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2015.09.05 Saturday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9

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     本日も引き続き、『「弱さ」の向こうにあるもの』の9章、「高齢者と福音」の中からご紹介していきたい。

    認知とは何か?
     この9章の冒頭に、イギリスの認知症の老婦人が書いた詩が紹介されている。非常に印象的な死であるので、是非、この本を手に取っていただいて、読んでいただけたら嬉しいと思う。認知症の老人であっても、その認知のずれは部分的であり、その人全体が認知のずれにあるかのような単純化した他者のある人格的存在への理解が、認知症をもつ人々を苦しめていることを実にうまく描いた詩である。

     我々は若ければ、認知は正常(これまた、問題のある語であるが)と考えがちであるが、若くても、認知に問題のある人は案外多い。それは、前回の記事 情報の非対称性と認知の非対称性 教会を巡る見えないカベ(1) でお示ししたとおりである。ミーちゃんはーちゃんは、その認知が歪んでいる可能性が大きいこと位は知っている。

     個人的には、カーナビゲーションシステムは利用しないので、何とも言えないが、人が使っているのを見ると、基本、カーナビゲーションシステムは認知症であると思う。なんで、認知症のカーナビゲーションに言われにゃならんのかとは思う。カーナビメーカーさんには申し訳ないが。それでも、最近は随分ましになってきたが。




     ところで、認知に関して言えば、この記事を書いているミーちゃんはーちゃんにして、懸垂曲線のシンプルな数式を見て、それが美しいと思うミーちゃんはーちゃんの様な認知は、どっか歪んでいるとは思っているが、しかしながら、個人的には認知が歪んでいない人はいないと思っている。

     余談に行きすぎた。そして、この引用された認知症患者が残した詩について、木原さんは次のようにお書きである。
     この詩は、意図せずして知らず知らずに若者世代が高齢者の思いを誤解していることを暗示している。また同時にケアを担う専門家集団ですら抱いている認知症高齢者に対する偏見や無理解も示しており、この点においては自戒をこめて反省を迫られるところである。このような中では、高齢者がその置かれている現代社会において安寧と長寿を願うことがいかに難しいのかという実態も示している。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.126)
     とお書きであるが、よく考えてみれば、現代は若者も、年寄りも、また中年も、子供も生きにくい時代ではないか、と思う。しかし、それはとりもなおさず、どの時代にあっても、若者も、年寄りも、中年も、子供も、生きやすい時代はあったのだろうか、という疑問につながる。個人的には、そんな誰かにとって生きやすい時代というものはなかったのではないか、ということを確信している。それぞれの人が、それぞれの制約の中で、何らかの苦悩や困難を抱えながら、どの時代にあって生きていったのではないかと思うのである。現代は高齢化時代であるが、そこまで高齢化してない時には、人は病気で死んだのである。治療の手を施されることなく。それを幸せと言えるか、と言われたら、それほど単純ではないとは思うのだが。

    永遠に若さを求める社会の中で
     個人的に、生きることは老いることであり、生きることは病と死に直面することであると思っている。基本、エントロピー増大の法則は物理的な現象を支配している以上、ドラえもんでもいない限り、それに支配されるのである。しかし、人間はエントロピー増大の法則というしごく単純な原理を拒否しているように思うのである。この辺りの事について、木原さんは次のようにお書きである。
     その証拠に、日本では「早くお迎えが来てほしい」と本気で願っている高齢者が以下に多いことか。確かに「老い」とは、「生老病死」としてかつてブッダが述べた「四苦」の一つである。仏陀によると、「老い」とは「生きる」ことそのものと同様に、人には避けることのできない「苦」であるというのである。その限りにおいては、人類は古代より、この課題とと常に向き合ってきたが、今もそれに対する有効な答えを見いだせていないということである。(同書 p.126)
     要するに、物理現象の世界の中にとらわれている我等は、エントロピー増大の法則に物理的に支配されざるを得ないのであるが、しかし、聖書の中に、
    【口語訳聖書】伝道者の書
     3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない
    とあるように、人は不幸にして、エントロピーの増大の法則に支配されざる世界、あるいは永遠の世界、永遠に生きる世界(神の世界)とかかわる存在として作られているために、物理学的にエントロピー増大の法則に支配されるものの、霊的にはエントロピー増大の法則に支配されない世界の存在を知るがために、死や老いという不幸と直面しなければならないのではないか、と思うのである。

