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2015.08.05 Wednesday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10

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     本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」から後半についてである。

    自分がキリスト教だと思っているものを
    人はキリスト教と呼ぶ

     このブログでも、何度か紹介してきているが、キリスト教会のありようとは実に多用であり、一つのパターンに収まるものではない。しかし、日本の場合は、キリスト教が少数派であり、地域に多用なキリスト教群が見つからない場合、とりわけ地方部においてはその傾向が強いと思うが、自分が知っているキリスト教だけが、自分が出会ったキリスト教だけがキリスト教と思い込み、キリスト教会という思い込みが生まれやすい。
     今回の以下紹介する部分を読んで、アメリカのキリスト教会の(恐らく1960年代)の雰囲気を改めて感じたのである。
     『教会―なぜそれほどに大切なのか』(引用者註 フィリップ・ヤンシー著)の中に、彼の属していた教派にも人種差別が入り込み、黒人は人間以下で教育不可能であり、「奴隷」の人種となる様に神に呪われた存在であると、彼自身いつも聞かされて育ったと記されている。また、その急派ではマーティン・ルーサー・キング牧師は共産党員と信じられていたという。その上、彼の学んだ神学校では、婚約者であっても週末にしか会えなかったし、スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという。(『真実の福音を求めて』pp.115-116)
     マルチン・ルーサー・キングJR牧師は共産党員説は、時々聞いていたが、それは世俗社会の話で、教会にまで浸透しているとは知らなかった。まぁ、マルチン・ルーサー・キング牧師は属人的な部分ではいろいろな課題を抱えた人物でもあったことはアメリカでは知られているがその存在は大きいのである。


    Rv. Martin Luther King Jr の有名な演説



    それを小学生が暗唱する場面
    (アメリカの小学校ではキング牧師の誕生日周辺で実施する)


    サニタイズされたバージョンの簡単なキング牧師の伝記

     さてさて、まぁ、マッカーシズムの時代でもあるまいし、キング牧師共産党員説は置いておいて、「スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという」罰ゲームには笑ってしまった。読書したから、スカート丈が長くなるわけではなかろうし、読書したからといって、服装の趣味が改まるわけではないだろうに。それでも、それをしないでは気が済まない人々もおられることを考えるとどうなんだろうと思ってしまう。

     確かに、1960年代のツィギーブームのころには、以下の写真に示すようなミニスカートは衝撃的ですらあったのである。なお、このツィギーという方は、英国籍らしい。英国だったからこその衝撃、というのもあったかもしれない。60年代は、ビートルズといい、ツィギーといいファッションや文化の最先端を走っていたのは、確かに英国であった。


    ツィギー嬢(ご存じないお若い方のために)

    救われたら一人前キリスト者?

     しかし、個人的には、回心経験即ち一人前キリスト者という理解があることに関して、工藤さんは次のようにおっしゃっておられる。
     私たちは救いにあずかったからと言って、決してOKなどであるはずがないのだが、どう言う訳か日本のキリスト教界にはキリストの救いにあずかれば即一人前のクリスチャンという妙な図式が出来上がっているような気がする。そして、即伝道、奉仕となる。かくしてそのキリスト教信仰は自己不在のキリスト教信仰となり、人のための福音になっても自分のための福音になっていないという悲劇が起きる。(同書 p.116)
     しかし、ミーちゃんはーちゃんも14歳でバプテスマ受けたら即一人前扱いで、2歳下の信徒さんのお子さんの日曜学校の教師をやらされたという残念な思い出がある。先週まで、同じ日曜学校の生徒が、2階級特進どころか、5階級特進クラスの勢いで、日曜学校の先生をやらされたのである。うまくいくはずもないのだが、まぁ、できると言われて担当したものの、さんざんであった。そのうち、済し崩し的に日曜学校が崩壊していったのは言うまでもない。

     以前究極のOJTと 続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6でご紹介したが、まさにそんな感じであった。

     そもそも、「一人前のクリスチャンというのは存在しえない」というのがミーちゃんはーちゃんの理解であるし、そもそも人間が欠けある存在(罪ある存在)であることを考えると、一人前のクリスチャンという理解そのものがどっかおかしいと思っている。

     ということで、神のためにすべてを棄てた(ふりをする信仰)が良しとされる、自己不在のキリスト教が理想化される中(それは、そもそも人間の諸般のことによる閉じ込めからの開放をご主張されたイエスの主張とは逆方向にあると、思うのだが)、逆にその型にはめるという閉じ込めが起きているのが残念でならないと思うのだ。

    【新改訳改訂第3版】マルコによる福音書
     8:34 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
     8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
     8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
     8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

    という言葉が十分に考えられることなく、日本的なコンテキストで語られ、一種滅私奉公的な理念系で語られることが多いような気がする。そして、他人に自分の十字架を取らせず、教会や他の教会員が与える十字架を取らせる形の悲劇の拡大再生産が続けられているような気がするが、違うだろうか。ここでのイエスの主張をよく読めば、自分の十字架を負うのであって、他人の十字架を負うのではないような気がするのであるが。ここは人間は、自分自身では何も差し出すことができない、という逆説の論理が効いていると思うのであり、イエスの中心性が出ているはずだと思うのだが、どうも、この部分も、イエスのために全部差し出せ(というよりは、教会のために全部差し出せ)という形で語られることがあり、そのようなカルトチックな理解も少なくないように思う。

    思索を忘れたキリスト教
     先日ご紹介した宣教学会の基調講演の内容や、孤独と受容を考える映画を2本 でも書いたように、関西牧会塾に参加して思ったことであるが、苦しみに直面して思索するという傾向が案外日本には薄いように思うし、特に勝利主義的なキリスト教の性質をお持ちのキリスト教のグループでは、キリスト者が苦しむというようなことは、伝道熱心ゆえにサタンから攻撃を受ける(いい匂いのする油撒き作戦すると、退散できるらしいが)以外では信仰熱心さが足らなかったり、聖書を読んでいなかったり、祈りが足らなかったりすると怒られることもあるらしい。実は、苦しみの問題や孤独の問題は、神との見直しのよいきっかけであるし、一人静まることの大切さは、『静まりから生まれるもの』でナウエンも書いているところである。

     あるいは、道徳化した日本のキリスト教(西洋道徳として理解されたキリスト教)の場合でも、行為道徳として定着してきた側面もあるので、安易なパターン化されたキリスト教になってしまい、よりダイナミックな神との関係を思索というか、神と人との間で交わされる問いの中で、聖書と格闘し、イスラエルが神と格闘したかのように格闘することの中で、その信仰は深まりを見せるような気もするが、どうだろうか。
     私たちのキリスト教は案外書物から学ぶ事が多くて、実際の苦しみにある人々から学ぶ事が少ないのではないだろうか。そのためか、そのキリスト教は、表面的な思索の浅いものに陥ってしまう。神が与えてくださった問題がその人を深め、豊かにする代わりに、安易なパターン化したキリスト教に変質してしまうのである。この思索の低下に関して安易なキリスト教への警鐘と思われる文章がある。 
    「ある時期から福音派の教会で強調されるようになったものに、積極思想ないしは、”自分を愛する”という考え方、プレイズに代表される賛美、悪霊との対決があります。それ等はそれぞれ意味があるものであることを否定しませんが、ただ、それに閉口して”思索”が不足して来ているように思えてなりません。その結果、力、数、成功、明るさ等が中心におかれた一種の全体主義がみなぎっているようで、ひそかに恐れと不安のようなものを感じます。
    (中略)
     とにかく、思索を忘れた教会は、表面はともかく聖書的な実質を失いかねません。リバイバルの声も、運動とバランスのとれた思索を伴わないものにならないようにと、心から願うのです。」(野田秀「提言・思索が不足してはいないか」クリスチャン新聞 1993年9月5日号)
     (同書pp.118-119)
     時に立ち止って荒野に退かれたイエスの事を思う。

     次回へと続く。

    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2015-06-05)
    コメント:お勧めしてます。

    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 972
    (2004-09-01)
    コメント:薄い本だが、内容が実によい。

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