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2015.09.19 Saturday

コラージュのような2つの本

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     面白い本を2冊、出版社のヨベルの社長様よりご恵贈いただいた。ありがとうございました。

     一つは、聴聞力という東京の教会の役員をされておられる方がお書きになられた説教メモをもとにそれに個人研究の成果を付与した説教聴取録である。

     もう一つは、塀の中のキリストという刑務所の長期囚の方で、元反社会的勢力の構成員の方がお書きになられた手紙を編集された書簡集として出版された本である。

     この両者に共通するのは、編集とそれをもとにした世界の広がり、ということであろうと思う。

    『説教聴聞力』 読後感想
     まず、最初のものは、キリスト新聞に書評が載っていたので、詳しくはそちらを参照していただきたいが、平たく言うと、毎週日曜日に語られるローマ書の連続講解の礼拝説教のメモを取り、そのメモをもとに著者が独自に聖書の個人研究した成果を付与した説教集をもとに編集して広げちゃったような本であった。非常に印象深い。


    説教聴聞力

     プロテスタント教会(聖公会やアンゴリカンコミュニオンを除く)にとって、聖餐式、あるいは礼拝における様式性を、程度の差はあるとはいいつつも、排除しようとしていった結果、説教中心になり、説教こそ教会であるという文化が生まれている面もあるように思う。つまり、教室型でしゃべってナンボという文化が出てきたと思うのである。

     特にアメリカから来訪し、日本に定着した米国型キリスト教(リベラルと呼ばれるメインライン系のキリスト教会であれ、福音派と呼ばれるアンチ・メインライン系のキリスト教会であれ)の場合、説教の比率は極めて高い。その面で、一般には、説教者は心砕き、多くの時間を費やして(信徒には牧師が説教にかける情熱と根性が理解されないことが多いのだが)、信徒の状況を総合的に勘案しながら、説教が形成されることが多い。そうでない牧師の方の場合もないわけではないとお聞きはするけれども。

    説教メモを取ったけど見直してる?
     いくつかのプロテスタント派の教会に行った限られた経験でしかないが、そこの信徒さんたちは牧師の説教を漫然と聞くのではなく、かなり注意を払いつつ、メモを取りつつ、聞いておられる場面に出くわす。非常に熱心な態度で聞いてはおられる。まぁ、そうでない信徒さんもお見かけしたことはあるけれども。ミーちゃんはーちゃんはよほどのことがない限りメモはその場ではとらない。とるとしても、怪し気なところについてのみは取る。

     しかし、メモを取った方々の大半は、その時はメモは取るものの、メモを取ったことで安心、満足してしまい、それを見返し、そして振り返るということはあまりないのではないだろうか。しかし、『聴聞力』の著者は、それを自らメモを取っただけではなく、それを振り返り、反芻し、そして、さらにそこからより外側に理解の範囲を広げ、ご自身がお聞きになられたことをさらに充実されたノートを作っておられ、それをまとめたものが本書である、らしい。

     その意味で、非常に印象深いし、ミーちゃんはーちゃんは、その真摯な態度にある面感銘すら覚えたのである。こういうことをしてもらえる司牧というのは幸せであると。一種文章による説教をもとにしたコラージュというか、オマージュのような作品としての書籍であった。

    聞き流し説教と流し素麺

     しかし、ある面でこのような流し素麺ならぬ聞き流し説教にしていない信徒側の取り組みは司牧にとって、その人とより密接に直面しているということである。とはいえ、相当数の会衆が消化不良を起こすような説教をすることもできないので、その説教はある程度、この辺かなぁ、と思うあたりに焦点を当てたものになってしまうところはあるだろう。また、一回の説教の時間も、2時間も3時間も、ロシア正教の礼拝の時間のような長さでできる訳でもない。その意味で、限界があるのだ。

     その限界を埋め合わせるような努力を、まぁ、ここまでしてもらえる司牧は幸せであるとは思う。説教された方は、御嫌だったかもしれないが。まぁ、その意味で、ミーちゃんはーちゃんとしては、ここまで真面目に聞いてないので、ちょっと反省しないとな、とは思った。

     聖書の事をもっとよく知りたい、と思っているキリスト者には、こちらの本をお勧めするが、この著者の真似は、そう簡単にできるものではないことだけは、確かであるし、恐らく大半の人は、この著者のように取り組みはできないと思うことだけ、念のためご進言申し上げておく。しかし、是非、やって見られるとよい、とお勧めする。

    堀の中のキリスト

     今回ご紹介する2冊目のこの本は、長期囚と牧師との交換日記のような手紙のやり取りをコラージュにした本である。面白いのは、本人の視点から長期囚の視点から描かれているところかと思う。ただ、どこまで編者である牧師さんの手が入っているのかがわからないほどのコラージュになっているが、まぁ、二人の共作、ってことで理解するのがいいだろうと思う。


    塀の中のキリスト

    人は変わるのか?

     この本の中でも触れられていたが、「人はキリストに触れて、変われるのか」という問いがあげられていた。この問題は面白い問題だし、キリスト教理解を考えるうえで重要な問いであると思う。

     「変わる」ということをどう考えるか、ということをきちんと定義しないまま、「変わった」、「変わる」ということを議論していることで、混乱に輪をかけているようにおもう。人はある意味で「変わる」が、ある意味で「変わらない」存在なのだと思う。

     キリストに向かってなかったものがキリストに向かうという意味では「変わる」とは言えると思うのだが、実際の行為や個人の歴史は基本的に「変わらない」し、外形的に見えるものに関しては「変わらない」と思うのだ。悔い改めたぐらいでは、決心したぐらいでは、人間の習慣や現実世界におけるその人の行動パターンは「変わらない」と思うのだ。

     この本の中に「変わる」という語が何度か出てくるが、それが、この本の持ち味でもあるし、本人の証言として、直接観察の結果としているところが参考になる。

     キリスト教的美談(したがって、架空の事や気の迷いの言明の場合も多いのであるが)では、キリスト教と、あるいは、イエスと出会ってその人は人格的に変容し、霊的にも変容し、一瞬にして、聖人君子の仲間入り様な変容、魔法のような変容する、ということが語られることがあるが、個人的にはそういう変容は信じていない。全部が全部嘘っぱちとは言わないが、直前の投稿でも紹介したように、悔い改めて変わったはずの牧師が、セクハラまがいや児童虐待まがいの不祥事を繰り返すという現状を見ていると、人は変わらないと思う。このあたりの事は、ダウトという映画が非常に印象的である。非常に陰鬱な映画ではあるが、このあたりの事を考えたい向きにはおすすめする。


    ダウト あるカトリック学校で 予告編

     なお、ダウトは、レッド・ドラゴン、カポーティと並んで、フィリップ・シーモア・ホフマンのキモヲタ的演技が抜群に光る一作であった、と思う。

    (補足: 上のダウトの静止時の字幕が、「根拠もなく疑うのか!」とホフマンの発言の字幕になっているが、「根拠がないから疑う」あるいは「疑わないための根拠を求めて疑う!」ということは案外大事だと思うのだな。アマリニ疑わないイイ子ちゃんばかりでは、世の中つまらん。実につまらん。)

    疑う、と言えば

     山崎ランサム先生のシリーズ      


    確かさという名の偶像1 
    確かさという名の偶像2
     
    確かさという名の偶像3
     
    確かさという名の偶像4 
    確かさという名の偶像5 
    確かさという名の偶像6
    確かさという名の偶像7

    シリーズではないが、疑うことは大事であり、それは自分自身の信仰が揺れの中にあることを確認するうえでも重要だと思う。

     「変わる」とは何かを議論せずに、「変わる」とか「変わらないとか」という議論をすることは、実に無益だと個人的には思うのだ。それを定義して、どの次元で「変わる」のか、「変わらない」のか、ということをきちんとやらないといけないといけないのだが、次元の区別をせずに「変わる」とか言っているから、「悔い改め」という語からの発想で、すべての事が全部の次元において「変わる」という妙な検証されえない仮説が生まれていて、それがキリスト教の中で幽霊のように歩いているような気がする。

     前回の記事 今年の夏のある修養会で…  丁度この前の牧師先生方の修養会で混ぜてもらったときにも、「人は変わるのか」という話題が出たが、個人的には、「行為は変わらない」が、「神と共に生きる、という一点のみにおいてのみ、人は変わる」とは思うのだ。この本は「人は悔い改めで変わるのか?」という結構キリスト教にとって重要な問いを考える際の参考になる一冊ではないか、と思う。

     後、この本を読んで、反社会的勢力の皆さんが、漢籍に詳しいことには驚いた。まぁ、儒教の最後の砦が、反社会勢力の皆さんなのかもしれないが。その辺、社会秩序を解いた儒教が、反社会勢力の皆様によってその概念が保存されているというのは実に興味深い。

     個人的には、批判的に考える素材としては、こちらの方がおすすめかも。



    評価:
    加賀 乙彦
    新潮社
    ¥ 767
    (2003-03)
    コメント:一読をお勧めする

    評価:
    加賀 乙彦
    中央公論新社
    ¥ 734
    (1980-01-23)
    コメント:堀の中のキリスト の原型を見る感じ

    コメント
    >反社会的勢力の皆さんが、漢籍に詳しいことには驚いた。

     実は、最近あまりにも話題が飛びすぎて(同時並行にお話しが進みすぎ。プロの学者にとっては当たり前なのでしょうが、アマチュアにはキツイです。)殆ど追いつけません。

     ところで・・・この部分は、標本の少なさから来る、はたしてサンプルが代表していると言えるか、ってこともありますが・・・「反社会的勢力」との括りの定義そのものがはたして標準化できるのか否かって部分を問題にされると思うのですが。

     それとテキ屋さん達が持ち出す「神農皇帝」は明治以後と考えた方が良いと思います。
    • ひかる
    • 2015.09.23 Wednesday 09:10
    ひかるさま
    コメントありがとうございました。

    あっちこっち飛んで、すいません。本を紹介(おもちゃにして遊んでいると)していると、遊んでほしいとおっしゃる方や、おもちゃにしていいから、本を紹介してほしいというお願いが来ているので、いろんな本がごちゃ混ぜにご紹介する羽目になっております。

    まぁ、そうですね、本来は、漢籍の定着状態に関する調査のために、無作為抽出して調査を実施した上で、出現確率に関してカイ二乗検定か、ノンパラで検定しないとまずいですね。w

    コメント感謝。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.09.24 Thursday 20:07
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