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2015.08.10 Monday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その6

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     今日は、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

     本章の冒頭、使徒の働きに出てくる神殿の門のところにいた障害者とペテロたちとの対話を取り上げながら、次のように木原さんはお書きになる。

    周縁に置かれた病者の人々
     ここで、冒頭、木原さんは障害者とペテロの対話の記述から病者たちが周縁に置かれていたことを説明して居られる。
     神殿の境内(宮)ではなく、「門のそば」、つまり門の外に置かれていたということである。当時のユダヤ教の掟では、ある種の傷害や疾病を欠陥、けがれとみなしていたので、その人は「欠陥」のゆえに差別されて、神殿の中には入れなかった。つまり、今日では自明である、人間として当然持つべきあらゆる権利からはずされて生きざるを得なかった。疎外され、差別をされ、生きるために施しを乞わざるを得ない、中心からはずされた「周縁者」であった。(中略)
     これは今日では考えられない状況であるとは言い切れない面がある。今、世界的にも社会福祉の中でテーマになっているのは、社会的排除(Social Exclusion)の社会問題である。障害者、貧困者、特定の民族、ホームレス、マイノリティなど、マジョリティの社会の中で異質と感じれらた者を、意識的か無意識かは別として、社会から仲間外れにして排除してしまうことを言う。この逆を社会的包摂(Social Inclusion)といい、世界的にそのための対策が講じられている。その点で、日本は大きな課題を抱えている。(同書 p.97)


    美しの門でのペテロたち(金銀はないといいつつ、結構服はゴージャス)

     人間が人間として生きることを許さなかった社会としての当時のユダヤ社会がある。しかし、これは当時のユダヤ社会ではない。つい最近まで、ハンセン病患者は、人間としての権利を失っていたことは、ハンセン氏病の治療施設とという名の強制収容所の歴史を少し紐解いてみればわかる。あるいは、日本では精神医療施設の中では、現在でも非人間的な対応があることを、最近のニュースで我々は知ったばかりではないか。




     ヨーロッパでもこの事は度々起きた。ナチスドイツによる障害者の排除と、その排除の思想に基づく優生保護法と呼ばれていた法律(現在では母体保護法と呼ばれているらしい)であり、我が国において人工中絶を実施可能にする法令の体系の基礎である法律である。

     本ブログで紹介している工藤信夫さんによると、世界中どのような社会にあっても統合失調症患者の出現確率は、学歴、職業、収入、民族、地域、文化に関係なく、一定の割合を維持しているという。一種普遍的な存在であるのだが、我々はその普遍的な存在を自分たちと違うということで排除し、そして、それを内包できない形で社会を形成している。所謂、社会のエクストラ・サニタリゼイション(過剰な衛生化)をしているような気がする。つまり、見たくないものは無視できるように社会の仕組みを作り上げて居り、社会参加の権利を奪っているのである。しかし、通常なのか、通常の範囲内なのかの差は、実にごくわずかしかないのであるが。

     ところで、この部分に関しては、少し説明しておく必要があるかもしれない。当時のユダヤ社会では、このような描写や障害者は先祖や、親、本人の罪の結果であるとされていたらしいことが、福音書の記述からわかる。

    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
     9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
     9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
     9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
     9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
     9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」
    という記述や、あるいは
    【口語訳聖書】マルコによる福音書
     2:1 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
     2:2 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。
     2:3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
     2:4 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。
     2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
     2:6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、
     2:7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
     2:8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。
     2:9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
     2:10 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、
     2:11 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
     2:12 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
    という記述のように、罪の問題と疾病の問題は深くイエスが語っていることの中に反映されているようにユダヤ社会で普通におきていたことであったことは覚えておいた方がよいかもしれない。

    立ちあがりと復活
     自立との関連で、立ちあがるという語を上げておられる。
     「立ちあがり」とあるが、これはギリシア語原文では「よみがえる」「目覚める」という言語と同義である。「立ち上がる」といえば、「自ら立つ」、つまり「自立」のことである。先にふれたように、社会福祉の世界では、近年、「自立と尊厳」が法律で明記されるようになり、それらが重要な柱となっていて、自立は最も重要な概念の一つである。ギリシャ語原文からすると、真の自立の原点はまずは「目覚める事」が必要であるのを暗示している。(同書p.99)
     しかし、たちあがる、というと、おじさん世代にとっては、往年のアニメ、機動戦士ガンダムのオープニングを思い出してしまう。


    この曲の2番に、立ちあがれ、というフレーズが出てくる

     実は、この起き上がるという語、イエスの発言の中では、復活という概念と結びついているようである。そのことは、タリタ、クミ(少女よ、起きなさい)とイエスご自身が呼びかけられたマルコの福音書の表現とつながっている。
    【口語訳聖書】マルコによる福音書
     5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
     5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
     5:43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
    この聖書箇所の類似箇所では、こうなっている。
    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     9:23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。
     9:24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。
     9:25 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。
     9:26 そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。
     これらによれば、死後眠っているのであるとイエスは考えられ、その眠りからのおきあがり、すなわち、復活を「起きる」という語で示したようである。ところで、復活後のイエスの第1声は、口語訳聖書と、新改訳聖書と、新共同訳聖書では、次のように記されている。

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

    【新改訳聖書】マタイによる福音書
     28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

    【新共同訳聖書】マタイによる福音書
     28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
    と訳し方は「おはよう」となっていはいるものが多いが、これは、おそらく挨拶としての「おはよう」として声をかけたというのではなく、”復活をおきあがること”と理解しているイエスからすれば「私は復活した」という物言いではなかったか、とミーちゃんはーちゃんは考える。

     しかし、マルコの福音書は、援助と自立と復活と歩きはじめにおける場所を用意すること、そして自立支援の場所をよくあらわしている。ミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事で言えば、プログラムを書いて、処理システムを作り、クライエントが抱えていた問題に対する当面の課題が解決すれば、それで終わりにしがちである。まぁ、クライエントの内部の仕事の進め方まで手出しができないというのもあるからではあるが。しかしそれではシステムは定着しない。システムが定着するために、安定稼働するために、起こしただけではなく、朝ごはんを食べさせ、歩きはじめることができるようにすることが必要かもしれない。この辺途上国支援などでも案外似た様な問題があると、開発経済学の専門家からお聞きしたことがある。
     
     しかし、イエスも復活の前に完全な安息日を過ごされ、休まれたように、立ちあがる前には、誰かの庇護のうちに安息をもつことが必要なのかもしれない。

    まだまだ、この章が続く



    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:絶賛ご紹介して居ります。

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