     ナウエンは、下記に紹介する 『最大の贈り物ー死と介護についての黙想』という本の中や『闇への道 光への道』の中で、死や老いは手放していくプロセスであると明白に語っている。そして、神と共に生き、神にあって生きる生活のための準備期間としての老いと死をとらえているように思う。これは重要なことではないか、と思うのである。がむしゃらに、自分自身によって生きる生活から、他者の手の中に委ねて、他者の手において生きる生活へと変容するための老年期ということは非常に重要であると思うのである。ある面、われらは、ペテロにイエスが言われた生き方と同じ道をたどるのではないか、と思うのである。
    【口語訳聖書】ヨハネ
     21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
     21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
     21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
     TVのCMみてれば、白髪染めのコマーシャルだの、コエンザイム飲むと若く見えるとかどうのこうのとか、プラセンタが若く生き生きと見えるとかどうのこうのとかいうCMが流れている。ジジイや婆がジジイやババアであることを許してくれないのがどうも洋の東西を問わず現在の世界の状況であるらしい。そして、ジジイやババアがジジイやババアらしく生きることを許さないのが現在の不幸であると思っている。

     そもそも自然、即ちエントロピー増大の法則に逆らってもしょうがないのに、それに逆らおうとする不幸ということを考えてほしい、とは思うのである。個人的には無駄な努力だと思っているし、年相応に生きるのが、一番自然だし無理がなくてよいと思うのだが。

     そういえば、死と甥を考える映画として、以下の動画の予告編で示す In her shoes(イン・ハー・シューズ)という映画はよく出来ていると思う。もちろん、アベルとカイン、あるいは放蕩息子の兄弟関係を下に引いた兄弟姉妹の確執映画としても楽しめるが、老いをめぐる問題を考えるうえでは、非常によいと思う。それから、もう一本、老いと病の問題に関しては、「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」も非常に印象的である。


    イン・ハー・シューズ 予告編



    セント・オブ・ウーマン 予告編

     この前蒜山のバイブルキャンプ場で参加した研究会というかリトリートの食事の時に何気なしに出た話として教会における老人学、老年学がもっと必要ではないか、というお話しになった(実は、この会自体、かなりのテーマが司牧の高齢化とそれに伴う問題への対応というテーマに期せずしてなってしまったのであるが 深刻すぎて文章化できそうにない)。これまで、日本のキリスト教会は、若者や中高年層が中心的役割を占めてきたし、そのことへの対応のノウハウを蓄積して、さぁ、これからだ、と思ったころには、教会から若者はいなくなり、中高年層はいなくなり、みんな高齢化して若者が寄り付かない、少なくとも寄り付きにくい教会になってしまって、NHKで以前放送していた「お達者くらぶ」の様な教会になってしまっているところも少なくはないようである。まさしく年齢によるセグリゲーション(社会分化あるいは分節化)が教会でおきているようなのである。これに関しては、別に稿を改めて書いてみたい。

    カイロスとクロノス
     聖書の中で、時という言葉が出てくるが、日本語ではそれを指す語はほぼひとつしかないため、カイロスとクロノスの持つ意味の違いが認識されないまま語られていることが多いが、この語の意味の違いを十分理解せずに聖書に書いてある時は時だから、とお語りの向きも全くないわけではないようである。この違いは、実は非常に重要であると思うのである。
     聖書で、時を刻む言葉には「カイロス」と「クロノス」という二つがあることを思い出した。
     クロノスは、人間に共通に平等に流れる時間。いわゆる普通に流れるときの事である。それは、時計の刻み(時刻)、一日24時間、1年365日を機械的に、例外なく流れていく。これに対してカイロスは「転機となる重大な時」「永遠の時」「神の(介入する)時」である。それは一瞬一瞬のチャンスを意味づけ、それを刻んでいく。聖書によれば、「福音」とはイエスを通じ、人間の時(クロノス)に神が介入して、永遠の時(カイロス)となったことを示唆する。(同書p.129)
     カイロスを永遠の時、とするのは、ギリシア語にはAeonという語もあるので、ちょっと厳しいかなぁ、と思ったが、神の介在する時、それはカイロスであるとは思う。ちょうど、N.T.ライト先輩の用語を用いれば、天と地が交わるとき、ないしは、天と地がかみ合う時のことではないか、と思うのである。

