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2015.07.29 Wednesday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その9

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    本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」から前半の続きについてである。

    既存教会文化と新任牧師

     既存教会であると、その教会の固有文化というものの影響は大きい。歌う讃美歌の種類から、祈りのパターン、だれが何を担当するかまで、どの家庭集会にどんな信徒がいて、どんな文化ができているかまで、実に細かいところまで文化ができている。まぁ、教会の歴史と共に文化は形成されるので、100年の歴史のある教会は100年かけて形成された教会文化が存在するし、10年ちょっとの教会でも、立派に教会文化というものができている。そこらの事に関しては、工藤先生は、次のようにお書きである。
     ドレッシャー博士はまず、すでに確立された教会に一人の牧師が招かれることは牧師にとって大きな挑戦であるという。つまり確立された教会はまさに「確立されている」のであり、そこに招へいされる牧師は、すでに形成される文化に直面することが予想されているという。
      そしてこまったことに、そこに安住してしまった古い信徒は成長する事を望まず、排他的になる傾向が在ると言う。また、伝道についても真剣に取り組むことはめったにない。つまり、彼らは自分の存在証明であり、自己存在の基盤の様になってしまっている自らの信仰に固執し、変化を拒み、保守的になるというのである (『若い牧師・教会リーダーのための14章』p.95)(『真実の福音を求めて』pp.109-110)
     この、教会文化の問題は、マクグラス先輩の『ポスト・モダン世界のキリスト教 −21世紀における福音の役割』でも指摘されているし、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』のなかでも、F.F.ブルース先輩の記述を引用されながら指摘されている。

    メイド・イン・ジャパンのキリスト教に関する拙ブログの記事
    変容と具体的世界

     ある特定の文化的コンテキスト、ある時期集っていた属人的文化の中で形成された教会文化に固執し、それを変えられないというのは、日本の他の組織でもままみられることである。例えば、企業文化というのもそうであろうし(情報処理システムのコンペでの評価委員になったことが何度かあるが、こちらの要求要件書に対する各社の回答っぷりが違うので、おかしくてしょうがないことがある)、PTAなんかもそうであろうし、小学校や中学校でのクラブ活動で暗黙知として引き継がれる敬語文化なんてものその一つであろう。先輩が始めた(その先輩が生存しているかどうかは別として)ことは地震や火事、あるいは組織の廃止などでもない限りやめられずに、それがどういう合理性や意味を持ってたのか、あるいはどのようなコンテキストで生まれたのか、いいということは一切問われずに、形だけが文化として残るということはままみられるようである。その意義がわからず、形だけ続いていることに対して、「そんなもん、やめたらいいのに」というのは簡単だが、それをやり始めた当人がいる組織の場合はなおさらであるが、居なくても、それをやめるのは案外難しいのである。というのは、それを主張され、はじめた方への批判となりかねないだけでなく、それを他人に強いた人のレゾン・デートル(存在意義)にまで関係しているからである。

     まさに、工藤さんがご指摘のように、「彼らは自分の存在証明であり、自己存在の基盤の様になってしまっている」のである。つまり、既存の教会文化を否定することは、それを維持してきた人の人生や青春そのもの(あるいはそれを言い出した、伝えた宣教師、伝道師などの人々の存在意義)を否定することになるからである。似たようなことは神学や説教の現場でも起きる。「どう考えても、聖書が行っていることはこうなのだが、先人たちの言っていることには課題がある」と、ある人が思ったとする。それをそのままいうと、先人たちに育てられてきた人々からは猛反発を受けるのであり、時に異端、悪魔手先扱いされる。

     まさに、イエスがそういう扱いを受けたし、預言者たちもそのような扱いを受けたのである。実に残念なことであるが、「預言者はつらいよ」である。

     ただ、個人的になぜそうしているのか、ということに関しては、歴史性の由来(つまり、昔からそうなっている、そうなるものと決まっている)という理解だけでは不十分で、何らかの合理性や意味ということは常に考えたほうがよいと思っている事だけは触れておく。

    専制君主制と化した教会?

