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2015.09.28 Monday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その13

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     今日も木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』の第11章からご紹介したい。本日は無縁社会を扱った章の第2回目である。

    近代の逆襲としての無縁社会とその焦点

     現代の人間を取り巻く環境とその支援能力が社会が近代化していく中で弱体化し、ソーシャル・キャピタルが大きく毀損してきたことに関して、次のように木原さんはお書きである。
     こうしてかつての日本社会、文化を特徴づけていた強固な絆の象徴であった血縁、地縁、社会縁という三つの「縁」は今や希薄化され、ある場合にはすでに崩壊してきた。(中略)しかしながら、この現象を社会状況、家族機能の変化、崩壊過程との関係において慎重に議論することは重要である。
     ただ社会福祉で重視しなければならないのは、これらの無縁社会の対象が、近代個人主義の象徴とされる孤独を「楽しむ」一部のインテリ層や高所得層ではなく、社会から排除されたと感じる貧困層や、文化的少数派ゆえに無縁を余儀なくされた「周縁者」であるという点である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』pp.150-151 )
     ここで、木原さんは、”近代個人主義の象徴とされる孤独を「楽しむ」”側面があったことを言っておられる。これは、基本的に近代の社会が前近代として否定してきた古い時代、即ち封建時代における、門地主義、封建主義をも近代の名において法文を通して、否定したから生まれた個人の新しい生き方であったのである。この新しい近代的な、近代人の生き方を可能にしたのがフランス革命であり、日本における明治維新であった。尚、日本の旧民法は、フランス法典型である。

     近代という時代は、血縁や地縁の中で生み出されてきた門地主義や、封建主義を否定したのであり、個人と社会の関わりの在り方として、行政や政府に全部放り投げしつつも、前近代的制度や概念で生きる人たちがいたため、行政や政府が負えない部分は、これらの地縁や血縁という前近代で機能した制度にゆだねて社会が運営されてきた、という側面はあろう。

     政府(行政府)に丸投げしていると言いつつ、それで救えなかった個人、特に周縁部におかれた人々はおられた。ところが、経済成長が急速であり、ほとんどすべての人が、自分の前の世代(20年前か30年前に生まれた世代)よりもかなり豊かな生活を、程度の差はあれ経験できたがゆえに、社会に存在する問題が問題と認識される暇がなかったために1990年代後半まで、日本社会ではあまり問題にならなかっただけ、という気がする。それ以外に、公害をはじめ、社会全体に問題にすべき問題があまりに悲惨であり、大きく国民の前に存在したのである。

     しかし、日本の経済が、究極の低成長、あるいは、マイナス成長をバブル崩壊後、異様な長期間にわたり続くなかで、自分の前の世代(親世代といってもいい、20年前か30年前に生まれた世代)よりも、より豊かな生活を送れる人が明らかに限られた一部の人たちだけになってきたために、現代の20代後半から30代全般にかけては閉塞感が漂い、”近代個人主義の象徴とされる孤独を「楽しむ」”余裕などはなく、以前から存在していた社会の排除された貧困層が社会全体の中で相対的に大きくなり、その問題が社会として無視できない程度になってきた、ということがあると思う。その問題が、ワーキング・プアの問題であり、現代の若者におけるニートの問題ともつながっている。このあたりの事は、社会福祉というよりは、社会政策の関連の事なので、木原さんに本書でそこまでを分析的に記述することは求めることは求めすぎではないか、と思う。従って、このブログ記事で、補足しておく。

     先に述べた、高度経済成長期には、貧しさが問題にならなかったことに関して、月刊『記録』という面白いウェブジャーナルに、ホームレス、自らを語る という連載をお読みになられるとよいと思う。ここでのインタビューの中にも、当時から社会の周縁におかれ、貧しい中でお暮しになられ、現在ホームレスになっておられる方々が高度経済成長期やバブル経済真っ盛りのころを「いい時代であった」懐かしむ発言が時々見られるが、社会の中で小さくされた周縁者の方にとっても豊かな時代であることで、問題が問題となりにくい環境があったようである。

     要するに社会における経済のパイが小さくシュリンクしていく中で、現在、高度経済成長を前提として設計されてきた社会制度(年金や、医療保険など)が問題を起こし、社会全体が経済成長を前提とした近代が生んだ制度からの逆襲を食らっているのが現在の日本の実情だ、と思う。年金制度は、すでに破たんして個人的には、もう、こういわれても仕方のない状態にあると思っている。


