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2015.08.01 Saturday

孤独と受容を考える映画を2本

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     なんか本の紹介ばかりをするブログになりかけている(本を紹介しながら、本の内容を適当につまみながら自分の言いたいことを欠くブログになっているという方が正確)ので、ちらっと最近考えたことなどを。

    現代社会における孤独
     先日、関西牧会塾に参加して、現代社会における孤独ということを、ちょっこし考えた。最近、このことが頭に響いている。


    https://www.emaze.com/@AOZFTLFZ/Loneliness から

     その中で、ちょうどこのブログで連載している木原活信著『「弱さ」の向こうにあるもの』でもふれた現代の若者の孤独と承認欲求という問題がちらっと話に出した。例えば、秋葉原の通り魔事件で、通り魔事件の犯行直前に被告人である若者は、ネット上で誰かに振り向いてほしそうな悲痛な叫び声をあげていたこと、それをとらえて晴佐久司祭がある本の中で言及していたことなどを話題として提供した。

    現代社会のコミュニティ
     結局、従来の社会コミュニティ、それは会社のコミュニティであったり、地域コミュニティであったり、地域コミュニティと重なる親族コミュニティであったり、家族コミュニティでの承認が得られなくなると、個人は手近にあるコミュニティの代替物に手を出すことになる。若者にとってはラインであったり、暴走族であったり、フェイスブックであったり、ツィッターであったりするかもしれない。あるいは2チャンネルやその他の掲示板サービスであったり、ニコニコ生放送であったりするかもしれない。別に何でもよくて、人にかまってもらえるところであれば、それを提供するメディアであれば、何でもいいと思うのだ。

    映画グラン・トリノに見る孤独
     その中で、孤独、承認欲求やコミュニティの問題を考える映画として、ちょっと前にはやったグラン・トリノという映画を話題の一つとして提供してみた。クリント・イーストウッドが主演も、監督も、プロデューサーもやった映画である。

     この映画には、いくつかの孤独が重なって出てくる。第1は主人公であるイーストウッド扮する老人の孤独である。ウォルト・コワルスキーというUWAが元気だったころにフォードの自動車工であった人物である。ある面アメリカ自動車産業の盛衰を身を持って経験した人物であるといってよいと思う。その頂点だったころのガソリン棄てながら走る車といってよいグラン・トリノがこの映画の隠しテーマになっている。

     まぁ、御託はその辺にしておいて、この中の孤独には、この映画の中に出てくるモン族という少数民族の青年がアメリカ社会にあこがれつつも、そこに収れんされていかない孤独、また、伝統文化を中心に生きる大家族の中での孤独、また、モン族家庭自体のアメリカ多民族文化であってもその中での地域社会からの浮く形での孤立、司牧として会衆の一人であるウォルト・コワルスキーと向き合おうとするも、心が通じ合えないという断絶を感じている若いカトリックの司祭の孤独、さらに言えば、ギャングと呼ばれる若者集団が2種類出てくるが、群れることで、孤独でないように感じている若者たちの孤独、と孤独がこれでもかこれでもか、とアメリカの現代の風景を背景に描かれていく。


    グラン・トリノの日本語版予告編

    日本型の孤立との対応
     こういう状況を考えると、日本のかなりの部分の人々は、地域コミュニティが、とか、町内会が、とか組織を作って解決したがりそうな気がするが、それは本当に解決になるのだろうか、ということを考えている。恐らく、それは、一時的に解決を生むだろうが、それと同時に解決以上の副作用を生むような気がする。個人的にはなかば強制的な地域コミュニティで、なかば強制的に同じことをやることを強いられるのはご免こうむりたいと思っている。なんか、そういう対応は刑務所みたいだ、と思う。

     例えば、ホームレスの方々を行政が対応する際には、シェルターにホームレスの人々を集めて、規則正しい生活を、というような対応をやるらしいのだが、そもそも自由に生きたくて、孤立を恐れていないが故にホームレスになっている人々がいて、そういう人々は収容されたとしても、すぐにそういう施設から脱出してしまう、というタイプの方もいるらしい。みんな同じというのは平等なようでいて、実はある面の人間性を失わせていることなのかもしれない、ということを思う。

     このあたりのことは、月刊「記録」というウェブジャーナルの 
    ホームレス自らを語る をぜひお読みいただきたい。

    現代社会の多様性と孤独とキリスト教会

     キリスト者はこういう弱者への対応を教会が積極的に動いてなんとかすべき、ということを考えがちだと思う。個人的にはそうだろうか、とも思う。このあたり、案外難しいのである。タイミングというか、属人的な集まっている人の特性が形成する場の問題があり、属人的な組み合わせの問題が生む人間的なダイナミクスの問題があるような気がするのである。

