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2015.08.17 Monday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その7

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     今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章「社会的排除と福音」から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

    依存と自立
     木原さんは依存と自立という項で、次のように書いておられる。この後から紹介するが、依存症等からの自立を阻害する要因として、「もの」・「組織」・「人間関係」を上げて居られる。非常に印象的である。以下では、まず第1の「もの」から紹介したい。
     ところで依存症という病気があるのを知っているであろうか。人があるものに依存し、もし、それがないと生きられないという病である。アルコール依存症などがその一例である。(中略)依存症とまで言えなくて も、人間が頼ってしまって、結局、自立を阻害してしまう代表的なものが、少なくとも三つある。
     一つは「もの」。例えば金銀。金銀の授与も、与える側、もらう側に主体的な関係や意味をなくしてしまうと、依存関係に陥ってしまう。もちろん金銀は必要不可欠であり、大切なものであることは言うまでもない。(p.100)
     まず、確かに、謹厳や貯金総額だけではなく、ぬいぐるみや毛布など、人間は様々なものへの依存傾向はある。


    小さいころに依存していたぬいぐるみが喋ってしまった、という設定のTED
    このクマがおっさんなこと大爆笑である。



    The Peanutsの登場人物の一人 ライナス

    下記で紹介する『スヌーピーたちの聖書の話』の中にも、人間の弱さの象徴としてこのライナスの抱え込んでいる毛布についての言及がある。ナウエンのWith Open Handsではないが、我々は、金や銀(コイン)をライナスが毛布を握りしめるように、しっかりと握りしめ、わずかばかりのコインを手の汗で濡らしながらも、神の前に手を開いて、神の助けを求めない存在であるのかもしれない。

     無論、近代の資本主義社会(中国の共産主義社会においても)では、資金やお金は大事である。ただ、それに支配され、使われるのではなく、それを使いこなす技術が必要なのであるのだが、そこらの混乱が多くみられるというのが実に残念である。この辺りの事をお考えになりたい方は、『お金と信仰』という高橋秀典さんの書籍をお奨めする。

    組織への過度の依存
     人間は、組織への依存を生み出しやすい存在である。以下で木原さんご指摘のように会社人間もそうだし、型が気に依存する人々もいる。ヨーロッパではナチスドイツへ依存した人々もいた。あるいは、教会に依存してしまう人々も少なくはない。カルト化した教会に依存すると、ろくなことが起きない。
      二つ目は「組織」。組織は我々には不可欠であるし、それを否定できる人は誰もいない。しかし「会社人間」に代表されるように、これも人の組織の関係が主従逆転となると、依存関係を生み出す可能性を帯びて入る。形式上それに同意して組織を機能させる事は必要であるが、手段と目的が転じ、個人の主体的な意思を阻害してしまうまでになると、いわゆる会社人間が形成される。滅私奉公の文化をもつ日本社会は、こういう状況を産み出す温床が多分にある。(同書 p.101)
     何にせよ、手段と目的の逆転というのは、起きやすい。とりわけ、これまで工藤さんの本の紹介記事の工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10 でご紹介したように思考や思索が停止した状態でそれが起きてしまいやすいと思う。そして、挙句の果てに思考や思惟が停止すると、もうそれは、機械的に突進していくハーメルンの笛吹き男状態、奈落に向かってまっしぐら、となってしまう。


    ハーメルンの笛吹き男

     結構、会社人間の方々が退職すると大変なのである。会社での最終ランク(職位)にこだわったり、元々の会社の社格にこだわったりしておられ、「そんなの関係ねぇ」のおばさんたちがメインメンバーである地域社会で浮きまくりんぐになったり、教会に来て役員になりたがったり、なったらなったで、いろいろと困ったことを起こしてくださる困ったチャンになられる方も案外少なくないことが、このブログ記事の一つとして紹介した、工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その9 でも工藤さんは書いておられる。

     なに、教会に、会社を退職された方が来てもらっては困る、と言っているのではない。教会とは、そういう社会のランクや社格といった様なものとは本来無縁のものであると思う。大体、パウロは、次のようにガラテヤ書の中で
    【口語訳聖書】ガラテヤ
     3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
    ピリピ書には次のようにある。
    【口語訳聖書】ピリピ
     3:4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
     3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
     3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
     3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
     しかし、数日の前の敗戦記念日(日本では終戦記念日と称する)に思ったことだが、結局日本国という組織を誇りとし、日本国という組織に頼った結果が、1945年以前は国威発揚であり、誇りになり、豊かさであったかもしれないが、1945年に結果的に敗戦という結果を突きつけられるということではないかと思うし、その組織に載らない、ハーメルンの笛吹き男に踊らない人々に1945年以前は「非国民」というラベルを張ったのではないかと思うのである。

     その意味で、われらは神につながっているという点においてのみ、教会を形成しうるというその中心的な概念をもう一度考えたほうがよいのかもしれない。

    霊性を見失う教会?

