<< 「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(8) | main | NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その14 >>
2015.09.09 Wednesday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その10

0



    Pocket

     本日は、木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』の第10章からご紹介したい。教会における障害を持つ人々やマイノリティに関する内容を扱った章である。

    我が国に生まれたるの不幸?
     近代日本もそうだし、近世日本もそうであるが、多様性を排除する傾向が強いし、近代の産業化時代に入ってからというもの、社会の中での共同行動をとれない、取らないものに関する風当たりは非常に強い。そのことに関して、精神医学の分野での名言であると思うが、昔の東大医学部の呉先生という方の名言があるらしい。
    日本でも、それぞれに法律・制度があり、一定の施策がなされているが、障害者に対する根拠のない差別や偏見は依然強い。ようやく国連の障害者権利条約を2013年12月に批准して、国家としてもそれに向けた誠意ある対応を迫られることになった。その際、特に注意すべきは生涯をもつ人々への「社会的排除」の問題である。
     かつて精神障害をもつ人々に対して、東京大学の呉秀三氏(精神医学)が「我が国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」(呉秀三『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其基礎的統計』1918年)と嘆いたが、これは日本の社会を象徴している。残念ながら教会も例外ではない。
    (『「弱さ」の向こうにあるもの』p.134)
    閉鎖病棟をはじめとし、日本の精神病院の状態は、どうも、刑務所以下らしい。リハビリとは言うけれども、それは真の意味のリハビリ(社会の中に居場所を見つけることができるようにする)ではなく、社会の中で、ごくごく平均値付近の70%範囲に入る普通の人間として『働ける』、つまり、生産的活動に従事できる人間にすることなのではないか、と思えてしょうがないのである。そもそも、人間が多様である以上、基本的に何らかの形でばらつきがあるので、何らかの意味で跳びはねた存在の人は居られるのである。



    その名も正規分布と標準偏差σとの関係

     あるめん、通常の社会的行動がとれない、あるいは、常識を疑ってかかり、常識を破壊しようとするような傾向をもつ社会に適応、順応する能力がない人々ための施設として、大学院という施設があり、そこに自主的希望入院してから、はや30年余りがたつが、個人的には入院していてよかったと思う。まぁ、日本の精神病院のように強制的拘束とか、強制的監禁はないが、社会にいると何をしでかしていたか、と思うと、自主的入院は正解であったと思う。学問は、基本的に既存のものを疑う傾向があるので、ある意味、「触るな危険」というような傾向をもつ危険な存在なのである。

    異質なものへの排除

     異質なものへの排除は、日本社会だけではないが、日本社会、とりわけその中でもキリスト教会におけるこの大数の法則中心極限定理(多数のデータを集めれば集めるほど、標本平均は、真の母集団の平均値に近づいていくという、統計学をやったことのある人なら知らないはずのないほど超有名な定理、統計学をやったといいながら、大数の法則や中心極限定理は高度なので説明できない、と言ったらその人の統計学の知識は、めちゃくちゃ怪しいと思ったほうがいい)みたいに、キリスト者であれば、一つの型にはまっていると思い込んでいる傾向があるようである。このあたりのことに関して木原さんは次のようにお書きである。
     私に寄せられた声でも、次のような言葉があり、心を痛めた。「息子は自閉症なので、教会に発動ことができません」「性的マイノリティであることを告白したら、態度が豹変しました」「発達障害ゆえに、牧師や教会員に奇異に思われて交流の場に入れてもらえません」「表向きは優しい声をかけてもらえるが、でも深くかかわろうとすると実際は迷惑なようで……」。これが事実とするなら、このことに対して、イエスは何と言われるだろうか。おそらく、その人たちを排除しようとする教会に対して、激しく叱責し、憤るのではないだろうか。あるいはそこで排除された人々のために共に涙を流すのではないか。(同書 p.134)
     案外、この種の概念は教会で多いのである。ある種の人々だけが集まっており、それ以外のタイプの人は排除されるという教会は多いかもしれない。表向きは優しい声をかけてくれる教会はあるだろうが、そんな表向きのことでだまされるほど、人間はお人よしではないと思う。

     基本的に、以前、Love Wins祭り(Rob Bell著 Love Winsという本を紹介したブログ記事に、アメリカ最高裁が、州政府の差別的措置を違憲とする判決を出した日に、アクセスが集中した事件)でもご紹介したが、基本的にアメリカ系のキリスト教では、異性愛者でない人々に対してはかなり厳しい目が向けられる。そして、アメリカ系キリスト教が多いアメリカ社会では、いわゆるセクシャル・マイノリティ(日本ではセク・マイ、米国ではLGBT)と呼ばれる人々は社会から排除されてきたし、今なおその排除の傾向は強い。


    United Church of ChristのCF『用心棒』編


    United Church of Christ のCF 『排出座席』編

     結果的に、この異分子排除の原則というのは、ナチスのユダヤ人排除と同じ概念であり、ネオナチ的なのである。これ以上は触れないが、ナチスに積極的、消極的協力した神学者や牧師も存在したし、大東亜共栄圏に積極的、消極的協力した神学者や牧師もいたのである。まぁ、一応それぞれけじめはお付けであるが。
     一時的な状態だけ見て、うんぬんするというのは、実に非常にまずいと思うのではある。

    キリスト教会はいじめ構造?