     人が単に教会に集まっただけでは、解決がつかない問題がある、ということをもう少し考えないといけないと思うのだ。例えば、釣り好きが集まる教会の中に一人居ろといわれたら、その教会の中でミーちゃんはーちゃんは半端ない疎外感を感じると思うし、童謡などを歌うのが大好きなご妙齢の方々の中あれば、ミーちゃんはーちゃんの疎外感は半端ないと思う。お付き合いはするけれども。阪神タイガースファンだらけの阪神間の教会の中での隠れ読売ジャイアンツ・ファンはつらいだろう。あるいは高齢者だらけの教会の中で、若者が一人、というのも疎外感が半端ないと思うし、ロシア正教会のような儀式性と典礼を重視する教会の礼拝で1時間過ごせと言われたら、ミーちゃんはーちゃんとしては喜んで、「ほうほう、これはなかなか。あぁ、そういう理解をこう表現しているなのね」と楽しめるが、ヒルソングとかが好きな若者は耐えがたいであろう。

     個人的には、どちらかというとビザンチン様式の典礼が好きである。だからといって、ヒルソング系の皆さんに敵意はない。趣味が違う、というだけの事である。


    ビザンチン様式の美しい礼拝


    ノリノリのHillsong型礼拝

     ところで、共同体が形成されるためには核となる何かが必要である。教会の場合、核はキリスト(ハリストス)であるのだが、その核の周辺のもの(文化と呼んでもよいかもしれない)が案外大きくて、それが教会での人間阻害を起こす要因になるのではないか、と思う。例えば、上記に示した典礼というか礼拝のスタイル、伝統への考え方、聖書理解のあり方、伝道をどう考えるか、どう具体化するかなど、そこらが教会での活動の様々な部分に影響を与えることになる、と思う。

     とりわけ、社会が多様化し、分衆化していく中で、核そのものは不変としても、核周辺の何か、文化であったり、テイストであったり、関心領域)であったりすることがなんであるのか、ということで教会の多様性というものと、教会間の相補性ということを考えることができる時代になったのかもしれない。

    あるお話

     ところで、Wounded Healer(日本語版『傷ついた癒し人』)の本の中で、第2章の冒頭部に近い辺りに、面白いお話が出てくる。それはこんな話である。

     ある所に逃亡犯がやってきた村があり、その村は逃亡犯をかくまった。そして、ある日その村に、その難民の捕縛を目指して軍隊の探索チームがやってきて、「その逃亡犯を出さないと村を焼打ちにし、全滅させる」といいはなった。そこで村人はこの村の司牧にどうすべきかを尋ねた。
     この
    逃亡犯をかくまうか、村人を犠牲にするかの間で悩んだ末、司牧は聖書を開き、考え込んだ。夜を徹して何時間も聖書を読んだ後、司祭の目には、「ひとりの人が民のために死ぬのはよいことだ」という聖書のことばが焼き付いていた。
     そして、この司牧は兵士たちを呼び、逃亡犯の隠れ家を教え、そして、この兵士たちは逃亡犯を殺害した。その後、村人はこの司牧のために感謝の宴を設けた。司牧は単純に喜べず、深い悲しみに打ちのめされ、部屋にこもっていた。その夜、天使が司牧のところを訪れ、「どうしたのかな?」と天使が司牧に尋ねると、司牧は「私は逃亡犯を敵の手に渡してしまいました」と答えた。天使は、「おまいさんは、メシアを敵の手に渡したのが分からなかったのかい?」と尋ねたところ、司牧は「え、そんなこと、わからなかったですよ」と不安げに答えたのであった。すかさず天使は、「おまいさんがね、聖書に鼻突っ込むんじゃなくて、あの若者の目を見てさえいれば、あの若者が誰かが分かったろうに」と言い放ったのであった。
     まぁ、このお話はお話であるので、いかようにも理解が可能である。まぁ、皆さんなりと理解とその解説を作られたらよいと思う。聖書ではないし。
     しかし、このお話は、以下で示すマタイ25章の記述と深い関わらりがあると思う。

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
     25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
     25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
     25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
     25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
     25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
     25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
     25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
     25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
     25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
     25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
     25:46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
     まぁ、どう考えるかは、皆さんの問題であるが、割と教会で孤独の問題があるとかいうと、聖書に何でも解決があると思い込み、”
    食らえ、みことば攻撃”みたいなことをしてしまうのではないだろうか。「教会でやる以上は、聖書を語らないと気が済まない」というお考えをお持ちの人たちもおられるようである。それが悪いとは言わないが、本当にそうだろうか、という問いを考える余裕があってもよいかもしれない。