     その具体例として、工藤さんは次のような事例を紹介しておられる。
     その教会は、農村地帯に大きな力をもつ地主がクリスチャンになって近隣の人を集めた家庭集会から出発したのだが、例にもれず専制君主的なその長の以降にかなっている間は若い牧師は婿養子のように歓待を受けた。しかし、その意向に反すると牧師はすぐに転任を命じられ、何人もの若い牧師が送られては去って行ったという。中には、そ の人物の強い圧力で精神に変調をきたした若い牧師もいれば、牧師夫人もいたという。(同書 p.110)
     しかし、ひどい話である。実は、割と仲良くしていただいている教会におられた牧師の方が、まさにこれに近い対応を受けておられた。どうもこういう教会は多いようである。牧師が長続きしていない教会とういのは、どこか不自然なものがあるのかもしれない。牧師さんの集まりに平信徒風情のミーちゃんはーちゃんが結構顔を出すことが増えたのだが、そこでお聞きするようなことに似たような例があまりに多くて、驚いている。

     以前、水谷さんのブログ記事でも人気記事の一つであった健全牧師シリーズにコメントとして付けたものが取り上げられた記事でもある

    みんなで育てよう健全牧師(場外乱闘編)

    という記事があったが海兵隊のしごきならず、教会設立者のしごきにあってあえなく、使い捨て雑巾よろしく追い出されていった牧師さんがおられるようで。辛いなぁ。

     Facebook上でお付き合いのあるロシア正教会のある司祭の方によれば、このようなこの地主的な存在によってつくられた教会ゆえの違う面での問題をお抱えになっておられる教会もないわけではないようである。例えば、教会敷地の法的登記が個人登記されており、信仰継承がうまくいかないがゆえに、教会の建物の所有権と使用権が問題になるとか、教会敷地に借家が立ってしまっており、建て替えなどの問題に差し障るとか、まぁ、いろいろおありのようである。しかし、こういうのは、精神に変調をきたしかねないとはいえ、まだ、現金が解決する(その現金があれば、の話であるが)部分も無きにしも非ずではあるが。まさに、Money Talks!というのが、資本主義社会のいいところではあるけれども。

     以前牧師先生ご一家が専制君主化した教会の問題を取り上げたが、

    教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(1)

    教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(2)


    教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(3)完結篇

    ということでも触れたが教会の成立史において、教会設立者がミニ王国を作り上げる、ということは案外重要であると思わされた。

    イケイケどんどん型の宣教スタイルの限界
     現代は人口減少社会である。この中で、教会の教勢(教会人口)の拡大を地方部で目指そうなぞ、基本思いつく方が、現代の人口学的概念から言えばかなり無理であると思うのだが、第2次キリスト教ブーム(1950-1960年代)の頃教会生活を送った人からすると、若者や子供で教会があるれるという現象、それが起きないのが不思議、ということになるのだろう。そして、それは牧師が手抜きをしているという批判に直結しやすい側面があるようである。そんなことを言われても、地方部での、人口減少、少子化、高齢化があり、土台どうしようもない現実があることから、かなり厳しいことは間違いはないのだが。
     その教会はその人物とその親族の献金に支えられていたから、信徒は沈黙を守る他なかった。その君主的な人物の信仰は、戦後世代の多くがそうであったように明治時代以来の富国強兵策のあおりを受けて、追い付け追い越せの拡大思想で、若い牧師に強力な宣教を迫った。
      おぼろげにその辺の事情に気づいた私は、その若い牧師を応援すべくその教会に何度か出向いていたが、喜んだのは信徒の方で、私の協力はかの人と若い牧師との溝をますます大きくすることになってしまった。案の定2、3年して、その牧師はそこを追いだされてしまったのである。そして私の耳に入ってきたのは、 「あの牧師は事例研(引用者註 工藤さんが主宰しておられる研究会)に行ってからおかしくなった」という言葉であった。(同書p.111)
     こういう悲惨な現実は、結構日本の地方部の教会であるようである。自分が老人であるのを棚に上げ、教会が老人だらけではないか、もっと若い人がいる活気ある教会にならないのか、と牧師にだけ問われても、そんなの「無理ゲー」といわざるを得ないのではないだろうか。