    北斗の拳のケンシロウ様の名言 英語版で

     なお、年金は貯金制度ではなく、世代間の所得移転制度なので、端的に言ってしまえば、勤労世代から、非勤労者である人々が金を巻き上げる制度である。この制度が是認されるのは、国家として人口増加がある社会であり、現実の制度も、人口増加とそれに伴う経済背長の果実を非勤労者である高齢者に分配することで、経済全体でのパイを大きくすることができるという理論を背景にした制度であるが、そもそもの制度の前提である人口減社会では、制度の前提である人口増が破たんしている以上、年金制度は理の帰結として破たんするのである。しかし、年金制度をうんぬんするマスコミの番組で、枝葉末節の同世代内に生じる不平等さ、をあげつらう番組をご放送中のマスコミでは、きちんと触れられたためしがないのが実に残念である。

     その意味で、現代の若者のかなりの部分は、今の高齢者の一部が享受した”近代個人主義の象徴とされる孤独を「楽しむ」”余裕も、そのための展望もない中で生きているのである。よくこれで選挙による平和的革命が起きないなぁ、と思っている。選挙は、(平和的な)革命装置であることはもう少し認識されてよい。まぁ、彼らにとっては、選挙は人生のおまけに過ぎないし、食玩(ラムネなどの食品が申し訳程度に付いたおもちゃ主体のお菓子)ほどの勝ちもないのであろう。

     ある面、経済的な発展がなくなって、個人にだけ責任を負わす風潮を若者が感じているだろうし、現実に個人主義の利益を享受できずその逆襲としての負の側面だけ負わされている若者が哀れでならない。

    ゲラサ人の物語から 周縁と結界
     この後、ルカ福音書におけるゲラサ人(ガラタ人)の狂人に見える人物の聖書箇所の紹介と引用があった後、次のようにお書きである。
     この舞台となるゲラサ地方とは、恐らくガリラヤ湖の東岸地帯であったと思われるが、乞うご学的に地理的場所を厳密に特定することは困難である。ユダヤ教では穢れた動物とされた「豚を飼う」等の習慣がこの地方では定着していたということは、ユダヤ教の中心社会から見て、あたかも「異邦人の地」のようであり、また「追放された人たち」や「けがれた人」たちの住む「周縁地」としての場所ともみなされていたようである。(同書 p.156)
     日本でも、海外でもそうであるが、周縁は異界との窓口(結界)でもある。異界譚は、必ず、海岸、山麓、峠あたりが舞台になることが多い。結界と異端はつながるし、結界には、日本では神社や寺院や墓が置かれる。最近では教会も置かれるが。明治のころからある教会は、割と宣教師たちが論外の為替レートで持ち込んだ外国の資金で土地を取得したため、街の真ん中のやたら一等地にある教会が多いが、最近の教会は、結界付近にある所が多い。そもそも、資金がないから、という現実的な理由によることも多いのではないか、と思うが。

     なお、下記で紹介する周縁学という本はなかなか面白かった。

     まさに、ゲラサ人の地は、ユダヤにとって結界であったのであろうし、「子犬だって食卓から落ちたものを食べさせてもらえる」とイエスに食い下がったツロ・フェニキアもユダヤにとって結界であったのであろう。そう考えると、イエスは、社会の中心を歩いた人ではなく、結界にいる人々の間を歩んだ人なのである。

     イエスの兄弟たちがイエスに次のように言ったとヨハネの福音書に記されている。
    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
     7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。
     7:4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。
     7:5 こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。
    身内からすらも理解されていなかった、ナザレのイエス君がいたのであり、それほど、イエスは周辺を歩んだ人であったということであろう。
     ここで注目すべきは、この男が信仰について興味を持ち熱心に求道していたとか、救いを求めてイエスに歩み寄ってきたと言いうのではなく、イエスの方がわざわざ湖をわたり、危険を犯しながらも近づいて歩み寄っている点である。本書も一貫して紹介してきたイエスの福音の本質ー「失われているものを捜す」という視点がある。(同書 p.157)
     この部分を読みながら、何度もこのブログ記事の一部でお示ししている日本宣教学会での本田哲郎司祭と退任されたあるプロテスタント派の牧師の方との応対の事を思い出した。その記事は、これ 日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想 に採録されている部分である。要するに、本田司祭は、教会堂に閉じこもって、聖書のテキストこねくり回してないで、イエスがされたように「周縁者のところに、お行きになって、イエスに倣ってごらんなさいよ、そこでキリストに出会うこともあろうから」と暗におっしゃったように思うのだ。

