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2015.08.29 Saturday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その8

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     今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章「社会的排除と福音」から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

    ナザレのイエスの名
     美しの門の続きである。前回の投稿では、人間が依存に陥りかねないということについて触れた。この美しの門のところにいた乞食の前にペトロが指し示したものについて、木原さんは次のように書いておられる。
     真にエンパワーされて自立するためにも、頼るべきものは何かという核心に迫る必要がある。3つの陥りやすい依存について触れたが、ペテロが示した「私にあるもの」は、通常の「もの」とはちがって、「ナザレのイエス・キリストの名」だった。

     ナザレとは、イエスが育った町の名であるが、これが歴史上(地理上)の具体的なものであることが大切である。それは、観念論ではなく、実体のあるものである。神が神である限り、人間はそれ自体として実感するのが難しいが、神が肉を纏った人間の姿(身体)として歴史上に登場することによって、我々は神が初めてわかると実感できるのである。
     ナザレから他に判ることは、それは、弱さの根本であるということである。(中略)とりわけ、「ナザレから何の善いものが出るであろう」と一種差別されていたことを示す言葉が新約聖書に記録されているように(ヨハネ1:46)、周辺の土地であったようである。(中略)ナザレという響きには何か侮蔑したかのようなものがあったようである。
     ナザレは「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)イエスの象徴であった。それは先述した人間の住む宿屋ではなく飼い葉おけで生まれたイエス、「枕するところもない」イエスの「弱さ」の根源そのものを象徴する言葉であったであろうと思われるからである。それは底辺であえぐ者たち、社会の終焉で嘆く者たち、疎外され蔑まれている人たちに、真の意味でコンパッション(共感共苦)できる鍵となる言葉、それが「ナザレ」であったからである。(「弱さ」の向こうにあるもの pp.105−106)
     ここで、重要なのは、名前が持つ個別性と具体性であると思うのだ。地理学関係をやっていると、個別の地点識別子として、緯度、経度とかの識別子の体系として数次の体系を使うことが多い。ところで、緯度経度であれば、まだ理解できる方は多いであろうが、日本平面直角座標系とか、普通の人にはわけわからん識別子の体系を使うこともあるし、最近では、ジオタグという技術もないわけではない。要するに地点特定の方法としては、どこかを起点とする数字による方法を使うことが多いのである。

     個別性といえば、農家さんとお付き合いするようになって感じることだが、場所を特定する方法としての農家さんのジオタグの方法は、あそこの○○という工場の角を曲がって、川上に上がって3枚目の田んぼ、というタグ付け方法なのである。この方法は、大変困ることが多い。まぁ、田んぼ自体には、番地表示もなければ、地域名の表示すらないのである。しかし、そうであっても、農家の皆さんは、あそこの田んぼはコンバインが沈むとか、水はけが悪いだの、田んぼ1枚1枚に名前がついている。



    手前が山田錦 奥側がおそらくキヌヒカリ

    機械工場でも、産業用ロボットや製造機器に、女性名をつけることは少なくない、らしい。

    人格と名前

     個人的に、名前というのは識別子でしかない、と思っているので、別にどうでもいいとは思っている。しかし、そうでないという主張はある。それも理解できなくないが。
     スイスの医師ポール・トゥルニエ(Tournier, Paul)は「名前はいのち」であるという。確かに強制収容所では、名前ではなく、敢えて番号によって人々を識別した。これは相手を人格化させないための巧妙な方法である。(pp.106−107)
     番号を使った非人格化はナチスの強制収容所の発明ではなく、ヨーロッパでの監獄での習慣であると思う。刑務所に関する小説や書籍にはいくつかあるが、その中での代表的なものを下にいくつかあげておく。中でも、加賀 乙彦先生の死刑囚の記録は、死刑制度を考えるという意味でも、極めて重要な書籍の一つであると思う。一読をお勧めしておく。

     そもそも、刑務所や強制収容所は、そもそも人権を剥奪するということが刑罰の一つであるという側面もあるが、日本の刑務所はその中でも人権への配慮がないことで世界的に有名であるらしい。特に一番問題なのは、留置場での対応や取り調べ中の人権保護が十分でないことである。アメリカだと、ミランダ条項というのがあり、
    1. You have the right to remain silent.(あなたには黙秘権がある。)
    2. Anything you say can and will be used against you in a court of law. (供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる。)
    3. You have the right to have an attorney present during questioning.(あなたは弁護士の同席を求める権利がある。)
    4. If you cannot afford an attorney, one will be provided for you.(もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、弁護人を提供する。)
    ということをいうのである。この辺、疑わしきは犯人説とする傾向が、江戸以来1950年代(いや、現代もという傾向はある)位まで続いた我が国と、合理的疑い(Reasonable Doubt)があると、判断を保留する習慣が強い国とは大分違うのだ。疑わしきは罰せず、とは言うが、それは単に鼻で生きするものである人間が完全に判断しえないという立場から、判断を保留するに過ぎないのだ。

     名前といえば、個人的には、改姓、改名が印象深い。アメリカの場合、割と名前が呼びにくいから、という理由や別に理由を言わなくても比較的簡単に改名ができる州がある。たいがいの州ではそう難しい話ではない。確かにスカンジナビア系の名前や、ギリシア系の名前は読みにくいのだ。あとは、愛称で呼びやすくする手はあるけれども。個人的には母音の多い国の言語での名前であるので、アメリカ人には発音が難しかった経験もある。そのことから、外国人には、名前の一部をとって、愛称を提示することにしている。

     アメリカで大学院の講義をしていたころに、共同で講義をもった教員の皆さんの打ち合わせの時に、アルファベット表記された名前でも、非常に呼びにくい名前の中欧系の御家系の背景をもつ方らしい学生がいた。その学生の名前を間違えないようにしないと、という努力をしているのを見て、あぁ、この人たちの精神性というのは、人格と名前がついているってのは、こういうことなんだ、と思ったことがある。

     ユダヤ的な名前の由来には非常に面白いものがある。有名な例は、ナバルの例である。
    【口語訳聖書】 サムエル記 上
     25:25 わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。
    となっている。ナバル(נבל)とは萎れた、とかかれたといった様なものであり、どうしようもないほど、無作法という言葉ではないか、という意味と理解できなくはないらしい。大学時代のオリエント史を教えてくださった池田裕先生によれば、結構こういう不吉な名前がついたユダヤ人は多いらしい。要するにそういう状態にならないように、あるいは病気にならないようにするため、尚、池田裕先生の御著書に「わが名はベン・オニ」というベニアミンの名前の由来をもとに書かれた非常に印象深い本がある。その関係で考えれば、以下の木原さんの記述は非常によくわかるかもしれない。
    名前というのは記号ではなく、人との関係性の中で意味をおぼさせるものであり、人格の宿る所なのだろう。そうすると、ここでいう「ナザレのイエスの名」とは、イエスの人格、その本体そのものであり、それによってあなたは立ち上がりなさい、というメッセージになる。(同書 p.107)
    つまり、「ナザレのイエスの名によって」ということが人格、本体あるいは実体を指し示すとすれば、ナザレのイエスの名と人格的な関係、すなわち「知る」という関係に入るということなのだと思う。在る面それは、単に「対象としてイエスを認識する、識別する」という意味ではなく、J.I.パッカー先輩が、Knowing God(『神について』)でお書きになられたように、人格的な交流があり、一体となるという意味を含むのであると思う。ここで、シモンは、シモン・ペテロにおいて宣言したわけではなく、ナザレのイエスにおいて宣言したという点は少し着目して良いかもしれない。

    包括者としてのナザレのイエス
     ここで、木原さんは「イエスは排除ではなく包摂をこころみた」とお書きになっている意味は案外重要であるし、実はこれがローマの政治制度とも深い関係に在ると思うのだ。
    ペテロにあったもの、それはペテロだけがひそかに持っている独占物や秘技ではなかった。当時はユダヤ人だけが神の選びの対象であったと考えられていたが、聖書によれば、ナザレのイエスという名は万民に及ぶものであった。「すべての人を照らすまことの光」とあるように、すべてを包むものであり、排除の論理ではなく社会的包摂の論理である。とりわけ、悩めるもの、自ら立ち上がることすらできないもの、絶望するもの、苦悩するもの、そこに光を与える方、これがナザレのイエスの名なのである。(p.108)
    これに関して言うと、次のような記述がある。
    【口語訳聖書】マルコによる福音書
    9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
     9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
     9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
     9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
     9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
     ここで、ナザレのイエスが行っていることは、キリストに反さないもの、キリストにつくもの、ナザレのイエスにつくものは、幅広く神の仲間、同僚であると言っているように思うのである。案外ことの事は大事かもしれない。

     我々は、他のキリスト者が自分の行動パターンや価値基準とちょっと違うからと言って、それをもとにすぐ排除するものであるが、イエスはそのような排除を原則としなかったということがこのペテロの言明にも、またマルコ9章のイエスの言明にも表れている様な気がしてならない。

     共和制から帝政初期ごろまでは、ローマが領土的に拡大したこともあったという事もあろうが、自らが征服した民族を排除したり、根絶するのではなく、包括して仲間(クライエントとその後見人)関係にしていったようである。これは、ローマ帝国の安定のために非常に極めて有効に機能した様である。そして、その包括性は、ローマカトリック教会には一部にせよ、引き継がれているようである。しかし、プロテスタント各派自ら包括の論理に納得してこなかった部分があるように思う。その結果、それぞれの教派が、基本的には多くの共通項を持ちながらも、それぞれ独自の部分にこだわった聖書理解に立ち、「我らこそ正統的なキリスト教である」という構造があったと思う。その結果、キリスト教全体に対する理解がない多くの日本人に対してそれぞれのキリスト教のグループは、それぞれが、「我らこそ正統である」と一種の自己主張として繰り返し主張して来たと思うのである。

     もちろん、包括に伴う問題がないわけではない。小異を捨て、大同に付くとは言いやすいが過去の歴史があり、なかなかそれも難しいのも事実であるし、戦争時期に日本キリスト教団を政府に促されながら形成したり、教理的に越えがたい壁があったりとか、教理の違いが多いキリスト教界において、エキュメニカル運動には乗り越えるのが困難な大きな壁があることも事実である。

    まだまだ続く



    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:絶賛ご紹介中である。

    評価:
    吉村 昭
    新潮社
    ¥ 724
    (1986-12-23)
    コメント:昭和の頃に脱獄した囚人の根性をかけた脱獄の歴史と刑務官との関係を描いた作品

    評価:
    加賀 乙彦
    中央公論新社
    ¥ 734
    (1980-01-23)
    コメント:案外知ることのない死刑囚の状況に関して医務官として勤務した経験に基づいた本

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