    ある個人的エピソードから

     これに関しては、面白い個人的エピソードがある。下記で紹介するポウル・ホワイトという人のジャングルドクターの本があるのだが、この話は、キャンプなどですると大人気である。うちの子供が小学生くらいの時まで、自動車で移動中に、子供たちが退屈すると、この話をせがまれて、適当にアレンジした話を何度も話させられたものである。

     あるクリスチャンの子供向けキャンプで、この話をするのが習いになっていた時期がある。幼稚園児以下から大人までを相手にする時間なのでワクワクドキドキのお話を中心にし、割と聖書の引用やかかわりを短くした時があった。おちいさい方がおられたからである。すると、ある参加者から間接的に苦情が来た。聖書の話がなさすぎる、と。

     翌日からは、旧約聖書物語に切り替えたのは無論言うまでもない。子どもさんたちは日曜学校で聞いた同じ話の繰り返しなので、明らかに退屈しておられたが。苦情をおっしゃった方にとっては受けが良かったらしい。どうも現代の日本のキリスト教会というところは、現代日本社会の一部がそうであるように、そういうところがあるらしい。

    映画Up!(カール爺さんの空飛ぶ家)に見る孤独

     この映画には、孤独な老人が二人と孤独な少年が一人出てくる。この映画に関しては、割と初期のころに触れている。こちら 
    Up(カールじいさんの空飛ぶ家)を見てきた である。

     この映画に出てくる孤独な老人の一人は、一人はカール爺さんで、たいして名前を残すこともなく、社会的に記憶されることもなく、貧しくつましい夫婦二人の生活をし(胴も、子供を失ったことが隠喩としてある)、動物園かどこかで他所の子供たちに囲まれて暮らしていたが、結局妻に先立たれ、孤独と怒りにさいなまれている人物である。

     これと好対照を見せるのが、探検家として有名でありながらも、探検と発見に取りつかれ、孤独な生活に陥り、性格が歪んでしまった老探検家である。

     そして、そのカール爺さんのところに訪れるのが、母子家庭で育ったアジア系の少年であり、あるボーイスカウト類似団体のようなところでの評価(バッジにより評価が数量化される)とそこでの帰属と規則に取りつかれ、なぜ、それをするのかを考えずに、その評価にしか関心がない10歳前後の少年である。それらの人々が起こす冒険物語ではあるが、この中に描かれた三者三様の隠れた孤独とその姿というテーマが面白い、と思う。



    カールじいさんの空飛ぶ家の予告編

     世代が同じ高齢者の孤独の質の違い、世代が違うものの孤独の現れ方の違い、こういうことを考えてみると、孤独は三者三様であり、教会は孤独として一括としてみるのではなくて、それぞれの人物なりの対応が求められそうな気がする。一つの方法論で、すべて解決とはいかないように思われる。

    もてなす、受け入れる、でも距離をとる

     今回のWounded Healerの中で、「もてなす」や「迎え入れる」ということが話題になった時に、それは、「正しい方法を聖書から示す」「正解(と思えること)を教える」「人々をある特定の方向に導いていく」ということではなくて、「その人が歩き出せるようになる場所を一時的に提供する」「一時的に安全な場所を提供する」ということではないか、という話になった。この話を聞きながら思ったことがある。それは、奥田知志さんの活動を紹介した
    NHKこころの時代 「この軒の下で」 視聴記」の番組の事であり、奥田さんの軒の下の教会である。様々な人が立ち上がれるように、一時的に場所を提供する働きである。

     その人にずっと付き添う(あるいは付きまとう)でもなく、その方が再び自分の足で立ち上がれるように、そっと場所を貸し出し、その人と向き合ってみるということが求められているということを奥田さんの事例は示しているように思う。その意味で、適当な距離をとり、あまり押しつけがましくしない、伝道の機会だから何をやってもいい、ということではないし、全部まる画替えしないことの大切さを今回、もう一度思ったような気がする。案外大事なことであろうと思う。


     なお、関西牧会塾は9月にも講座が開催される模様である。詳しくは、こちらのサイト 関西牧会塾のサイト からご確認くだされ度。







    評価:
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    Image
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    (2013-11-20)
    コメント:やや難解である印象はあるが、のちの作品につながる重要な線がいくつか見られる。

    評価:
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    Christian Focus Publications
    ---
    (2015-01-19)
    コメント:昔も今も子供たちには大人気

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