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2015.09.07 Monday

NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その13

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     今日からは、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「神」の続きの部分を引用しながら、考えたことを述べてみよう。

    神の側からの働き掛け

     神と人との関係のありように関して、N.T.ライト先輩は、次のように書いておられる。
     イエスがよみがえったことで、すべては新しい光のもとにおかれた。(中略)ここで重要なのは、神は(もし存在するとして]私たちの世界に在る対象物でも、あしてや知的世界の特定のイデアでもなので、その存在を証明しようと人間がどれだけ努力しようが、迷路の中心には決してたどり着けないということである。
     では神が存在するとして、その神がその迷路の真ん中から、自分の方から現れたらどうなるだろうか。それこそがまさに、主要な唯一神論の伝統が伝えてきたことである。(『クリスチャンであるとは』 p.85)
    ある面、イエスのよみがえりは、神と人との関係を変える上で、非常に画期的な事実であり、神と人間に関する世界システムが変わったできごとであった、とご指摘である。つまり、上記引用文の最後の部分にある、神が突然人間の世界に顔を出した瞬間であり、前回のブログ記事 木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9  で言えば、将にカイロスの時であった。そして、それは、Aeon(イオン)の時となったのである。

     しかし、残念なことに、16世紀から17世紀以降の啓蒙思想と科学思想がヨーロッパ社会の中で席巻して以降、本来人間の認知を超えているはずの神も、人間の認知の枠内でとらえようとする動きがキリスト教世界の中でも起きてきた。メタ概念であるものを、サブ概念で理解した気になるという愚を、特にヨーロッパ大陸の北西側の領域に住むキリスト者の多くの人々は犯してきたし、また、そのヨーロッパからアメリカに渡ったキリスト教の関係者の多くの部分の皆様もその愚に巻き込まれてきたし、ヨーロッパ大陸の北西側、および、アメリカ大陸経由のキリスト教として受けてきた日本のキリスト教もその影響を受けてきたように思う。まぁ、それは時代の流れの中で致し方ない現実でもあったと思う。
     なお、ヨーロッパを席巻した科学的な思索は実は、自然神学と呼ばれる神学の分野から分離していき、独自の論理で研究と思索が進められていく中で、客観性の信頼から、神学的なテーマである神の被造物に関する理解という側面が薄れていったように思う。
     
    天とは何か?
     天とは、空とか、大気圏とか、成層圏とか、宇宙とか、天国とか、いろいろな理解ができる語である。我々は、我々の知識の範囲、日常言語に縛られているため、その後の理解の範囲で大賞を理解することが多い。「我らの国籍は天にあり」という語が、キリスト教界の墓石には書いてあることが多いが、その意味がどこまで理解されているのだろうか、という事例も多数ある。
     「神は天におられる」と、聖書記者の一人がきっぱりと断言している。(中略)しかし、これは聖書の伝統が常に主張してきたことを強調しているに過ぎない。即ち、もし神がどこかに「生きている」とすれば、それは「天」として知られている場であるということである。
      二つの誤解を直ちにとかないといけない。第1に、後代の神学者の中には、宇宙を旅すればいつかは神の居る場にたどり着けると想像した人がいたかもしれない。だが聖書の記者たちはそのようには考えなかった。ヘブライ語やギリシャ語では、「天」が「空(そら)」を意味することもある。しかし聖書記者たちは、物質世界での場所を表す意味の「天」と、「地のすみか」としての天とを、現代人よりも容易に識別することができた。それ等は異なる種類の「場」なのである。
     (中略)
      二番目の誤解がある。それは「天(天国)」という言葉が、「神の民が死んだあと、私服の幸せのうちに神とともにいる場所」という意味で頻繁に使われてきたことで生まれた。その結果、天とはクリスチャンが死んだ後に向かう場所、祝福された魂が最終的に行く場として理解されるようになった。そして「天」と反対の場所である「地獄」とセットで理解されうるようになった。だが初期のクリスチャンにとってそれは、購われたものの最終的な終着点という意味ではなく、神が常におられる場を言い表した。その意味で「天(天国)に行く」といういい方に含まれる約束は、「神が居られる場に私たちもいるようになる」ということである。したがって「天」とは単に未来の状態だけでなく、現在のこともあらわす言葉なのである。(同書 pp.86-87)
    アメリカのアニメ The Simpsonsでは、いくつかの天国概念が戯画化して描かれている。それを以下に紹介したい。アメリカ人のプロテスタントの人々の多くの天国概念は以下の図のようなものかもしれない。死後に行く楽園としての存在である。それが証拠にHomer Simpson氏はバスローブの様な割と楽な服をまとっている。案外こういうイメージがあるかもしれない。