     例えば、「これは私の愛する子」と天から声がした時は、カイロスであるし、「完了した」とイエスが言い、イエスが息を引き取った時もカイロスである。それをクロノスの側面だけでとらえるとまずいのである。クラッシックなディスペンセイション的世界観の理解では、このクロノスの側面における理解が強く、カイロスの側面が若干弱いのではないかと思う。個人的には、異言とか預言とかの問題は否定的であるが、必ず神が介入する時としてのカイロスは現代においてもあると思っている。

     そして、このカイロス・クロノス理解と高齢者の問題に関してニコデモの例をあげながら、木原さんは次のように書いておられる。
     この最も深刻な高齢者問題に対して、聖書が語る「福音」が示していることは、このカイロスとクロノスの理解であろう。ユダヤ人の指導者ニコデモがイエスを訪ねた時の問答(ヨハネ3章)には、カイロスとクロノスの差異が際立っている。地上の時間(クロノス)しか認めることができなかったニコデモに対して、上から(新しく)与えられる永遠のいのち(カイロス)を説くイエスの対比は興味深い。また、復活したイエスがエマオという村へ向かい弟子達に自らをかくして近づき、語りつつ歩んだあの一瞬などは、まさにカイロスの時であり、永遠の喜びの時である。それを地上で一瞬垣間見ることのできた幸いなものであった。(中略)しかし地上では、あくまで垣間見るだけであって、永続しない。(同書 p.130)
     カイロス、クロノスがどうだこうだ論争というよりも、個人的には、神がちらっとこの地上で私たちに啓示なさる御自身の姿がある。それは聖書の一節を通してであることもあるし、本田哲郎司祭がご指摘のように他の人々と出会うことを通しても起きると思う。しかし、日本の多くのプロテスタント派は、本田司祭の講演会の質疑応答の時(日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想 でご紹介)の元神学校教師で引退牧師の方のご質問に典型的に表れているように、文字や言語で表現されたことに余りにこだわってきたように思うのである。そして、その文字や言語で表現されたことにこだわることに対して、御自身もご高齢である(認知症がちょっと混じっているから、そこは赦せと冗談めかして言いながら)本田司祭は、「そんなケチくさい考えで自分は聖書は読んでない」といい放たれた。将に、『闇への道、光への道』で、ナウエンが指摘した老人だけが持つユーモアさく裂、という感じのご講演であった。認知症がうんぬんは、ちとずるいなぁ、とは思ったが。

    なお、この本に関しては、拙ブログでも

    お勧めの本

    「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。

    でご紹介しているところであるが、何せ入手困難であるのが何よりつらい。

     余談はさておき、高齢の時は、神に対して手放していく、神に委ねて生きていくというときなのである。ちょうどイエスは、その高齢の時は年齢としては迎えなかったが、その最後の数日は、自らメシア(メサイア・キリスト)として、神の権能をもって状況を変えることが出来つつも、そうはされず、他人の手の中にあって生きることを受け止め、そうされたのである。ローマ兵の手にかかり、更に、ローマ兵が与えるものを口にすることしかできず、その全ての権能や栄光を示すものをまとうことなく、その下着まで奪われるという姿で、死に向かわれたのである。自分であることを捨てる、ということを示されたのが十字架の道行であり、十字架の死であり、そして死後の姿である。イエスは、自分の葬儀を演出するというようなアホなことは一切されずに、人の手にゆだねられ、神の手の中にみずからをおかれた時が将にカイロスであった、ということは、高齢者問題を考える上で、非常に重要であると思う。この辺りの事は、ナウエンと読む福音書のイエスの十字架にかかわる付近でよく示されているので、こちらを読まれることをお奨めしたい。




     まだまだ、この連載も続く。


     
    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
    こぐま社
    ---
    (1991-12)
    コメント:この本はめちゃくちゃいい。こぐま社さん、再刷しませんかねぇ。

    評価:
    ヘンリ・J.M. ナウエン
    聖公会出版
    ---
    (2003-04)
    コメント:めちゃよい。再刷希望中

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