     「そこまでおっしゃるなら、あんたの孫をテレビやゲームの前から引っぺがして教会に連れてきてください。あなたの息子のゴルフクラブを炎上させて、日曜日はゴルフ場に行かせるのではなく、教会に来させてください」と逆切れしてない牧師の皆様方を個人的に尊敬している。自分ができないことを牧師に期待するというのは、それは期待のしすぎではないか、と思う。昔は遊びといえば、ベーゴマにメンコ、紙芝居しかなかった世界と、テレビもあれば、衛星放送もあり、受苦もあり、PSPやニンテンドーDSもあれば、インターネットの世界もあるこのご時世を同列に扱うことの方が問題ではないか、と思うのだが、どうだろうか。

    人権思想や民主主義とキリスト教会

     この前、木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その4 でも触れたが、人権思想の結末がどうかは別として、人権を言うためには、聖書の理解は欠かせないし、教会から生み出されていったものとしての人権はあったのである。森本あんり先生の『反知性主義』を巡って書いた反知性主義をめぐるもろもろ シリーズや深井先生の『神学の起源』を巡って書いた深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ シリーズなどでもちょろっと触れたが、これらを生み出す土壌になった背景の一つとしてキリスト教は欠かせない。

     しかし、教会の属人的支配、封建領主的支配、専制君主的支配の問題は日本では深刻な問題を今なお徳地政治の問題とかかわり続いていることを、工藤さんは次のように指摘しておられる。
    こうしたテーマはこれからの日本のキリスト教、そして教会を考える場合にないがしろに出来ないことのように思われる。民主主義や人権思想を土台とした西洋型キリスト教では通用しない問題を抱えているからである。(同書 pp.111-112)
     しかし、こう言う徳治主義的、家族経営的、あるいは専制君主的属人的支配は、神の支配(すなわち、神の国)とまともにぶつかるはずなのであるが、こういう支配したがる人たちは、自分こそ神を理解している信徒であり、神と共に在ると思いがちなので、自分の支配と神の支配が一致していると思い込む傾向はあり、それが大きな被害をもたらすことは多々あるようである。

     尚、ミーちゃんはーちゃんとしては、西洋型キリスト教が全てではないとは思うし、日本型キリスト教とか、温帯モンスーン型キリスト教というのはあってもよいと思うが、それが聖書全体の理解とどうバランスをとるか問題ということはもう少し考えられてよいと思っている。

     特に、この問題に関して、今現状の日本のキリスト教会で起きている問題は、多様性を積極的に評価し、包括的に吸収しようとするアメリカのキリスト教界で育った日本人キリスト者が、日本におあるキリスト教界に受け入れられないという異なるキリスト教土壌間の移植と定着の問題である。

     日本のキリスト教会側は、ここは日本におけるキリスト教会であるという論理を優先させ従来のその教会固有文化を重視するし、アメリカで信仰を持った日本人キリスト者は、自分たちがアメリカで出会ったキリスト教文化をキリスト教文化そのものであると思い込み、対立が起きたり、アメリカで信仰を持った日本人キリスト者が日本の教会から追い出されるというろくでもない現象が起きている場合もないわけではないようである。

     しかし、もし、アメリカ人やヨーロッパ人で日本語を話すパッと見アメリカ人やヨーロッパ人のキリスト者がアメリカで信仰を持った日本人キリスト者と同じことを言ったとしたら、どうなるであろうか。排除される可能性は案外小さくないと思うのだが。しかし、これは、パウロが主張した次の内容と同じかどうかをもう少し考えてみた方がいいかもしれない。この問題は、教会が何を重視しているのか、という価値の問題を問うからである。

    【口語訳】ローマ人への手紙
     3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
     3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
     3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
     3:30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
     3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。
    企業卒業者や女性と教会内問題
     同書の中で、工藤さんは、企業人が教会に入ると役員になりたがり、そこで繰り広げられる論理はキリスト教の論理と程遠い企業経営の論理となりがち、という日本のキリスト教の問題をご紹介されている。

     近年、退職された企業卒業者の男性信徒が教会に多少なりとも増えている模様である。それはそれで喜ばしいことかもしれない。あるいは、神学校にお伺いしても、学校卒業直後、あるいは、企業で数年すごされて神学生になられたお若い神学生の方よりも、だいぶん成熟された神学生の方が数多くみられる。これもまた喜ばしからずやであるが、世俗社会の中で失った肩書を教会内での肩書で代替しようとしている方がおられないことを願うばかりである。

     まぁ、献身者の方であるから、そういうケチなお考え(本田司祭のお言葉から借用)で献身されているのではない、と確信している。そして、東芝の役員会の内紛同様の内紛を教会で繰り返されないことを願うばかりである。


    47News様より

     これら企業卒業後の男性信徒の方の問題に触れた後、工藤さんは教会と女性たちの問題について次のような記述をしておられる。
     女性の集まりにはどういうわけか男性社会とはまた違った形での仲間割れ、分派が生じやすい。いつの間にかその女性たちの力は温厚な老牧師を操作し、干渉しだした。
     その紛争に巻き込まれ、疲れ果てた女性の一人は私に行った。
     「私はあちこちの教会に行きましたが、この教会の女性たちのパワーを見て、ここはとうてい私のいるところではないと思ったのです。」
     聞けば、教会を助ける、宣教師を助けるという掛け声はいいが、その活動は自分たちの能力の誇示であり、何事かにつけ二つのグループの確執があって、疲れ果てたのである。
     (中略)そしてその女性の一言が私をどきりとさせた。その教会では、「元気のいいこと、輝いていることがよしとされるのです」と。
     教会活動が自己実現、自己顕示性の場と化してしまっては、「力と愛と慎み」の場であるべき教会がその本質をたがえた比較・競争の場になってしまうに違いない。(同書 p.114)
     女性信徒の問題は、結構ややこしいのである。ミーちゃんはーちゃんも、このあおりを食らって結構面倒なことに巻き込まれたことは一度や二度ではない。「小人閑居して…。勝手にもめて騒いでくだされ」と言いたくなることが多いのだが、相談が持ち込まれた時に、まかり間違ってもそんな対応したら、火に油どころか、火にガソリン、火にダイナマイトを投げ込むようなことになることは、経験知として申し上げられる。もう、こういうことが持ち込まれたら、ひたすら聞き役に回るしかない。まぁ、大概はそれで収まることが多い。おさまらない時が大変であるけれども。

     日本では、最近男女雇用機会均等法が始まってから30年近くになるので、だいぶん女性の社会進出の問題とそれに伴ういざこざの問題はある程度、解決がついてきたのであるが、60過ぎのご妙齢の皆さんほど、実力がありながら発揮できない人生を歩まれた人々もおられたりするので、女性が活躍できる場になると、嬉々として(時に鬼気迫る雰囲気で)ご活躍の皆様もおられる。そうなると、必ず普段は敬虔なことをおっしゃっておられる信徒の方々の中に、「自分たちの能力の誇示」される方々が出てくるのである。こういう方を皆さんがみている前で気軽にお諫めなぞしたら、あとでえらい目にあうから、ご注意召されたい。

     実は、カトリックのある司祭の方とお話ししていて、男女雇用機会均等法などがない昔、女子修道会は、まさにこういう女性実力者の方のたまり場のような感があった、というお話を聞いたことがあるが、そこにかかわらなければならなかった男性司祭は、結構大変だっただろうとは思う。まぁ、Sister Act(邦題 天使にラブソングを)に出てくる女性修道院長は、完璧にそんな感じがあるけれども。



    天使にラブソングを 予告編

     尚、現代日本では、シスターの成り手がおらず、女子修道会の高齢化が極めて進んでいることは、上智大学の大阪公開講座にお伺いした時に、何度か経験させていただいている。

     ところで、工藤先生は、そしてその女性の一言が私をどきりとさせた。その教会では、「元気のいいこと、輝いていることがよしとされるのです」ということをお書きになっておられるを見て、ここにも繁栄の神学の影響がみられるのだなぁ、と素朴な感想を持った。そんないつも元気よく輝くなど、カリフォルニアの青空のような脳天気な生き方をすると、結構ハイストレス環境なのであるのである。しんどいのである。そのハイストレスな生き方で、自分自身が潰れてしまうと思うのは、私だけであろうか。

     まだまだ続く。





     
    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2015-06-05)
    コメント:絶賛お勧め中である。

    評価:
    A.E.マクグラス
    教文館
    ¥ 1,944
    (2004-06)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    マーク・R. マリンズ
    トランスビュー
    ¥ 4,104
    (2005-04-28)
    コメント:日本で特殊発展したキリスト教に関する著者渾身のフィールドワーク

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