     日本のプロテスタント派も、一部のカトリック派の人々も、教会堂が成立し、教会堂の中に人々を呼び寄せ、教会堂ないし、大勢の人が集まるホールや野球スタジアムの中で言葉で語ること”のみ”が伝道であるという社会的前提を持った人々(ヨーロッパ系の人々も、北米系の人々も)の無意識の前提をそのまま引き継いでいて、そういうものがない時代の活動形態を忘れているのではないのか、ということをご指摘であったように思う。

     そういえば、森本あんり先生の『反知性主義』の中には、馬に乗って周縁者を訪問し続けたタイプの米国のメソジスト派の伝道者の話が載っているが、キリスト教にもそういう時代があったのである。今は、そういう活動はプロテスタント派のごく一部に残っているだけのように思われるが。



    馬に乗り、傘を差しつつ、過酷な環境の中、周縁者であった
    開拓民を回ったメソジスト派の巡回伝道師

    マリアが言われた「そんなの関係ねぇ」
     この自傷行為を繰り返すゲラサ人に関しての記述の解説の部分があり、この自傷行為を繰り返す人がイエスに行ったことに関して、木原さんは次のように記しておられる。
     諸訳を比べてみると、新改訳では「いったい私に何をしようというのですか」、新共同やっくでは「かまわないでくれ」と訳出しているが、ギリシア語原文は”τι εμοι και σο”である。直訳すれば、「私(εμοι) と(και)あなた(σοι )は何(τι)」となり、平たく言うと「私とあなたはどういう関係なの?」という意味になる。事実、口語訳やNKJV(新英欽定訳)はこの直訳に近い訳「あなたは私と何のかかわりがあるのです」(口語訳)、”What have i to do with You?”(NKJV)と訳出している。新共同訳は、この原意を踏まえたうえで、それを反語ととらえて「わたしとあなたは何の関係もないでしょう」と解釈し、「かまわないでくれ」と意訳しているようである。(同書 p.158-159)
     現代風のことばでいうならば、「そんなの関係ねぇ」というくらいの意味であろうか。小島よしお氏をテレビで時折見かけるたびに、個人的にはゲラサ人と重なってしょうがなかったことを思い出す。


    そんなの関係ねぇ、を連呼する小島よしお氏

     余談はさておき、ここの部分を見ながら、思い出したことがある。イエスがその母マリアに言放った次の言葉である。
    口語訳聖書 ヨハネによる福音書
       2:4 イエスは母に言われた、「婦人よあなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
     (上記引用の太字部分のNA27 τι εμοι και σοι γυναι )
     つまり、(τι なんの) (εμοι わたし) (και) (σοιあなた ) (γυναι 婦人よ) と、基本的にゲラサ人がイエスと言った表現と全く同じ表現である。イエスに「葡萄酒を出す奇跡をしてくれろ」と言ってきた母マリアに、英語で言えば None of your business!と言い放ったナザレのイエスがいたのである。イエスは、血縁をここでガン無視するような発言をしているし、血縁をガン無視するような発言を別の機会にしておられる。このような表現の意味を、日本の一種儒教的な価値観の上で聖書理解をするタイプの聖書解釈者の皆様がどう解釈されておられるか、をお聞きする機会があまりないので、どのような解釈がなされているのかは、あまりわかっていない。

    ゲラサ人が回復したのは何だったのか?
     ゲラサ人は、イエスと出会い、閉じ込められていた世界からイエスと出会う事によって、解放され、救出されることで、本来の人間の姿、神と共に生きようとする人間の姿を回復した、それが福音であった、ということに関して次のように書いておらえる。 
     さて、ゲラサ地方のこの無縁の男は、イエスの到来によって正気に返った。そしてさらにはイエスにお供して歩みたい、とまで願うのである。この男を取り巻いていた悪魔的な無縁社会が、突然喜びに満ちた有縁社会へと劇的に変化したのである。(同書p.162)
    と、ここまでは異論はない。そのとおりかと思う。しかし、である。
     先述した無縁社会の地縁、血縁、社縁のいずれも喪失していたこの男は、イエスとの縁、つまり人間を超えた超越的な存在ー神との縁が回復したことによって、結果的に家族(血)や地域(地)などの他のあらゆる縁も同時に回復したのである。これこそが福音(喜ばしい良きおとずれ)の結果である。すなわち、神との縁としての垂直の縁が確立すれば、水平の縁もおのずから開かれていくのである。(同書 p.162 太字部分は原文傍点)
    とまで歌い上げられているが、本当にそうであろうか、とは思った。そもそも、この自傷行為を頻繁に起こす人には、そもそも社縁はなかったろう。確かに社縁は回復したとは書いておられない。