     個人的には、文章化しにくく、また、理解しにくいとはいえ、この霊性というのは極めて重要であると思っている。しかし、霊性が人間のうちにあるが故の問題もあると思う。つまり、慣習化したり、形骸化してしまう危険性である。霊性のための組織が、組織に過度に依存し、霊性を見失うこともないわけではないようである。この辺りの事に関して、木原さんは次のようにお書きである。
      最近、スピリチュアリティ研究等の議論では、神との関係や人生の意味探究などを「霊性」と定義し、それを維持し体系だてる組織の総体を宗教と呼んでいる。無論、霊性を生み出し、保つ上で宗教は不可欠である。しかし、歴史的に見て「宗教」はそれ自体が目的になり、本来の目的を離れて巨大化し、やがて習慣的から惰性的になり、そして、形骸化、世俗化してしまうということが、これまで幾多の宗教・教団の中でもあった。個人が「組織」だけに縛られて、「霊的」意味を見いだせなくなったら、危険信号である。(同書 P.101−102)
     個人的に教団を形成することに関して否定的なキリスト者集団の隅っこにいるが、近年のキリスト教界における暴走(カルト化問題や国粋化問題等)を考えていると、こういうのの防止においては教団の存在という一定の役割もあるかもしれないが、特定の教団に所属し続けながら、教団からの意見に耳を傾けない教会もあるらしいから、その効果というのは限定的かもしれない。しかし、木原さんがご指摘のように、教会等組織に縛られるというのは、イエスがその出身地ナザレで開いたイザヤ書の引用
    【口語訳聖書】 ルカによる福音書
    4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
    とされているイエスの福音が、解放であったことから考えると、ろくでもないことのように思うのは、私だけかもしれない。

     霊性に関しては、N.T.ライト先輩も『クリスチャンであるとは』で1章を割いてご紹介して居られる。この本もお勧めである。

    人間関係への依存

     人間関係は人間であること、キリスト者であることに関して、極めて重要な要素をもっていることは、先に紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』で示して居られる。その人間関係が依存に行きかねない要素をもっていることを木原さんは次のように書いておられる。
     三つ目が、意外かもしれないが、「人間関係」そのものである。この依存関係は直接的であり、実に強烈である。人間への依存で、話題になっている恋愛依存・生依存等以外に、最近注目されているのが共依存である。あまり聞きなれない言葉かもしれないが、アルコール依存症などで、その依存症の夫を懸命にケアする妻が、実は依存する夫を助けることと行為自体に依存してしまっているという、皮肉で奇妙な依存関係を言う。(同書 p.102)
     御自身、あまりに真面目、あまりにストイックであるがあまり、自死された桂氏雀師匠という落語家が居られるが、その桂氏雀師匠が、生前良く言っておられたことの中に「私が居なければ・・・ということは世の中にはほとんどないんで御座います。たいがいの場合は、私がいなくても大抵のことは何とかなるもんで御座います。どないんならんことはほとんどないので御座います」と言って居られたことを思い出すが、ひどい場合は、Münchausen syndrome と呼ばれる症状になったり、木原さんが御指摘のような依存関係になったり、ストーカー事件を起こしたりという問題行動になることがある。その意味で、境界線を引く、ということが案外大事なのである。

    神に委ね自立を促す必要性

     案外難しいのは、子離れ、学生離れである。というのは、ある面、手をかけて、一生懸命育てた、という意識があればある程、その成長を喜び、手放ししてやればいいものを、ついそこからのメリットの享受を求めたりして、手放せない、ということが多いとも思う。そのあたりの事に関して、次のように木原さんは書いておられる。
      パウロも、絶妙な言葉を残している。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Iコリント3:6)。これこそ、教育、福祉の基本原理だと思う。「私が成長させてあげている」のだ、等と考えていると、学生や子供たちやクライエントは、結局いつまでたっても教師やカウンセラーに依存的になり、本当の自立ができない。(同書 p.104)
     この辺りの手を話すのに、効果的な手法の一つに、物理的に距離をとるという方法がある。物理的な距離が直接的な関与の機械を防止するのである。個人的にも学生との関係では、学生が卒業してくれるので、目が届く範囲にいないことで、適切な距離が取れるし、日本ではあまりそういう対応がない場合もあるらしいが、成人したら、独立して家を構えるという対応がある。アメリカやイギリスあたりだと、25歳を過ぎて親と同居とかしているとそれだけで疑念の目を向けられることもかなりの確率で経験するところではある。以下の動画で示すように、現在のアメリカでも、経済的な不振の故とはいえ、「3割以上の若い世代が親と同居しているなんて…」という論調で議論がなされているほど、子供の自立というのは、聖書における「それで人はその父と母を離れて」ということは案外今だに文化的なものとして定着しているのである。この辺り、日本にはない文化的側面である。


    ヤングアダルトな男性がニート化し親との同居者が多いことに驚く
    FOXニュースのニュース動画

     ところで、日本の家庭は、現在もなお基本的に母系世帯である。母系における母親の地位を父親が簒奪した疑似父性系世帯が理想化されているが、万葉集や、源氏物語などの古代の物語文学にも表れているように、基本母系家族が理想であり、それを続けてきた。父性を重視している「フリ」をし始めたのは、武家政権での儒学の影響が強くなる江戸期以降であり、一般世帯にそれが普及し始めたのは、明治期の天皇制とも相まって、その武家的な世界観が広く普及されて以降であると個人的には、思っている。産業化社会が日本の社会モデルにされる以前から、日本の家庭における父親不在は、かなり明確であるうえに、実質的には母性原理が家庭の原則的な駆動論理として君臨していると思う。その意味で実質的な母性原理の上に外形的な父性原理でコーティングされているように思うのだ。

     つまり、本音と建前の構造があり、本音(母性原理)で行くのかと思いきや、建前(父性原理)が出、建前(父性原理)で行くのかと思いきや、今度は本音(母性原理)が出るという状況があると思う。社会制度的には父性原理とみえるものを支配論理である、このような社会構造、人間の文化的原則が2重化している点で、日本の家族は非常に複雑なひずみを抱えて居り、日本のキリスト者のうちのある部分には、その現実で観測される家族の中のひずみが聖書理解に影響を及ぼしている部分があるかもしれない。

    現代の福祉の核にあるエンパワメント

     エンパワメントという言葉がある。個人が主権をもって、決定できるという側面を強調した語である。この概念が主張されるようになったのは、実はかなり最近の事である。それまでは行政が丸抱えする様な福祉が言われてきたのである。
     今日、社会福祉の援助では、このような事(引用者註 自立するための能力を付与すること)を専門用語でエンパワメントと読んでいる。それは、援助する側に頼るのではなく、仮にその支えがあっても援助される側自身が自らパワーをもらって、つまり力を付与されて(エンパワーされて)、主体的に立つことを意味する。(同書 p.104)
     なぜ、従来、エンパワーメントではなく、丸抱え型の福祉が模索されたかというと、その背景は冷戦構造にある。冷戦期には、共産主義とのシステム間競争として宇宙開発競争から経済システム、そして福祉の分野まで様々な分野での優劣が、資本主義的システムと共産主義システムとの間で争われ、共産主義システムが政府による支援というスタイルをとったため、18世紀から19世紀の英国を中心とした西洋社会での産業革命の結果発生した社会的悲惨(孤児の増加、都市の生活環境の劣化など)を改善するために、国家の関与が求められたということに加え、システム間競争における福祉分野での競争でも優位性があることを示す為に、国家が国民に対する父親的存在として扶助するという「大きな政府」が模索されていたこと、優生保護法に見られるような社会の衛生思想に基づくサニタリゼイション(不都合なことがない振りをする、させる)が進んだ結果、国家への依存が強められた側面がある。しかし、それは、人間を無視するという対応であったのである。

     しかし、1980年代以降の冷戦構造の終焉もあり、レーガノミクスに見られるように社会全体が小さな政府へと動いていくなか、個人と国家、福祉と国家とのかかわりも変化を遂げ、国家が何でもするのではなく、個人に主権を移し、参与を促す方向へと動いており、それが最近で言う、New Public Managementという語に代表され、「新しい公共」と称されている。ところで、個が主体的に公共にかかわっていく在り方を中心として社会を形成していく多元的な世界への移行が進められているのだが、現在の60歳以上、とりわけ70歳以上の方々のご発言(テレビの街頭インタビューで見られれる「政府は何をしているんだ」という発言)などを見る限り、社会の変化とは関係なく、未だにイデオロギー対立時代の国家、大きな国家を目指しているようなご発言に思えてかなわない。

     これだけの財政赤字を抱える国家としては、「国民の皆さん、もう国家に頼るのはおやめくだされ、ひぇ~~~」と事務方(行政官)としてはとうの昔に悲鳴を上げているのだが、その理解は国民の皆様にはないようで、年金増やせだの、あれもしろ、これもしろ、と財源がない中で「どうしろとおっしゃるので?」と涙目で言いたくなっている、事務方の嘆き節が聞こえそうである。

     まだまだ、続く。




    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    ロバート・L. ショート
    講談社
    ---
    (1999-11)
    コメント:よい。入手できないのが残念

    評価:
    Array
    Ave Maria Press
    ---
    (2006-04-01)
    コメント:非常に良い

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