民的公共」の実体であると、ミーちゃんはーちゃんは、にらんでいる。

     こう考えると、結局、現在の社会福祉制度の変遷や大きな政府という概念に現在も尚支配されており、問題が発生したら、すぐにやたらと政府のせいにしたがる特にマスコミの一部の論調は、近代という時代の残滓であろうと思う。

     その意味で、社会福祉制度が混乱しているのも、近代等社会からの逆襲というかしっぺ返しではないか、と思う。真理は一つとかいう訳の分からない妄想に踊らされ、政府がすべきか、民間がすべきか、という、どちらか一つという概念に支配されてしまい、それが両立するというマインドセットを持ちえなかっただけ、ということではないか、と思うのだ。

     そして、現在、教会をはじめ宗教法人が社会福祉ができるようになったことをご説明になった後、白浜の自殺防止のための白浜レスキュー・ネットワークの取り組みや以前、NHKこころの時代 「この軒の下で」 視聴記でご紹介した奥田さんの取り組みが紹介されている。なお、Sealsとかいう一世を風靡しているらしい組織でご活躍中の奥田さんとのかかわりはよくわからないし、知らないので、触れない。

    教会と社会と社会福祉
     まぁ、誰が社会福祉をやってもよいという政府の大転換(それが予算不足による、ということをボランティア元年とか言って阪神大震災以来ごまかした部分があるとはいえ)が起きた結果、さまざまな人々が、それぞれのボランティアのかたちを目指して、政府では対応できないこと(日本型政教分離の原則から、宗教的ニーズに国家や行政体は関与できないとことに建前上はなっているので)である、宗教的なニーズにこたえる動きなどもみられる。人間は形而下学的な世界だけで生きているのではないことは、イエスの「人はパンのみにていくるに非ず」からもだいぶん明らかなのであるが、計量できることしか考えない偏った科学主義の結果、形而下学的なことしか科学と政府は考えないで済むようになってしまったのは、結論から言えば、科学と政府にとっては楽だったとは思う。
     詳細は後述するが、これらは直接的な布教や伝道が目的ではない。それでもキリスト教的なかかわりを強く持った福祉実践であり、まさにキリスト教社会福祉実践の一つであると言える。民間による事業なので当然、行政などの公からは独立しているが、その特徴として特筆すべきは、これまで多くのキリスト教社会福祉実践の中心であった社会福祉法人という既成の形態ではなく、特定非営利活動(NPO)法人である点である。また、地域の教会や篤志のキリスト者たちがこれに積極的に参画し、その事業をバックアップしている面などが特徴として挙げられる。(同書 p.169)
    まぁ、パウロ文書によれば、干ばつなんかの際には、助け合ったことをトレースできる記述などもあるから、そもそも互助精神で、助け合ったことは明白であるし、最近日本で翻訳されたスタークのキリスト教とローマ帝国では、計量社会学的に、この福祉における弱者救済や弱者支援が、ローマ帝国下で異教徒されつつも、キリスト教が生存する大きな要因になった可能性を指摘している。この本は面白いので、読まれるとよい。

     日本でも、東北の被災地支援などに福音派の皆さんがご尽力為されたことは、ある程度知られるところになっている。個人的には尊いことだと思う。とはいえ、中には、伝道という色気をもって、というよりは、それが見え見えの活動をしたキリスト教団体、不幸便乗型の伝道をした団体があったやに聞き及んでいる。もし、これが事実だとすると、不幸便乗型の伝道は、キリスト看板並みに逆効果だったと思う。人をバカにしたらいかんのだ。下ごころのある親切の正体くらい、人は敏感に感じ取るものなのである。

    ハウスレスとホームレス
     奥田さんの著書に触れながら、木原さんは奥田さんの取り組みの中で、重要な概念を占めるホームレスという語が含意する重要な意味を次のように説明する。
     奥田牧師は、ホームレスとハウスレスを厳密に区別する。この二つの局面、ホームレスは「関係の困窮」すなわち絆が切れた人々=無縁であり、ハウスレスは物理的な住居の困窮であるとする。「ホームレス支援は、物理的困窮=ハウスレスとの戦いであると同時に、この無縁=ホームレスとの闘いである」(奥田、『もうひとりにはさせない』37頁)。そしてそれぞれの当事者たちが本来の意味での「”ホーム”の回復」ができるまで支援していこうとするところに実践の特徴がある。本来のホームの回復には、「神の国」実現としてのキリスト教社会福祉実践を垣間見ることができる。
     その特徴の一つは、近隣の教会がこの事業に協力して関わっている事である。カトリック、プロテスタント問わず地元の多くの教会が参加しており、キリスト教(教会)と福祉事業が綿密に絡んでいる連携に成功している事例と言ってよい。(同書 p.176)
     ハウスレスではないけれども、ホームレスの人々は案外多い。今日聞いたところでは、どこぞの女子中学生が乳児の遺体を遺棄したとして、警察に補導ではなく逮捕されたらしい。新聞報道程度の事しかわからないが、この女子中学生はだれにも相談する相手もなく、親にすら相談できなかったんだろう。彼女は、ハウスレスではなかったが、ホームレスであったのかもしれない。人間関係の場であるホームが組み合わせの問題か、時代の背景か、経済的な事情化翼はわからないが、形成できず、ハウスレスではないが精神的な意味で、形而上学的な意味で、ホームレスになっていたのだろうと思う。『ホームレス中学生』というお笑い芸人の方がお書きになった本があったが、あれはさしづめ『ハウスレス兼ホームレス中学生』、ということであったのであろうと思う。親の借金の結果とは言え。