     ヘイトスピーチやいじめに関して、木原さんは次のように書いておられる。
     最近耳にするヘイト・スピーチには嫌悪感を超えて憤りを感じる。このような言動には、自分の価値観とは異なる異質な物の排除と言う意識がその根底にあるのであろう。こんなことがまかり通る社会に為って入るのかと思うと悲しい。自分と違うものとは交わらず、それを遠ざけ、排除して、同じ仲間だけで共同体を作るのは、学校などのいじめとも共通している。日本はこの傾向が顕著である。(同書 p.138)
     ある関東地方の教会に行かれた神学生の方が、その教会が属するグループについてレポートされた事例をある方から拝見させていただいたことがある。そのグループの教会では、自分たちと同じ行動をとらないものを絶交する(聖餐の相互認証をしない、聖餐に参加させない、ということではないかと思われる)というのである。まぁ、カトリック教会の皆様からは、プロテスタントのいい加減な信者(ミーちゃんはーちゃんのような信者)は、聖餐にはあずからせてもらえないし、正教会の皆様の聖餐には参加させてもらえない。基本的に洗礼に関する秘跡が共通でないという理解かららしい。しかし、あるプロテスタント派の教会群では、同じグループでありながら、カトリックとプロテスタントとの関係と同じような扱いになる場合があるらしいのだ。しかし、こうなると、もはやBullyingといわれても仕方なさそうであるが、そう思っていると、今通勤時間に読んでいるRacheal Held EvansさんのSearching for Sunday という本の中に、次のような一節があった。

      Fun Fact: more Christians were matryred by one another in the decades after the Reformation than were martyred by the Roman Empire. (Racheal Held Evans, Searching for Sunday, (Thomas Nelson 2015)S

     面白い事実:宗教改革後数十年間には、ローマ帝国で殉教者にされた人々よりも多くの人々が、キリスト者同士の相互迫害によって殉教者になった。 
    出典はフスト・ゴンザレス  Justo Gonzalez, The Story of Christianity, Volume II: The Reformation to the Prezend Day (New York:Harper One, 2010), 71.らしい
     読んだ瞬間、あーぁ、と通勤電車の中で危うく声をあげそうになった。こういう黒歴史を記載すると顔をしかめるキリスト者の方々もおありなのは承知しているが、しかし、キリスト教の黒歴史も、それを無視してはNGではなかろうか、とは思っている。要はけじめと神への立ち返りという意味での悔い改めが必要だと思うのだ。

    聖さと排除
     ペテロが見た幻(籠(カゴ と読む、龍ではない)の中に入った食物を見て、ある食物を聖でないとか言ってはならず、それを食べよと結われた幻)の使徒10章の記述の説明があった後、木原さんは次のように書いている。
     ところが、ペテロは、これ以降、劇的に変化したかと言えば、そうではない。神の意思が示され、頭では分かっていながら、微妙な行動に出る。それは新約聖書のガラテヤ人への手紙2章に詳細に記されている。当時、異邦人とのかかわりを良しとしないエルサレム教会の一部の人たちが巻き返しを図り、ユダヤ主義に回帰して異邦人を排除しようとする。ペテロは、その雰囲気にのまれ、彼らの手前「本心を偽って」再び異邦人をとし、そのかかわりを回避していく。それに対して、パウロは完全と抗議する。ペテロの優柔不断な態度と過ちを会衆の面前で、ずばりと指摘したのである。(同書 p.139-140)
     基本的にキリストが死した時に、ユダヤ人と異邦人の間にある区別、差別、境界は撤廃されたことを、隔ての幕が避けることでこれらの区別や差別や教会の存在が無効であることが示され、ナザレのイエスが全ての人のためのメシアであり、キリストであることが示されたはずなのに、勝手に区別するとは何事か、ということなのである。ガラテヤ書3章には次のようにある。

    【口語訳聖書】ガラテヤ書
     3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
     3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
    この辺りに関しては、既にN.T.ライト先輩が、あるご講演でお語りであるので、コチラ  NTライト Kansasで語る(2)  をご覧いただきたい。
     
     全てのイエスの十字架は隔てをはずされたはずなのに、キリスト教徒の一部は、ユダヤ人を逆差別し、ホロコーストや、ポグロムは起こすは、白いシーツをかぶって、存在が気に入らないからと言って、アフリカ系アメリカ人を木につるすは、自分以外のキリスト教は間違っているからと言って、虐殺しまくるわ、とろくでもないことをしてきたのである。



    白いシーツをかぶってコスプレしているわけでないKKKの皆様


    ビリー・ホリデーの『奇妙な果実』
     まぁ、悲惨。 とはいえ、ぜひ一度お聞きいただきたく


    まだまだ続く


    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしてます。

    評価:
    Rachel Held Evans
    Brilliance Corp
    ¥ 1,888
    (2015-04-14)
    コメント:めちゃ、面白い。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM