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2015.08.03 Monday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その5

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     今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

    罪あるものとして愛せない人間同士
     ついこの間の記事でも、人間同士が共同体形成をすることが困難であり、その中核には、共通項というか共通の対象が必要であることをご紹介した。そもそも、無条件に人間が愛し合えるほど、程度よくできていないのであるし、それが集まったものが教会でもあるともミーちゃんはーちゃんとしては思うのだ。今日は短め。
     神がまず愛をモデルとして示したので、それゆえに私たちもまた互いに愛し合うべきだと言うのが、聖書に教える愛の基本姿勢であり、これは新約聖書全体を貫く一貫した教えであると言っていい。つまり、意外に思われるかもしれないが、聖書は生身の人間同士が無前提に「互いに手を取り合って平和を語り合い、愛し合いましょう」と言うほど、人間が善人同志で、相互の愛が実現できるとは語っていない。逆に人間はとことん自己中心的であり、罪人であり、自分ではそうすることができない動物であるという現実を前提にしている。このようなどうすることもできない罪という課題を背負っているが、それゆえに神に助けてもらう必要があるというのが聖書の人間観である。その結果、神から許されて自由にされた人間が、その赦された愛に感謝し、赦された者同士が今度は、「互いに愛し合いなさい」というのが、聖書の言う愛のメッセージである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 pp.78-79)
     人間は、基本的に悪であり、他者としての神も、他者としての人間も、受け入れがたくできているという意味で、欠陥がある、あるいは、罪がある、というのが聖書の人間観であると思う。信仰を持ったくらいで、この罪があるという状況は改善せず、罪のある状態が依然として続くことは、キリスト教の黒歴史を見ていればある程度類推はつくのではないだろうか。所詮、人間は、鼻で息をするものなのである。

     ここで、木原さんは「神に助けてもらう必要がある」とお書きであるが、個人的にこの地上では、人間が神を迎え入れることができない以上、神の助けを完全のかたちで神の支配(神の国)が完全な形で実現していない段階では、受けることができないので、人と愛し合ったり、平和を語れないように思う。どちらかというと、とりあえず、不幸な黒歴史を生み出しつつも、それらの黒歴史は神からすれば容認できない行為であるのだけれども、「しょうがないなぁ」と神に言わせながら、神に容認してもらう、ということのようなきがする。その意味で、神の温情にかけ、そこにすがる、という感じではないか、と思う。

     そもそも、イエスによれば、モーセの律法は、申命記6章のシェマーと呼ばれる部分と、レビ記19章の中からの部分を引用しながら、次のように要約できるといっておられる。なお、レビ記では、あなた方の中にいる在留異国人を愛せ、といっておられる。
    【口語訳聖書】 マルコ福音書
     12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
     12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
     12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
     人間は、罪のある存在である。神を愛せないどころか、人も完全には、愛せないし、赦せないのである。しかし、神の愛は、そんなケチくさい人間の愛とは違い、問題だらけの人間を愛し、それこそ、スプラングニゾマイ(情熱で胃腸がおかしくなるほどの愛情を以てあわれんで)おられるのである。そうして、どうしようもない生を生きる我らに対しての愛を以て、そこでの人間性の回復と、そのどうにもこうにも仕様がない行き方をせざるを得ないとしても、最終的に神の完全な目的が達成されるとき、人間を神が完全な形へと回復させる、つまり、人間が人間して生きるようになるようになるようにするという約束こそが、聖書が語る福音の本質であり、本来、福祉は、すべての人が、人間が人間として生きるようにするということであることを次のように書いておられる。
     イエスの思いと言うのも、迷子になって入る子供を探し回るような切迫感を以て、あるいはそれ以上の桁外れの情熱をもって、今なお失われた人を探している。これこそが、聖書が語る福音の本質であり、それが福祉の源泉である。(p.83)
    第6章 支援すること から
     幼いころの木原さんが、カブトムシの飼育と脱皮の際、あまりにも早く手を出してしまったがために、そのカブトムシがお亡くなりになってしまった経験が支援のタイミングを考える出発点となったというお話が書いてあり、それに引き続いて、次のような印象的な記述がある。
     困っている人が入れば、すぐに助けてやりたい、こう思うのは、福祉専門家でなくても、誰にも共通のものであろう。しかし、そのタイミングをちょっとでも間違えると、相手は依存的になり過ぎたり、自分で立ちあがろうといているのに結果的にいつまっでもそれを出来なくさせてしまう危険性がある。
     先日のブログ投稿 孤独と受容を考える映画を2本 でも書いたが、人間が人間として生きるという姿の回復のために、キリスト教の愛というのは、何でもかんでも抱え込むことのない愛ではなくて、その人がその人らしく生きる準備をするために援助を受ける人の主権と意思を尊重しつつ「もてなし」をすることであり、人間が人間に戻っていくためのスペースを提供することだろうと思う。

     日本人の多くの方々は、大変親切である方が多い。時に、親切すぎて困ることがある為か、CMで一世を風靡した「小さな親切大きなお世話」といいたくなることが多すぎる。あまりに気が回りすぎて、時に息苦しく感じるほどである。しかし、この「大きなお世話」といわれる背景には、気を使いすぎていた結果、他人の主権や、他人の自由意思を奪ってしまって、本人の自由な行動の制約になるからではないか、と思う。

     アメリカに行くと、ほとんど助けてくれないことが多い(個人の自由に生きることがよいとみんなが思っているので、どうぞご自由に、ということがその背景にはどうもある様ではある)のであるが、How can I help you?と声をかけてくれることがある。基本的に相手の意思が重要であり、自分が助けが必要だ、と思っても、相手がそれを望んでいない以上助けないというのが原則である。

     学生のプログラム作成の指導をしていて思うことがあるのだが、プログラム的な発想のない学生につい手を出したくなるのである。も度たも度た、ろくでも書いてないコードを欠いているのを見ると、手出しして、書き直して、ほら、きれいでこれで動くでしょ、とやってみたくなる欲望にかられることが多い。しかし、それではいかんのだ。なぜか、というとそれは生徒の技量での成長を奪ってしまい、彼らの生きる能力を身に着ける機会を奪うからなのである。あるいは、プログラムを作成したり、システム設計をするという面で成功できないとしても、別の面で才能を開花させる可能性があるのであるが、そうであるにもかかわらず、その才能を奪ってしまうからであるのだ。じつは、このプログラム作成の納期が決まっていると、彼らが何とかたどりつくということを待つということ、これが結構難しい。特に締め切りが迫っている中で、待ってられないので、手出しをしてしまうことが多々ある。

     こういうことを考えていると、教会とは、人間が、キリストが存在したこと、ナザレのイエスがキリストであったこと、そのイエスが、今も人間と共に生きようとしていることを週に一度覚えることで、「神と共に生きるという人間の姿」をとる機会を提供するおもてなしをするための場所と人間による集まりであり、そして、人間が神と共に生きる人間であるもてなしを十字架の死の前にイエスが提供され、また、復活後エマオへ向かう道の途中で弟子たちにされた聖書の説明、そして、復活のイエスは自分を泊めろとも言わず、相手の希望に応じて相手の主権と意思を尊重し、一緒に泊まることにし、そのクライマックスで弟子たちにパンを裂き、杯を提供することで、もてなしを提供されたと思う。


    Matthias Stomによるエマオでのもてなし Wikipediaからの借用

     まだまだ続く。 



    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:大変、よろしい、と思います。

    コメント
    ”もてなし”と”お・も・て・な・し”

    相手のことを先ず考え もてなし 行動することは相手の 自分で起き上がる力を目覚めさせる。
    おもてなしは・・ 時におもてなしするほうが満足を得るための道具・・ぽいことありますものね。おもてなしという権力。
    キリスト者がもっとも陥りやすい。
    • Ken
    • 2015.08.05 Wednesday 15:03
    Kenさま

    コメントありがとうございました。

    本文の趣旨を御理解いただき、ありがとうございます。

    >おもてなしは・・ 時におもてなしするほうが満足を得るための道具・・ぽいことありますものね。

    御指摘の通りか、と存じます。満足を得るための道具、というよりかは、自己実現の側面もある場合もあるかもしれません。あるいは、信者獲得のためのツールというのか。

    もうちょっとドーンとかまえた教会が増えたらいいのに、と素朴に思います。

    御指摘の権力云々は、メサイア・コンプレックスとも深く関係しそうですね。

    メサイア・コンプレックスは、こちらをご参照賜り度。
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=457

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.08.07 Friday 03:57
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