     先にも紹介した、NHKこころの時代 「この軒の下で」 視聴記を拝見した時にも、思ったことであるが、ある面、我々は伝道の場を教会でするもの、と思い込み、なまじ教会堂という建物を持ってしまったがゆえに、そこを利用せねばもったいない、という思い込みから、伝道の場を無意識に教会堂に押込めてしまったのかもしれないのである。それは社会派の人々が伝道の場を社会だけに限定しようとし、弱者救済とその経済的な困難からの開放、解放の神学的な世界観にキリスト教の世界を閉じ込める傾向を持ったことに対する反動かもしれない。あるいは、教会派の人々が、伝道や聖書の生きた場を教会だけに限定し、そこに押込める傾向を持ったのは、その社会派への反動であったかもしれない。

     いずれの派も、それぞれが自らの聖書解釈を正統化しようとして、自分たちが聖書の主張であると勝手に思い込んだものだけに考慮の対象を純化しようとした結果の近代の不幸であったのではないか、と思うのだ。

     聖書は、社会も、教会も伝道の場だ、我々が生きていることそのものが伝道であるし、我々がいかに不甲斐なく、しょうもなからろうが、そのしょうもない存在に神が働くがゆえに、そのために小さくされた、あるいは自ら小さくなられた本来王であるべきキリストのゆえに、キリストの名において、神が働いてくださるがゆえに、どこであっても、どんな人であってもその存在を通して神が働きうると言う意味で、神の宮であるし、天の国がその人の中にあるのではないか、と思うのである。

     「我らの国籍は天にあり」という聖書のことばを「わしらは死んだら天国に帰るためのタダ券を持っている」と思っている人々もおられるかもしれないが、この意味は、案外「我らを支配している方は神であり、この世においても、我らの状況如何に係らず、イエスが我らと共に在り、我等は王なるイエスによる保護下(神の支配、市民としての王なるものの保護下)にあるにある」という意味かもしれないと思うのだ。だからこそ、イエスは弟子たちに、「恐れるな」と言い続けられたのだと思う。

     それを、自分たちがしっかりしなければ、だめだ、と自分たちの努力や敬虔さに頼るようになると、それは偶像崇拝になりかねない。このあたりの事を考えたい向きには、
    神ご自身が無償で与えてくださる「いのち」をいただく代わりに、神のために何かを行ったり、神について何かを信じたりすることによって「いのち」を得ようとする時、それは偶像となる

    という記述がある、このあたりの事を考えられたい方がたは、山崎ランサム和彦様の 確かさという名の偶像(8) や エペソ書とキリストの戦い(1)あるいは エペソ書とキリストの戦い(2) を是非、ご参照いただきたい。極めて重要な内容が書かれている。お勧めする。

     以上で、長らく続いた『「弱さ」の向こうにあるもの』の連載は終了である。とびとびに言って一部の方には分かりにくくて申し訳なかった、と思っている。あの本も、この本も、その上に、本をご恵贈いただいたりしたものだから、それへのご答礼もかねてのご紹介、と実にひっちゃかめっちゃかになってしまった。当面、富士山とシナイ山(これがまた人気がないので困っているのだが)の連載を続け、終わらせてしまいたい、と思っている。

     長らくのお付き合い感謝。



    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:絶賛おすすめ中でござる。

    評価:
    ---
    いのちのことば社
    ---
    (2012-04-05)
    コメント:是非、おすすめする。

    評価:
    ウォルター ラウシェンブッシュ
    新教出版社
    ¥ 6,588
    (2013-01-07)
    コメント:キリスト教と社会福祉を考えたい向きには、読んでおいたほうが良いと思う。

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