    天国についてのアメリカ人が持っているであろう一般的なイメージ

     まぁ、以下のプロテスタントとカトリックの天国概念の違いを戯画化してみたシンプソンズの画像は少しひどいと思うが、しかし、両者のキリスト者の生き方の違いを概念化しているようで、なるほどなぁ、と思わせる。


    プロテスタントの真面目さ、健全さへのこだわりを戯画化した天国イメージ


    カトリックの多様さ、楽しさの延長線上で戯画化された天国イメージ


    In side Actors Studioの中での名物コーナー 10の質問
    このコーナーの最後で、もし天国が存在したら、何と言われたいのか、を聞くのがお定まり


     さて、ここで、上記引用文中で重要なのは、個人的には次の一文であろう、と思っている。

    その意味で「天(天国)に行く」といういい方に含まれる約束は、「神が居られる場に私たちもいるようになる」ということである。したがって「天」とは単に未来の状態だけでなく、現在のこともあらわす言葉なのである。


     実際イエスも次のように言っておられる。

    【口語訳聖書】マタイ
    4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。

     これは、空の向こうにある天国の事ではないのではないか、ということである。空が近付いたのではなく、神そのものであるイエスがこの地に来たのだ、というのがイエスの主張ということではないか、と思うのである。

     これまでの日本のプロテスタント派のうちかなりの部分のキリスト教は、このような神が地にやって来て、その一部を天(神の御座)とするということを案外軽視してきたかもしれない。将に、出エジプトのあとイスラエル人が放浪中の間、会見の天幕は、神の御座であり続け、天が地において現れていた場所のように思うである。

    古代語文献を現代日本語で読んで理解できるか?

     現代日本語で読める古代語文献は数限りない。しかし、古代語で書かれたものを書いた問う人である古代語著述家の意図を正確に把握できるかどうかは別の問題であると思う。理解のずれが何重にも生じやすい、と思うのだ。日本語翻訳の際のずれ、日本語翻訳を読む現代日本人の受け取り手の理解のずれ、意味のずれ、古代人の世界観のずれ、・・・があると思うのだ。

     特に、聖書関連では、パンや、天やパラダイス理解に関して、そして、神理解に関して、かなりの誤解があると思っている。古代語において、その語の古代人が持っていたイメージを正確に我々はもっているだろうか。
     こうしたこと(引用者註 地と天の旧新約聖書における意味が現在我々が使っている語と違うニュアンスを差していること)を明確にしたうえで、次の基本的な問いにしっかりと向き合うことができる。即ち、天と地、神の場と私たちの場はたがいにどのようにかかわるのだろうか。(同書 p.88)
     われわれは、ステパノが死去する前に言った次の言葉の意味をどの程度、理解しているだろうか。
    【口語訳聖書】使徒行伝
     7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
     7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
     この時、ステパノにとって、天と地が一つにつながるという経験をしたのではないだろうか。あるいは、パウロの次の経験を我々は古代語使用者であったパウロの意味できちんと理解しているだろうか。
    【口語訳聖書】使徒行伝
    9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
     9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
     9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
     9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」
     まさしく、この時、パウロだけが天と地が一つにつながる経験をしたのではないだろうか。もちろん、これはパウロの妄想だ、とおっしゃる方もおられよう。それはそうかもしれない。しかし、現代人と古代人の感性は違うし、古代語で語られた語の意味を、現代語に訳すとこうなるから、こうだ、とする様な非常に荒っぽい議論は、大きな過誤を含むのではないか、と思うのだが、違うかなぁ。

     さらに言えば、日本の古典語である、古典を素読できたり、枕草子や源氏物語を書き手が主張したいとおりにすらすら読めたり、その意味が完全にわかるのであれば、そもそも、中学や高校で古典の授業や入試で(日本語の)古典の科目などないはずだと思うが、違うかなぁ。それ以上に、日本語翻訳されたとはいえ、古代ヘブライ語とコイネーギリシア語で表現された世界はすぐにそして簡単にはわからないのではないか、と思うのだが、違うかなぁ。

     まだまだ続く




    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-05-30)
    コメント:お勧めしています。

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