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2015.09.21 Monday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その11

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     今日も木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』の第10章「生涯、マイノリティと福音」の後半からご紹介したい。

    人間は変わらない
    という姿を示したペテロ

     前回の記事 コラージュのような2つの本  でご紹介したが、基本、人間が変われない、変わらない、変わりにくいことを示した事例が、パウロと律法、とりわけパウロと律法の食物規定である。
     自分の基準(律法主義)、習慣、伝統に凝り固まっている姿、あるいは頭ではわかっていても周囲の目を怖れる姿は、主の復活後は大使徒となたと称されるペテロ像とはかけ離れているが、これが実際である。しかも、この幻の記事の直前(使徒9章)にはペテロが死人をよみがえらせる奇跡が帰されているが、そんな彼でもできなかったこととは、実は自分を変えること、つまり自分の選民意識とその習慣を脱却することであった。不思議であるが、これが現実であり人間の性なのであろう。自分の生きてきた価値観を簡単に捨てるほど人間は単純ではない。人間は本質的に保守的動物である。自分が変わること、還ることが嫌なのである。変えない方が楽だからである。(「弱さ」の向こうにあるもの p.140)
     この話をもう一度読みながら思ったのだが、ペテロが奇跡をおこなったのではなく、奇跡は神が起こされたのである。ペテロは、そのためのその場に居合わせた人間でしかないのではないか、と思う。あくまで、神の主権性がそこで働くゆえにその場に居合わせさせていただいた、という感じではないか、と思う。まぁ、人間中心の視点で見た場合、ペテロが死人を読み替えさせたり、パウロが手紙を書いて励ましたり、ということではあるが、それは神の御業が働くときに立ち会わせてもらった幸いな人であったのだと思う。その意味で、パウロは、神が介在される場面に立ち会わせてもらうことで、彼の神に向かい方向性が大きく変わったのであり、イエスから離れる方向(迫害する方向)に進んでいたパウロが、イエスに近づく方向に変わったのである。霊性の変容ともいえよう。無論、そこには、衝撃的なナザレのイエスが神であることの啓示と出会ったからではあるが。
     しかし、人間は変わらないようにも思う。使徒の働きや書簡を見ていても、パウロが激情型であったのは、あまり変わっていないように思う。性格がイエスに出会って変わったとかいう言説をお聞かせいただく方もあるが、個人的にそれはあまりないのではないかと思うし、性格やその人の特質も、神がその人に与え給うたもののような気がする。それが簡単に変わるのだとすると、少しややこしい問題が生まれると思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけだろうか。まぁ、そうかもしれない。

    オープン・マインドであることの困難さ

     いろいろな学生と出会ってこられた木原さんであるからゆえ、異質な他者、想像をすることもできなかったような人との出会い、それとともに起きるドタバタ劇と混乱は多数経験されたのではないか、と思う。そして、それが新しい世界への入り口となっている、という以下の指摘は、非常に面白いものである。
     そんなペテロがあえて神が見せられた奇妙な幻は、今日どのような意味を持つのか。それは異質な他者との出会いを通じて、自分の偏見や過ちに気づくことなのではないのだろうか。
     私も、学生から相談を受けるとき、自分の価値観に反発してくる学生たちとの対話を通して、自分の価値観が揺さぶられる思いになることがあるが、そこにこそ異質なものとの出会いを通じて生まれる「新しい人」の扉が有る事に気づく。(同書 p.140−141)
     個人的にも、最近いろいろな学生、特に様々な国の学生さんとお付き合いする中で、まぁ、お近くの国でも、ここまで違うのか、と思うことが多い。特に、就職のお世話をしていると、自分自身の考えを動かすことなく、日本社会がおかしい、そういうことは聞いていない、とおっしゃるので、支援側としては、どうお手伝いしていいのかわからない学生の方とも出会うことが案外多い。「そういうことは聞いたことがない」「そういうことは聞いてない」というのは 福音派と聖書 米国の場合 その3(1) という記事でご紹介したアメリカの福音派のお家芸ではなかったようである。

     ある所で、上記の趣旨のようなことを書いたら、うちも普通の学生はそうだ、と世界各地の皆さんからご意見を頂戴したので、あぁ、我が勤務先も、ある意味では世界標準に達したのだ、と思ったのである。

     こないだ、大阪で開かれた宣教学会でキーノートスピーカーで来られていた本田哲郎司祭がある退任牧師の方から「普段何をしているのだ」と結構きつい口調で詰め寄られていて(それは学会のマナーとしてどうかと思うが)、「聖書ばっかり読まずに、もっと人と出会われたらどうですか?」とその退任牧師の方におっしゃっておられたが、プロテスタント一般に聖書という文字の世界に閉じ込められており、イエスの持っていたオープンマインドネスを忘れていて、イエスの福音でもあった、閉じ込められていることからの解放される必要があるのかもしれない、という不遜なことが頭の片隅をよぎってしまった。 