     無論、確かに神との関係性は回復した。確かに、それは、神の不在から、この自傷行為を繰り返す人を開放はした。それは先にも述べたように、確かに福音である。そこには疑義はない。

     しかし、地域との関係性(地縁)は回復したと言い切れるのだろうか。確かに家族のもとに帰った、という記述はある。その意味で血縁は回復したかもしれない。一時的に。しかし、地域に関しては、マルコの福音書は、次のようにも言う。「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ」と。ある面、血縁も持て余したのではないだろうか、この回復後の自傷行為を繰り返していたこの人を。そして、その表現の後に、地縁も血縁関係者による「神の御名を崇めた」という表現は、見られない。もし、人々との関係が回復し、人々が悔い改めたのであれば、その表現が出てくるはずである。

     ある面、この人物は、非ユダヤ的、神のない世界に、ないし神の存在が薄いことをよしとする社会に住んでいたとして、神との関係が回復した人を容易に受け入れるか、というと、人間の性質として、異分子は排除せよ、という社会心理が働くことを考えると、地縁や血縁と呼ばれるものまでが回復したと、そこまで単純には言い切れないようにも思う。

     ところで、縁という言葉を用いようと、関係性、中間組織や組織と言う語を用いようと、これらものは、人間を保護する存在になりうると同時に、人間を閉じ込める存在である。それはオウム真理教でもそうであるし、多くのカルトがそうである。キリスト教系カルトも関係性において故人を拘束するという側面が強い。そのように考えると、神の縁が回復したら、すべてうまくいく、というようには世の中で来ていないと思うのは、ミーちゃんはーちゃんがひねくれているためであろう。

     事実、木原さんは、次のように続けている。
    結果的に「すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるように願った」(17節)のである。無縁社会からの解放者であるイエスに「出て行ってくれ」というのである。これは縁(関係性)の根源である神自身に退場を要求するに等しい。これこそ、この男の問題だけでなく、それを取り巻く社会の側の深刻な無縁ーキリスト教的な説明では「罪」の問題を象徴している。(同書 pp.162ー163)
    ここで、イエスにこの地元民が向けた言葉「出て行ってくれ」とは、ある意味 「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。」と言ってのけることに等しい。イエスに対し、出て行ってくれ、というそのことばが向けた地元民からは、イエスの弟子と見えた、あの頻繁に自傷行為に及んだゲラサ人には、より一層厳しい目が向けられたのではないか、と思う。
     
     まぁ、この部分に関して言えば、少し筆が滑ったのでは、とミーちゃんはーちゃんは感じはしないではなかったが、それがあるからと言って、著者への経緯は変わらないし、この部分が本書全体の価値を大きく毀損する、とは思ってはいない。

    『縁』という語とキリスト教

     日本語では、縁というと、どうしても仏縁とか、「縁なき衆生は度し難し」といった語感を持つ語であるがゆえに、同じ信仰を持つ中でも、同じ地上の特定の地理的空間の中に存在する一つの教会関係者とのつながり、みたいな感じが強い語であるので、個人的には、「誤解を生まないかなぁ?」と懸念する。なんか、キリストを信じると、全部うまくいく、と誤読する人が出そうで、この言葉を使いながら説明しようとすると少し厄介だなぁ、と思った。

     個人的には、個人が成功の状態であれ、悲しみの状態であれ、苦しみの状態であれ、憐れみの中に陥っている状態であれ、よろこびの状態であれ、それに全く関係なく、キリストがそこにいるし、我ら人間とともに、存在する、まさに泣くものと共に泣き、喜ぶものとともに喜ぶ(ローマ  12:15 )存在としてのナザレのイエスが存在する、というのが、聖書の主張の一つであることがもう少し認識されてもよいように思うが。


     次回、大団円、このシリーズの最終回である。




    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:絶賛ご紹介中です。

    評価:
    ---
    昭和堂
    ¥ 2,808
    (2010-04)
    コメント:九州という周縁から考えた近代社会の考察論考集であったと記憶する。

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