    聖書と女性について
     男女雇用機会均等法が施行されてから、もう20年以上経過しているが、お題目では男女雇用機会均等ということに建前ではなっているが、実態としては、雇用機会としては等しくないように思われる。そもそも、男女平等が憲法で言うように保証されているはずの日本国で、男女雇用機会均等法という個別法が存在していることを考えると、それは、憲法上の保証が実現していないということを自ら吐露しているようなものである。
     日本では、「男尊女卑」という言葉に暗示されるように、社会構造自体が、歴史的にずっと男性優位社会であり、昔も今も本質的にはそれはあまり変わらない。「男女平等」であるとずっと日本国憲法で保障しているにもかかわらず、その実態はどうだろうか。(中略)そのことを見ても、以下に未だに日本が男性優位社会体制を温存しているのかを物語るものである。(同書 p.142)
     個人的に、1970年代のウーマン・リブ的な男女同権の主張は、近代が生み出した人間はすべて等しいと仮定した上での男女同一であり、本源的な聖書の言う男女平等ではないと思う。基本的に、旧約聖書は一見男性優位に見えていて、その実、結構女性の話が出てくるのである。そして、女性が大きな役回りを果たしていることを案外見逃してはならない。女性が絡んで失敗した事例もないわけではないが、それを言うなら、アブラハムだって、アダムだって、ダビデだって、同じように失敗しているので、男性だけが優れているとは言えないと思う。


    いのちのことば社のことはちゃんのツィッターで見た
    バイブルプレーヤーズのバテシバカード

     しかしこのカードの絵柄見たとき、一瞬衝撃が走った。ドキドキしてしまうじゃないですか。ダビデ王じゃないけど。まぁ、バテシバちゃんが誘惑したのではなくて、勝手にダビデ王がのぞき見して、勝手に誘惑されて、計画殺人事件までダビデは起こすことになるのだ。

     女性の扱いと聖書に関連して、木原さんはもう少し踏み込んで、次のようにお書きである。

     ジェンダー、フェミニズム、女性の権利などというと、キリスト教会では、それらは世俗の発想法で、聖書やキリスト教とは無関係と思われがちである。そればかりか、保守派を自認する薄学で極端な人たちの間には、教会を悪へ蝕む危険な思想であるなどという誤解があることに心が痛む。
     よく学べば分かることだが、そうでないばかりか、実は、そのルーツにはイエス自身の革新的、革命的な女性の人格への尊重というまなざしがある。(同書 p.142−143)
     しかし、次の一文は、よくぞおっしゃったとは思う。「保守派を自認する薄学で極端な人たちの間には、教会を悪へ蝕む危険な思想であるなどという誤解」という、アメリカの福音派の一部と、日本の福音派の一部からはにらまれかねない発言である。「薄学で極端」って・・・・、ねぇ。まるで、森本あんり先生の『反知性主義』 (内容の紹介は、反知性主義をめぐるもろもろ で)で取り上げられた皆様方を名指しでご批判になっておられるかのような印象が・・・。

     よく学ばなくても、基本的にやもめの世話をしろだの、女性へのケアしろだのって、新約聖書には書いてあるし(一部の方の聖書には、その辺が抜け落ちているのかもしれないが、そういう聖書をお持ちの方は、出版元にお問い合わせになった方がよいと思う)、イエスは女性、それも嫌われ者の女性によって言って水を飲ましてもらったりと、実に当時の社会の常識にとわわれない(神であるから、人間の概念に縛られていないので、ある面当たり前であるが)実に画期的で、革命的で、社会の根幹を揺るがす行為をやってのけたのである。

     現代でもそうだが、ユダヤ社会では、男性はシナゴーグでは、ラビ(ラーバイとも英語では発音する、某兵長と音は似ている)のそばを囲むように座席が与えられ、女子供、異邦人は別室送りなのである。20年ほど前に、一度、アメリカで、割とモダンなタイプのシナゴーグ(小学校を借りてやっていた)でヨム・キップルのお祭りに、キッパーという帽子をつけて異邦人、異教徒でありながら、参列させてもらった(コンサーバティブのユダヤ教でないことがミーちゃんはーちゃんが参加できたことでもわかる)が、その時のラビは女性であった。

     しかし、そのシナゴーグでは、ひげはやしたじいさん連中が、30過ぎの女性ラビを囲んでいる姿は、ある意味、非常に印象的ではあった。あぁ、ユダヤ社会もここまで変わるのか、という思いを持ったのである。

     現代の聖書的理解は、現代という時代とそれまでの歴史的な経緯と、現代社会というその環境パラメータにおいてのみ、成立している一時的なものであり、時代とともに変化していったことは、少し教理史を調べればわかることである。

     この前、たまたま、映画『それでも夜は明ける』を見ていたのであるが、あの映画の背景となったアフリカ系アメリカ人を奴隷とすることの正当化には聖書に奴隷が出てくるということが用いられたのであり、いまだに、白いシーツを被って十字架を燃やす趣味(あまり高尚な趣味とは言いかねる、と思うが)をお持ち方々の一部には、奴隷としてアフリカ系アメリカ人を所有することは聖書的であり、当然であると、おっしゃる方々もおられるようである。


    映画『それでも夜は明ける』の予告編

     なお、キリスト教会が奴隷制の問題と直面するきっかけは、ネイティブ・アメリカン(その昔インディアンと呼ばれた。インド人ではなかったが)の酋長が黒人奴隷を保有したまま、教会の役職に就けるかどうかであったことは、このブログでも紹介した。

     まだまだ続く。







    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしています。

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